楠木正成
●楠木正成の登場
楠木正成はこれほどの武将でありながら前歴はほとんどわかっていません。ほぼ確実なことは、彼は河内・和泉を本拠地とする悪党だったということです。
当時鎌倉幕府は日本全国津々浦々を支配していたわけではなく、近畿地方は天皇領が多いこともあって幕府の支配力は比較的弱かったと思われます。鎌倉幕府はその成立過程からして農業政権で、幕府を作り支えてきた人たちはほとんどが大地主(つまり武装農民)でした。しかし経済圏としてみれば坂東のような東国がほぼ農業圏だったのに対し、近畿地方は商業圏といえばおおげさかも知れませんが全国的に見れば商業の発達している地域だったのです。
悪党はこうした社会環境、経済環境から生まれた反体制の新興武士団と言えます。
その語感には法律を犯す犯罪者、無法者のイメージがありますが、幕府から見てまさしく彼らは幕府にとって「悪党」でした。
その多くは野伏やあぶれ者で、強盗、ばくち、押買いなどを常習としており、幕府には手におえぬ存在だったのです。
正成自身がそうしていたのかは不明ですが、彼はこうした勢力と結びつく河内の土豪でした。戦後、能楽の観世家の系図が発見され、楠木正遠(正成の父)の娘が観世家に嫁いだことがわかりました。観世家はもともと伊賀の服部一族の出身で、服部持法という人に正成の妹が嫁いだようです。
伊賀といえば連想するのはスパイ活動で知られる伊賀者。そう、忍びですね。ひょっとしたら楠木一族とは、たとえば忍びの術を身に付けた伊賀者と同様のものを家業(?)とする氏族だったのかもしれません。
と言うのは、小説・太平記に記された彼の戦術からは、彼は正規な武士とは思えないフシがあるからです。赤坂城や千早城の攻防戦に見られる正成の戦術は悪党や伊賀者のそれ(一種のゲリラ戦術)とも思えるのです。正成の妹の子が能楽を興した観阿弥であり、観阿弥の子が世阿弥です。
能楽者は全国各地を巡業します。一説によれば、彼等は大名のスパイとして雇われ、情報収集のために各地を歩いて興行していたとか・・・。(時代は異なりますが松尾芭蕉がスパイだったと言う説もあります)
楠木正成
1331年8月、後醍醐天皇の鎌倉倒幕計画に参加した楠木正成は河内赤坂城で挙兵しました。太平記には赤坂城を包囲攻撃した鎌倉幕府軍が正成の奇想天外な策略で散々痛い目に合うシーンがあります。攻撃軍に向かって城内からは大木、巨石、熱湯を浴びせ、城外からは野山に潜伏した兵が襲撃する・・・・・。 実際にはそのような小説じみた(太平記は小説ですが・・笑)戦いはなかったと思いますが、幕府軍は城の内外から相当悩まされ、大きな損害を受けたことは事実でした。
赤坂城
では楠木正成と後醍醐天皇の出会いはどのようなものだったのか。
太平記の作者は正成の素性が悪党であることを知っていたことでしょうが、これは名将楠木正成を紹介するには少々まずいことだったのかもしれません。そこで作者は他の史書などを参考に、一種の神秘譚を創作します。
太平記によれば
倒幕の謀議が発覚し都を追われた後醍醐天皇は笠置山で失意の日々をおくっていた
ある日後醍醐天皇がまどろんでいると、夢の中に紫宸殿の庭先に大きな常磐木があらわれた
その下には百官が並んでいたが、南側の玉座(ぎょくざ・・天皇が座るべき場所)には誰もいなかった
天皇が不審に思っていると童子が現れて天皇を玉座に招いた
目覚めた後、後醍醐天皇は左右の者に「木へんに南といえば楠と書く。このあたりにクスノキという者はいないか」と尋ねると、ある者が「河内国金剛山の西麓に楠木正成という者がおります」と答えたため、後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せた
もとより創作にすぎませんが、このような話ができるということは後醍醐天皇と楠木正成の出会いの記録が残っておらず、二人の結びつきがよくわかっていなかったためです。
天皇と無名の土豪と、どういう具合に結びつくのか。
一つは後醍醐天皇側の秘密工作員ともいえる日野資朝等が、何らかの方法で正成を知って後醍醐天皇に推挙したとも考えられます。
