国峰城 / 峰城
所在地 甘楽郡甘楽町国峰 築城年 ? 築城者 小幡氏
国峰城は、群馬サファリパークの南東1.6kmのところにある。国道254号線を県道197号線で小幡に入り、小幡交差点を右折し次に善慶寺原交差点を左折する。直進して長善寺の先に下図左上の案内があるので、それに従って行けば「城山入口」の標識がある。しかし・・・・・。
遠望
ほどなく入口の標識を発見。しかし・・ なにやらアヤシイ道で不安になる おまけにこの標識。あえなく撤収・・
撤収。
不名誉な敵前逃亡であった。
このままでは面白くないので外堀跡を見学する。
国峰城の外堀は城の北東約2Kmにある紅葉山の麓から西に向かって330m、幅8mの規模があったというが、今では一部(なんと、わずか10m程度の短さ!)を残して農地として埋め立てられたらしい。
■峰城
峰城は、小幡の町並みを抜けて県道46号線を秋畑方面に直進すると見えてくる一幡神社の先に入口の案内がある。その坂を登るのだが、急で狭い道なので軽自動車かオートバイがいいだろう。しかしここも「熊注意」。恐れをなして遠望を撮影して直前にして撤退(泣)。
道路脇にある入口の案内 遠望
■小幡氏小幡氏は奥平氏の支族である。
武蔵七党の雄、児玉党の秩父行頼の子氏行は、上州多胡郡奥平(現 高崎市吉井町奥平)で奥平氏を称した。奥平家は嫡子吉行が継ぎ、二男崇行は小幡を領して小幡氏の祖となったという。しかし別の説では安芸国の住人赤松氏の一人、赤松則景が北条義時の娘を妻にしてその間に嫡子家憲が生まれた。後に上州に住み、妻の死後後妻を娶り、その長男吉行が奥平家を継ぎ、二男の崇行が小幡氏を称したという。
いずれにせよ、小幡氏と奥平氏は祖先を同じにする同族であった。
小幡氏の居城は最初は峰城だったが、その後いつのころか、国峰城を築いて移ったという。戦国時代、小幡氏は他の多くの上州武将と同様、平井の関東管領上杉憲政が越後へ逃れた後は武田、北条と次々に仕える先を変えている。
家の保全のためにはやむをえない措置だった。武田信玄が西上州を攻めるとき、こんな話が伝わっている。
当時の城主小幡信貞(1540〜1592)の一族に、宇田城主(富岡市)の小幡景純という男がいた。両名とも箕輪城主長野業政の娘を妻にしており、同族であるのと同時に義兄弟の間であった。景純は国峰城主になりたかったらしく、長野業政に「信貞に叛意あり」と讒言をすると業政はそれを信じ、信貞が草津温泉で湯治をしている最中に景純をバックアップして国峰城を乗っ取ってしまった。信貞は、妻をはじめ数人の従者とともに武田信玄を頼って甲斐に行き、事情を話すと信玄は殊のほか喜び信貞を上州進攻の先鋒としたという。
この話はフィクションだろう。
小幡から遠く離れた草津に湯治に行くというのも妙だし、長野業政ほどの男がこんな話を信じるとは思えない。
しかし結果として国峰城が一族に乗っ取られたのは事実であり、小幡信貞を先鋒とした武田信玄は西上州に進攻し、国峰城を落とし信貞を再び城主にさせたのだ。その後の上州の支配者の変遷は省略するが秀吉の小田原攻めの時、信貞は小田原を守備し国峰城は信貞の末弟信秀(12歳)が老臣浅鹿民部の補佐を得て守っていた。しかし上杉・前田・真田の大軍の前に国峰城はあっけなく落城。信秀は浅鹿民部に説得されいずこかに落ち延びた。その後浅鹿民部は城に火を放ち自害.した。
国峰城はそのまま廃城となり、今日に至っている。また信貞は小田原で戦死したとも、小田原城を脱出した後信濃国別所に落ち延びてそこで死去したともいわれている。さて国峰城を守っていた小幡信秀である。
落城寸前に城を脱出した信秀は、峰伝いに逃げに逃げて疲れはてて、見つけた不動明王の尊堂で寝ているところを参拝に来た僧侶に助けられた。僧侶は国峰城から5kmほど北東にある向陽寺の僧、伝州であった。事情を聞いた伝州は深く同情し、信秀を向陽寺の僧として匿った。
やがて北条氏に代わって徳川家康が関東に入ると、小幡の地は奥平氏の支配するところになった。
そんなある日、領主奥平信昌(1555〜1615)が狩の帰途、休憩のため向陽寺に立ち寄ったのである。信昌は寺の僧の中にいる信秀を見て何か気になるところがあったらしく、伝州に尋ねたところ小幡氏の一族で、自分の遠縁にあたることを知った。驚いた信昌は、妻が家康の娘(亀姫)であることから将軍秀忠に事情を話し、信秀を旗本として取り立ててもらい野殿(安中市野殿)を知行地としたのである。信秀は恩人伝州のために野殿に宗泉寺を建てて伝州を迎え恩に報いた。(一説によれば取り立てられたのは信秀の養子の直之だともいう)
向陽寺 宗泉寺
◇ ◇ ◇
確定はできないが、小幡氏は多胡碑に書かれた「羊」の子孫という伝説がある。この石碑の「羊」は古来謎とされ、方角説と人名説の二つがあったが現在では人名説が有力視されている。本名は多胡羊太夫とも小幡羊太夫ともいわれ、謀反の嫌疑で滅ぼされたがその子孫がこの地の豪族になったという。さて、どんなものか。