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大胡城


 

所在地 前橋市河原浜町
築城年
築城者 大胡氏

 

 

大胡城跡は、上毛電鉄大胡駅の東北760mのところにある。また、市立大胡幼稚園の南である。
城址公園としてよく整備されていて、巨大な土塁、深い堀と見ごたえ充分。惜しむらくは周辺のかなりの部分が削られていることか。

縄張図(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より

 

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本丸北の堀から
見上げるような土塁に圧倒される
本丸北の堀を登っていくと二の丸に着く。

二の丸。広い!
南の登口から入ると、ここに着く。

二の丸と本丸をつなぐ土橋

 

本丸跡の標柱。理由はわからないが、
石垣のようなもので東西二分されている
本丸 背後の山は赤城山
本丸南の土塁

 

本丸西の土塁  二の丸にある枡形門
案内板(クリックで拡大) 水の手 二の丸の虎口か?

 

大胡氏(おおごし)は、藤原姓足利氏の流れをくむ。
藤原姓足利氏とは足利尊氏に代表される源氏の一族ではなく、平将門の乱を平定した藤原秀郷(?〜?)の後裔で、足利荘(現 栃木県足利市)を領した足利成行を祖先とし、成行の子の重俊が大胡にあって大胡氏を称したのにはじまる。

「大胡」という地名からは上野三碑の一つ、多胡(たご)碑を連想させる。大胡と多胡とは読み方によっては、どちらも「おおご」、あるいは「たご」と読めるから。
いずれも「胡(えびす)が多い」という意味だが、この場合の胡とは大陸からの渡来人を指す。事実、多胡碑のある高崎市吉井町は古代は渡来人が多かったが、この大胡の地も同様であろう。

15世紀中ごろ、大胡氏の中から大胡重行という男が武蔵国牛込(現 東京都新宿区)に移住。その子孫は牛込氏を称し、小田原北条氏に属した。北条氏滅亡後は、関東に入部した徳川家康に仕え、その後江戸幕府の旗本になっている。

東京都神楽坂にある赤城神社は、この大胡重行が創建した。
当神社の由来では1300年、大胡重治によって分霊された旨が記されているが、実際の年代も創健者も違っている。また、神楽坂という地名も赤城神社の神楽殿があったのが由来となっている(異説もある)。

 

赤城神社(東京都 神楽坂)

 

さて、時代の流れとともに大胡氏も盛衰し、城主も変わっていったが、戦国時代の後期にはふたたび大胡氏の一族が城主になり、箕輪城の長野氏の勢力下に入った。以後大胡氏は周辺諸城を従えて、ある程度の勢力はあったが著名な武将は出ていない。豊臣秀吉が北条氏に滅ぼし徳川家康が関東に入ると、大胡城は家康の家臣牧野康成が城主となった。その子忠成が1616年、越後長岡移封された後、廃城となった。


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