左の写真は正成が少年のころ学問をしたという観心寺(大阪府河内長野市)です。 当時は、武士は強よければ文盲であっても恥でもなんでもなかった時代です。正成のように無名の家系でありながら学問をしたというのは相当珍しいことでした。楠氏は相当裕福な家系であり、正成の父には学問への理解があったのでしょう。
では正成はこの寺で何を学んだか。
読み書きは当然ながら、朱子学を学んだと考えられます。いきなり朱子学という言葉が出てきますが、これは後醍醐天皇の行動原理ともいえる学問であり、この寺は後醍醐天皇の大覚寺統の系列なのです。
後醍醐天皇自身がここで朱子学を学んだとも思えませんが、天皇の近臣がここで楠木正成と出会い、彼の非凡さを知って後醍醐天皇に推挙したとも考えられます。
二人の出会いを後醍醐天皇の側からみればどうでしょう。
この当時後醍醐天皇の最大の悩みは彼を支えるべき軍事力がないことでした。と言うことは天皇は武士の力を利用しなければ自分の理想を実現できないのです。天皇が発する命令書を綸旨(りんじ)と言いますが、綸旨さえ出せば武士なら誰でも天皇の言うことを聞くほど世の中は甘くありません。
綸旨を出すのはかまわないが、裏切られて幕府に注進でもされたら苦労は水の泡ではないか
綸旨を出すならはっきりと反幕府側とわかっている者に出さねばならない・・・・後醍醐天皇が悪党を利用しようと思ったのは偶然ではなく、必然のなりゆきだったと思われます。そして摂津、和泉、河内方面の豪族でその悪党と結びつく勢力と言えば・・・。
その後正成は居城赤坂城で、後醍醐天皇は笠置山で反幕府の旗上げをします。
数が違いすぎます。
数万の幕府軍に対し、赤坂城に篭る兵数はわずかに500。それも孤立無援の兵だったのです。ほどなくして笠置山の後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に流されました。
児島高徳が後醍醐天皇の行在所を訪れ、桜の木を削って 天莫空勾践時非無范蠡 と書いたのは天皇が隠岐に流される直前のことです。これは太平記の一節です。
児島高徳については、彼こそが太平記の作者ではないか、という説もあります。天莫空勾践時非無范蠡 (てんこうせんをむなしゅうすることなかれ、ときにはんれい、なきにしもあらず)
陛下、越王勾践の故事をお忘れにならないでください。時が至れば范蠡のような忠臣がきっと現れますぞ・・・・・・・私は范蠡のように陛下をお守り申し上げます。
范蠡についてはここ(隗よりはじめよ)を参考にしてください。
閑話休題
幕府軍の包囲網から脱出した正成は護良親王(後醍醐天皇の皇子)と提携して和泉・河内を中心に各地に出没し、幕府を悩ませ、さらには河内金剛山の要害・千早城に篭城し、天才的軍略と山岳ゲリラ戦で10万に及ぶ幕府の大軍を翻弄しました。
正成自身は直接鎌倉幕府を攻撃したわけではなく、彼の戦略は幕府の大軍を引きつけて長期戦に持ち込み、全国の武士達に弱体化した幕府を知らしめることだったのです。ですから赤坂城の落城も脱出も予定の行動だったのです。
そして後醍醐天皇は隠岐から脱出。新田義貞、足利尊氏が鎌倉、六波羅を攻め落として鎌倉幕府はここに滅びました。楠木正成の奮戦が鎌倉幕府の権威を決定的に失墜させ、全国に倒幕の機運を形成し、遂には足利尊氏や新田義貞ら有力御家人の倒幕参加を招いたのです。ある意味では、正成の果たした役割は尊氏・義貞以上とも言えます。
後醍醐天皇が京都に凱旋するとき、正成はその先鋒として7000の兵を率いて入洛しました。
この時が正成の得意の絶頂だったのです。
その後の正成の戦いについて詳述してもはじまりません。
彼はどのように考え、行動したのか。建武の新政が失敗すると楠木正成は新田義貞と共に足利尊氏と戦うようになります。京都での戦いに敗れて九州へ落ち延びた足利尊氏はその地で勢力を盛り返し、再び京都を目指して進撃して来ました。その情報をキャッチした正成は後醍醐天皇にこう進言します。
この際新田義貞を誅滅し、足利尊氏と和睦してはいかがでしょう
楠木正成は現在の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあることを知っており、社会を静めるには今までどおりの武家政治以外に方法はない。そして武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいない考えていたようです。彼は時勢・時流というものをよくわきまえていたのです。
