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寺尾城と浪合記


1180年、源頼朝の挙兵を知った新田義重は頼朝の招きを拒否して独力で平氏打倒を目指し、兵を上野国寺尾城に集結させました
新田義重が挙兵したという寺尾城の所在地については古来二説あって一つは群馬県新田郡新田町。もう一つは群馬県高崎市寺尾です。

徳川家康が先祖(とされる)新田義重を弔うため、大光院(群馬県太田市)を建てた時寺尾城の所在地を調査させましたが結論は出なかったようです。今でも郷土史家の間では義重挙兵の寺尾城は新田町と高崎市に分かれているようですが、さて真相はどうなのでしょう。

新田義重の挙兵当時、上野国山名郷(現・群馬県高崎市山名町)には新田義重の子、義範が父から土地をもらって山名義範と称していました。山名は寺尾の南、わずか2〜3kmのところです。

 

 

 

ではその山名義範はこの時期、父義重と共に寺尾城にいたのかと言うとそうでもないのです。彼は足利義兼と同様に源頼朝の招きに応じて鎌倉に上っていました。このため新田氏本家はその後鎌倉からは冷遇されましたが、山名氏は有力御家人として本家をしのぎ、室町時代にあっては大大名となるのです。

一方で高崎の寺尾から西へ10kmほど行ったところに里見というところがあります。(現・群馬県群馬郡榛名町里見)
ここにも新田義重の子、義俊がいて里見義俊を名乗っていました。里見氏は後に安房国(千葉県)に移り、安房の代表的な源氏一族となります。里見八犬伝の里見氏です。この里見義俊も父・義重に加勢したという記録はありません。

このように義重が高崎・寺尾で挙兵したとなると、至近距離にいる二人の息子のことは無視したか、あるいは最初から数に勘定していなかったことになります。

ではなぜ山名義範も里見義俊も父とは別行動をとったのか。
考えられることは

1. 二人とも新田義重と仲が悪くて、父の言うことを聞かなかった。(そもそも山名義範は鎌倉に行っていて、上野にいなかった。)
2. 当時の武士特有のずるさ(保身の知恵と言うべきか)から、父の了解を得て別行動をとった。当時、一族が敵味方に分かれて戦うのはごく普通のことでした。こうすれば一族は決して滅びないのです。
3. 寺尾城は高崎ではなかった。

 

私はこのすべての可能性があると思います。
そうすると寺尾城は新田郡新田町と言うことになりますが、新田町には昔も今も寺井という地名はありますが寺尾という地名はありません。新田町の寺尾城跡と言われる地は現在レストランになっていて、城跡をイメージさせるものはまったく残っていないのです。

 

寺尾城跡(新田郡新田町)

 

では逆の立場の説ですが・・・

このころ下野国(栃木県)に足利俊綱(あしかがとしつな)という豪族がいました。足利と言っても尊氏の足利氏ではなく、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(田原藤太)の子孫を称しています。

俊綱は平家側の武将でして、この時期平家の指示で上野・下野の源氏側の武将の領地に放火したりして荒らしまわっていたのです。なかなか勢いが強かったようで、上野国の次に下野で放火しはじめたところ、源氏側の小山宗政に撃退されてしまい、敗走した俊綱は殺されて藤原姓足利氏はここに滅亡したようです。

頼朝の挙兵当時、上野・下野ではこんな騒ぎがあったのです。
ここに注目しているのが群馬県内の城郭研究家山崎一氏です。
氏の著書には

こんな状況では新田郡に兵を集結するなどできることではない。新田義重の挙兵した寺尾城は高崎市である。

と書かれています。さ〜て、義重挙兵の地は高崎市か、それとも新田町なのか・・・。


 

新田義重が挙兵したと言われる群馬県高崎市寺尾の寺尾城と、次に書く伊良親王がいたという寺尾城(これも高崎市寺尾なのですが)は同一のものという確証はありません。同一であると記された資料が発見されれば、問題は一挙に解決なのですが。

高崎市寺尾に現存する寺尾城はその構造が平安末期のそれではなく、南北朝時代のものに近いため伊良親王がいた寺尾城と考えられています。ですから寺尾城とは群馬県高崎市に二箇所(新田義重が高崎の寺尾で挙兵したとして)、新田郡新田町に一箇所存在するわけです。

 

●浪合記

浪合記(なみあいき)という書物があります。
長野県塩尻から南下して伊那谷を通って岡崎に抜ける国道153号線の途中に浪合という村があってそこからとられています。

浪合村とは伊良親王終焉の地であり、この書物は南北朝の時代、後醍醐天皇の子宗良親王(むねながしんのう)とその子、伊良親王の事跡を中心に、伊良親王の子良王や彼らを奉じた武士達の物語なのです。

伊良親王。この名前は何と読めばよいのでしょう。

以前に行ったことがある寺尾城跡の説明板には「ただなが」と書いてありましたが、親王の在所があったという愛知県北設楽郡豊根村のホームページの説明には「ゆきよし」とあります。

そんなことを言えば後醍醐天皇の皇子、護良親王。
中学・高校のころは「もりながしんのう」と言っていましたが、最近では「もりよし」と言うようです。

 

で、浪合記は良王に従った人の子孫を称する天野信景という人が1709年に著したとされています。
また別の人の著作という説もあります。さらには伊良親王の記録はほとんどなく、その実在は疑問視されているところから、浪合記の史料としての信憑性は低いとされています。

今回これを紹介するのは宗良親王、伊良親王の居城とされている上野国寺尾城が我家からごく近くにあるからです。
しかし地元には、寺尾城には誰がいて、どうしていた、という伝承は全然ありません。唯一浪合記の記述から、ここに宗良親王、伊良親王がいたことがわかるだけなのです。ただし浪合記がデタラメな書物と判明したら、高崎市寺尾の寺尾城には誰がいたのか全然わからなくなってしまいますね(笑)

このページを書くにあたって寺尾城の写真撮影に行きました。堀でも撮影できれば、と思ったのです。

ところがこの山道。
・・・とても自動車で走れるような道ではなく、歩くにしても蛇でも出そうなので途中で引き返しました(笑)
以前一度行ったことがありますが、その時は原チャリで行ったのです。
30年以上もの間、道は全然整備されていません。なんとかしろ〜、高崎市!

 

 

浪合記によれば応永年間、新田氏の一族世良田正義は上野国寺尾(高崎市寺尾)に寺尾城を築き、後醍醐天皇の子、宗良親王とその子、伊良親王を奉じて北朝側と戦ったといわれます。伊良親王の子、良王は世良田正義の娘を母としてここで生まれたようです。

しかし応永19年(1412年)4月、平井城の上杉憲定の攻撃で寺尾城は落城し、伊良親王は城を脱出し信濃から三河へ行く途中、浪合で土寇の襲撃に合い自刃したのです。

 

思いきや 幾多の淵を逃れ来て この波合(浪合のこと)に 沈むべしとは (伊良親王辞世の句)

 

愛知県豊根村には伊良親王の御在所があったといわれていますが、親王は長野県浪合村で亡くなったのでは・・・。

 

愛知県豊根村にある伊良親王像

長野県浪合村にある伊良親王の墓

 

寺尾城についてはここでも書いています。

●参考資料
高崎市史、群馬県誌、浪合記、豊根村ホームページ、浪合村ホームページ


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