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松井田城


 

所在地 安中市松井田町高梨子
築城年 永禄元年(1560年)ごろ
築城者 安中忠政

 

 

松井田城へのアクセスはいくつかある。南にある補陀寺の横の道から上るのが一つ。あるいは、国道18号線脇にある「松井田城跡」の標識に従い県道に入る。しばらくすると再び入口の標識があるので、そのまま行けば駐車場に着く。

そのまま直進すると道は二つに分かれ、左に行くと水の手、やがてS字堀と通称される珍しい堀がある。その上が安中郭である。
さすがに県下屈指の堅城だけあって見事な遺構だし、城内の案内板もそのつどあってわかりやすいが、道は狭く坂は足場もよくなく(中世の城の道とは元々そういうものだろうが)見学には苦労する。松井田城はあまりにも広範囲なので一日ですべてを見るのはかなりの労力を要するだろう。

 

 

松井田城は、中央から西側にある本丸と二の丸。東側にあるそれと二の丸の東南にある安中郭に二分される。本丸と二の丸は大道寺政繁が改修したので「大道寺郭」の別名がある。安中郭は東一の郭と二の郭からなる。最初に安中忠政によって築かれたときの本丸は東一の郭だったらしい。

 

遠望

 

県道脇にある入口の標識。直進すれば駐車場になる。 左の標識のところにある案内板(クリックで拡大)
駐車場に車を止める。これから探訪がはじまる

 

水の手。道が狭いのがわかるだろうか 左の画像の拡大
S字堀(薄暗くてわかりにくいので堀跡を書いた)

 

安中廓 東一の郭(安中忠政時代の本丸)
大道寺政繁の石碑(なぜか安中廓にある) 大堀切 大堀切

 

ここは市町村合併以前は碓氷郡松井田町。隣接するのは安中市で、戦国時代の有力な豪族は安中氏である。
安中氏の出自ははっきりしないが、越後国新発田にいたらしい。長享年間(1487年ごろ)、安中忠親は越後から移り、松井田新堀の金剛寺のところに城を築いたという(松井田西城といわれている)

その後忠親の子忠清は榎下城(安中市原市)を築いてここに移り、忠清の子忠政の代になって松井田城を築き、自身は松井田にいて嫡子の忠成には安中城を築いて与えたのである。
次第に力をつけてきた安中忠政に注目した箕輪城主の長野業政は沼田城主沼田顕泰(萬鬼斎)の娘を忠政の妻にして、業政の娘を忠成に娶わせた。長野業政流の血族ネットワーク作りであった。

松井田城は信州から碓氷峠を越えて上州に入ると最初の要害であり、必然的に上州制覇を目指す武田信玄の狙うところとなる。永禄7年(1564年)、武田信玄の攻撃の前に松井田城は落城し、忠政は自害。一方安中城の忠成は降伏して所領を安堵された。

天正10年(1582年)、武田氏が滅びると、松井田城は代わりに上州に来た信長の家臣滝川一益が支配するとことになる。しかし信長が本能寺に倒れ、一益が去ると北条氏の持ち城となり、重臣の大道寺政繁(1533〜1590)が城主となった。

政繁は松井田城は西城州の要と考え、これに大改修をほどこすことになる。現在の遺構はこの時のものである。
しかし北条氏の支配も長くはなかった。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の小田原攻めがはじまると、信州より侵入した上杉景勝・前田利家連合軍の攻撃を1ヵ月も持ちこたえたが、廓が次々に落ち、敵兵が本丸に迫りさらに兵糧が焼かれたことを知った政繁は降伏し、松井田城は落城した。大道寺政繁はその後北条氏政等とともに秀吉から切腹を命じられた。

 


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