足利尊氏が九州に落ちて行ったのは京都での戦いに敗れたからであり、正成の献策は勝利に奢る公家たちに受け入れられるものではありませんでした。そもそも公家たちは・・・アホらしいことですが、錦の御旗(天皇の旗印)さえあればその威光で戦いは勝利する、と考えていたのです。
正成は諦めずに足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策を述べますが、退けられたばかりか、京都を出て戦うよう命じられます。
そして太平記に有名な桜井の駅(大阪府三島郡島本町)でのエピソードが生まれます。
楠木正成は京都から戦場となるであろう湊川(みなとがわ・・・兵庫県)に向かったが、桜井まで来た時、嫡子正行(まさつら)にこう言って諭し別れて行った。
そなた(正行のこと)はもう11歳だ。私の言うことが理解できるだろうからよく聞きなさい
私は今度の戦いで戦死するだろう
そうなれば天下は将軍(足利尊氏)のものになるに違いない
しかし武士は一時的に生き延びようとして、一旦決めた節義を変えてはならない
そなたも父同様、生涯後醍醐天皇のために戦え
この話はもちろん太平記作者による創作です。当時楠木正行はすでに青年武将だったのです。
一説によればこの話は楠木正成の思想を読者に知らせるために、親が子を諭して言って聞かせるという形式にしたとか。戦前の国定教科書はこの部分をあたかも史実のように扱って、皆さん(小学生のこと)は楠木親子のように天皇に忠義をつくさなくてはなりません、と書いてあったようです。やれやれ・・・。
それと、なぜか大阪府三島郡島本町には「史跡・桜井駅跡」というものがあります。
駅とは大化改新以降、主要道路に約16Kmごとに設けられた施設で、馬をはじめ、旅に必要なものを備えてありました。なるほど駅とは馬に関係するんですね。
それにしても小説の1シーンから史跡を作るというのもすごい話です。そのうち牛若丸と弁慶が出会った橋も史跡になるかもしれません。(笑)
それはさておき
この後すぐ湊川(兵庫県)の戦いで正成は圧倒的優勢な足利軍と戦い、敗れ自刃します。
彼の死の直前の言葉が・・・七生報国です。
死の直前、正成は弟の正季に言った
正成: 人間は死ぬときの一念で生まれ変わるという。そなたは何を念ずるか 正季: 七回まで人間に生まれ変わり、朝敵(足利氏のこと)を滅ぼしたいわ 正成: 罪深いことだが、わしも同じじゃ こうして二人はからからと笑い、互いに刺し違えて死んだ
もとよりその場面を見た人がいたわけではありませんし、これも太平記の一節で小説なのですが正成の胸中はまさにこのとおりだったでしょう。足利尊氏は正成の死を惜しみ、遺体を丁重に遺族に届けたといわれます。
●楠木正成は朱子学の行者なのか
この時代の豪族らが我欲旺盛で、無知で、暴悪なことは、後世の戦国時代よりまだひどい。
(中略)
足利幕府の執事であった高師直が好色無比で、公卿の姫君らを片っぱしから犯したことは太平記にもあるが、塵塚物語によると、彼は家臣の妻でみめよい女は、これまた片っぱしから犯したとある。
仁木義長は三河・伊賀・伊勢等四国の守護であったが、神路山で狩猟し、五十鈴川で猟りするという暴悪を働いている。
土岐頼遠は外出の途中光厳上皇のご幸に出会い、下馬せよといわれて、「この頃京都でおれほどの者に下馬させるものはないはず、馬鹿者め、何を申す」と罵った。
前駆や随身の者共が走り寄って、「院のご幸ぞ。田舎者めが!」と叱ったところ
「院じゃと?犬のことか。犬なら射てくれよう」 と、弓に矢つがえし、お車を中にとりこめ、馬を馳せよせ馳せよせ、矢を射かけたというのだ。こんな人の充満している時代に、正成の精白さはまことにめずらしい。
(武将列伝「楠木正成」:海音寺潮五郎)
《注》 神路山、五十鈴川は共に伊勢神宮周辺の山川で、信仰の対象だったようです。こんなサイトがあります。
このなかで海音寺潮五郎氏は、朱子学にも弊害はあるが、後醍醐天皇と違ってその良い面は楠木正成においてもっとも表れている。彼は朱子学の行者たらんとして湊川で死んだのだ。と書いています。
