白倉城(麻場城と仁井屋城)
所在地 甘楽町白倉 築城年 ? 築城者 白倉氏
国道245号線の金井交差点の南西にある仁井屋城と、その500m西にある麻場城の二つをまとめて白倉城という。
この二城は攻守において互いに連携し合う、いわゆる別城一郭の縄張りになっている。仁井屋城は、本丸から四方に容易に出撃できるようになっている陽の縄張、防衛用の麻場城は陰の縄張というらしい。航空写真でもよくわかるので、縄張り図と対比するのも面白い。
●麻場城
よく整備され城址公園になっているが、少々整備過剰の感がしないでもない。安中の後閑城を連想する。
縄張は単純だが、堀の大きさ。幅と深さは特筆ものだろう。
●仁井屋城
麻場城に比して、こちらは全面農地でまったく整備されておらず、わずかに手作りの案内板と堀や土塁跡と思われるものが残っている。
手作りの案内板が微笑ましい(^_^)
堀と土塁跡 東側は急峻な崖
●白倉館跡麻場城南西に城主白倉氏の館跡がある。
ここを訪れたとき、偶然声をかけていただいた人から家に案内され、白倉氏が使用した馬具等を拝見することができた。その人は白倉氏の子孫ではないというが、敷地内には自費で石碑を建てて白倉氏をはじめ、郷土史を研究しているという。その人の驚嘆すべき博識に触れることができ、有意義な一日を過ごすことができた。
石碑 館跡 白倉氏使用の馬具
●白倉氏について
白倉氏は武蔵七党児玉党の一派である。
一説には秩父行弘の子、成季(?〜?)が上州白倉で白倉氏を称したという。成季は承久の変(1221年)で戦死したらしいが詳細はわからない。白倉氏は上州八家の一つだった。八家とは、関東管領上杉氏に仕えた重鎮で小幡・白倉・安中・倉賀野・桐生・由良・山上・沼田の各氏をいう。中でも白倉重佐(?〜?)は、上杉憲政の四宿老(長尾・大石・小幡・白倉)の一人だった。
白倉道佐(?〜1580)は重佐の子で、長尾景虎が鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式を行ったとき、側近だったという。
その後白倉氏は上杉・武田・滝川・北条と主を変え、北条氏の滅亡とともに所領を失い没落したという。