中世の当時にも、もちろん武士の道徳といえるものがありました。
簡単に言えば戦士としての心構え・行動規範であり、「もののふの道」とか「弓矢の道」と呼ばれましたが、江戸時代の「武士道」とはかなりの相違があります。当時はまず武士たるものは強いことが第一義であって、相手が主君であろうが、近親者であろうが強い敵と戦い、これを倒すことが最大の名誉だったのです。しかしこの考えは江戸時代のような平和で秩序を重んじる時代にはマッチしませんので儒教、特に朱子学の影響を受けて変わって行き、その結果「主君への忠義」が第一義となるのです。
武士というものは一旦決めた志を変えてはならない
そなた(正行のこと)も父同様、生涯後醍醐天皇のために戦え
創作とは言え、これほど武士としての正成の考えを表したシーンは他にはありません。
武士は節義を重んずる、と正成は言います。
彼が純粋な人であったことに疑う余地はありません。
純粋であるがゆえに学問(朱子学)を積むにつれて、自然と彼自身の中に「武士としての定義」が形成されていったことでしょう。
その意味で楠木正成は江戸時代の武士道の先駆者であったのかもしれません。
●忠臣
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、楠木正成は朝敵とされるようになります。
しかし戦国時代になって正成の子孫楠木正虎は朝廷に献金することによって、朝敵の汚名をはらすことに成功しました。江戸時代になって徳川光圀の命で書かれた大日本史では彼は忠臣として書かれていますし講談、芝居などの大衆芸能によって楠木正成の名前は広く民衆に知れ渡るようになります。
そして明治時代以降第二次世界大戦終了時までは、国策によって楠木正成は日本第一の忠臣とされてました。(逆に日本三悪人は弓削道鏡、平将門、足利尊氏です)では、なぜそうする・・・国策で正成を忠臣とすること・・・必要があったのか。
室町時代中期以降、現在にいたるまで天皇は北朝の子孫であり、その敵であった南朝側の武将をなぜ忠臣としたのか。私は勉強不足なもので、その理由について書かれた本を読んだことがありません。
ですからここの部分はあくまで私の想像で書くことにします。
江戸時代には忠誠心とは武士道の重要な要素として当時の道徳でしたが、もちろん対象は武士に限られるわけで、決して一般的ではなかったはずです。商家などの使用人は主人にたいして忠誠を誓ったとは思いますが、武士のように自分の身命をも含めた忠誠ではなかったはずです。
明治時代になって主君と家臣という関係は消滅しました。それに代わって出現したのは国家と国民という関係です。
それは有史以来、日本人がはじめて経験することでした。それ以前は「日本国」という概念は全然一般的なものではなく、国とは信濃国や越後国のように現在で言えばせいぜい都道府県の単位であり、単に領域を示すだけのものだったのです。日本人が一部の人だけとは言え、「日本国」というものを意識し始めたのは幕末になってからと言っても差し支えありません。
司馬遼太郎は日本人は明治以降はじめて国民になった、と述べていますが、このような状態では国民としての意識など生まれるはずがなかったのです。「お家」という考えが江戸時代の武士にはありましたが、「国家」とはこの「家」の概念を発展させていったものとも考えられます。
明治政府はこのような「国民」に対して、「国家」への忠誠心を植え付ける必要がありました。富国も強兵も政府の方針だったからです。
そこで明治政府は、広く一般大衆にも知られていた楠木正成を忠臣のサンプルとして担ぎ上げたのではないか。私にはそう思えます。
ではなぜわざわざ敵である南朝側の武将を使ったのか・・・。依然として私には疑問です。
でも歴史上、天皇のために命をかけて戦った有名な武将・・・しかも忠臣とよばれるような武将・・・はそれほど多くはないのです。足利尊氏はもとより、新田義貞にしても本質は自分の天下を目指したのであり、楠木正成のように純粋な勤皇からは程遠いものでした。
源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は言うに及びません。やはり政府が忠臣として利用できるのは楠木正成しかいなかったのでしょう。
それでは忠臣とはいかなるものなのか。
斉(せい・・・古代中国にあった国の名前)の名臣、晏嬰(あんえい)は主君の景公より忠臣とはいかなるものなのか、と問われた時
真の忠臣とは国難にあたっても国に殉ぜず、主君が逃亡するときもお供はしません
と答えたといいます。
いぶかる景公に晏嬰は続けてこう言いました。主君が忠臣の意見をよく取り上げてくれれば国難はありえず、従って国外に逃げるような事態はおこらないからです
これは中国の話ですが、中国の忠臣とはみなこうなのかといえばそうでもありません。蜀の諸葛孔明、南宋の文天祥、明の鄭成功などを見ればわかります。
鄭成功は滅亡寸前の明を復興させるべく奮戦し、江戸幕府に協力を要請したものの断られたのは有名な話です。
近松門左衛門の「国姓爺合戦」のモデルとしてもおなじみです。で、日本で忠臣といえば、楠木正成以外では誰もが赤穂浪士を連想するのではないでしょうか。
別名忠臣蔵ですからね。
楠木正成も赤穂浪士も共通点があります。
どちらも主君がダメ人間で、そうと知りつつそれでもなお主君に殉じた、ということです。これなのです。
主君が名君では忠臣というものは存在したくとも、存在しえないものなのです。逆に主君が暗君(名君の逆)であればあるほど、それに殉じた家臣は忠臣として引き立ち、もてはやされるものなのです。明治政府はここに着目したのではないでしょうか。
●最後に
戦前、楠木正成の悪口を言う人は国賊扱いされ、戦後はその反動もあってほとんど無視され、「立派な人だ」と言おうものなら右翼と呼ばれかねない状況もありました。もちろんこれは戦前の反動にすぎません。
再度言います。
楠木正成は太平記では天才戦術家として描かれていますが、これは小説なので相当の誇張があるでしょう。しかし少なく見積もっても彼は日本史上指折りの戦術家であったと思いますし、また時勢をよくわきまえていたことは足利尊氏と和睦すべきだという進言からも明らかです。
彼の意見は退けられましたが、それでも彼は節義を曲げずに足利尊氏と戦い、後醍醐天皇に殉じたのです。私は楠木正成はその忠臣ぶりを国家によって利用されただけだと思うのです。
ひどい話があったもので、 この人ほど「時代の評価」という波に翻弄され、浮き沈みした人も珍しいのではないでしょうか。
でもそれは楠木正成自身には何の関係のないことなのです。徳川光圀はその著「大日本史」の中で正成を大忠臣として絶賛していますが、反対に福沢諭吉は正成の死は犬死にであると酷評しています。これは少々短慮、浅はかな見解ではないでしょうか。
鳥居強衛門(とりいすねえもん)という人がいます。
長篠の戦の時武田軍に捕らえられたが、織田・徳川連合軍がすぐに来るから早まって降伏してはならないと叫んで殺された人です。福沢諭吉は鳥居強衛門の死も犬死というのでしょうか。
楠木正成にしても鳥居強衛門にしても、彼等の行為を批判することは容易です。正成の盲目的忠臣ぶりは現代人の理解を越えるものがありますからね。もっとも現代サラリーマンには「過労死」する人もいますが。我々は歴史の結果を知っていますから、あれこれ当時の人を批判することができます。その場に居合わせない人の、安全な立場からの無責任な中傷もかなりあります。
しかし時代の流れを越えて、人の精神の美しさを理解できないのは批判する人自身の精神が醜いためだ、とは言いすぎでしょうか?朕を助けよ
楠木正成のような無名の土豪にとって、天皇という神にも等しいような身分の人から声をかけられた時の感動はいかほどであったか。
おそらく現代人の想像を絶することだったでしょう。この点、劉備に三顧の礼で招かれた諸葛孔明を連想させます。朱子学という学問の裏付けだけでなく、この感動こそがその後の楠木正成の行動のエネルギーとなったのではないでしょうか。
私は楠木正成は当時の武将としては珍しく明確な行動基準を持ち、それに殉じた立派な人だった。俗に言うなら「男の中の男」だったと思うのです。
●参考資料
武将列伝(海音寺潮五郎)、逆説の日本史(伊沢元彦)
河内長野市ホームページ、観心寺ホームページ 千早赤坂村ホームページ