後醍醐天皇
鎌倉時代末期から南北朝にかけては、わずかの期間に実にいろんな事件が起きています。
主なものを整理すると次のようになりますのでご参考までに。
年代 |
出来事 |
1324年 | 正中の変、倒幕の密某露見 |
1331年 | 天皇笠置山に潜伏、楠木正成赤坂城に挙兵 |
1332年 | 天皇隠岐に流される、護良親王吉野に挙兵、正成千早城にこもる |
1333年 | 天皇隠岐を脱出、足利尊氏六波羅を攻める、新田義貞鎌倉を攻め倉幕府滅ぶ、天皇京都へ還幸 |
1334年 | 建武の新政はじまる |
1335年 | 中先代の乱、護良親王殺される、足利尊氏反す |
1336年 | (1月) 尊氏 京の戦いに敗れ、九州へ落ちる (5月) 尊氏 再度東上、湊川で楠木正成死す (8月) 尊氏 入京、光明天皇(北朝)を擁立 (12月) 後醍醐天皇 吉野で南朝樹立 |
1338年 | 新田義貞越前にて戦死、尊氏北朝より征夷大将軍に任ぜられる |
1339年 | 後醍醐天皇死す |
●両統迭立
1172年、朝廷の実権を握っていた後嵯峨上皇は後継者を指名しないまま死去しました。
朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛が起こり、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂し、140年もの間争うことになります。1317年、窮した朝廷が幕府に調停(シャレではない)を依頼した結果、幕府の折衷案を受け入れることになります。
両統迭立(りょうとうてつりつ)とは皇位を持明院統と大覚寺統という二つの皇統が交互に継ぐことを言います。
この部分は大変分かりづらいので、左の継承図を見ながら我慢して読んで下さい。数字は皇位継承順です。 後嵯峨天皇は譲位して長男の後深草天皇を即位させましたが、次男の亀山天皇を盲愛し後深草天皇を無理矢理退位させ、亀山天皇を即位させました。後嵯峨上皇はさらに亀山天皇の皇太子として、亀山の皇子(後宇多天皇)を立てたのです。 後嵯峨法皇は死の直前、所領の分配をしたのみで皇位に関しては本意を明らかにせず、自分の死後の治天の君(実際に政務を取る天皇家の主)は幕府の推戴に任せるとのことでした。 北条氏が後嵯峨上皇の意に従い亀山天皇を治天の君と定めると治天の君として院政を望んでいた後深草上皇の失望不満は大きく、ついに天皇方と院方の対立へと発展して行きます。 しかし亀山天皇は後深草上皇の不遇に同情し後宇多天皇に譲位した後、皇太子に上皇の皇子(伏見天皇)を立てたのです。 その後幕府が両統迭立の案を立てると、この案にもとづき両統の代表者である後伏見上皇と後宇多法皇が談合して今後両統から確実に交互に皇位につくことが約束されました。 (余談ですが、頓知問答でおなじみの一休さんは後伏見天皇の子孫です) |
元寇以降、鎌倉幕府の支配力は急速に衰えていきます。
鎌倉幕府の役割とは簡単にいえば武士の利益を保護し、トラブル(その多くは土地問題)を調停することでしたが、それが出来にくくなってきたのです。元寇の役でとりあえずは元軍は退けたものの、全国の武士達は疲弊の極地にありました。彼等は幕府の命令とはいえ国庫から費用が出るわけではなく、すべて自前で戦ったのです。
幕府側にも武士達に恩賞を与えたくも与える土地はなく、北条氏の領地をなんとかやりくりするにも限度がありました。執権北条時宗は山積する問題を前に34歳の若さで過労死してしまいます。
恩賞はロクにもらえず、訴訟を起こせば幕府の要人に賄賂を贈る方が勝つ・・・・・。
何のための幕府なのか
御家人たちの矛先は北条氏に向かいます。
時宗の後を継いだのは貞時。当時14歳。その後を継いだのが最後の執権、北条高時です。
●後醍醐天皇の理想と挫折
一方この時期、武士とは別の角度から鎌倉幕府を、いや、武士の存在自体を疎ましく思う人が出現します。
後醍醐天皇です。
両統迭立の原則に従って花園天皇の譲位した後を受けて即位したのが後醍醐天皇です(1318年)。後醍醐天皇の皇太子(後二条天皇の皇子)が早世すると、後醍醐は自分の皇子を皇太子に立てようとしましたが、幕府は先の和談に従って持明院統の量仁皇子を皇太子に立てました。これによって後醍醐天皇はひどく幕府を恨んだといわれます。逆恨みですね。
歴代の天皇の中でこの人ほどイデオロギー的な人も珍しいでしょう。彼は一生をかけて自分の「理想」の実現を目指したと言っても過言ではありません。
しかし後醍醐天皇の思いとはうらはらにその理想は一時的には実現したものの、時の流れに反したがために、その行為は数十年にわたる戦乱の発端となり、失意のうちに生涯を終えます。
後醍醐天皇の目指した理想とはなにか。
それは武士による支配を改め、再び天皇を頂点とする公家政治をはじめることだったのです。そしてそれを理論的に支えたのは中国から伝来してきた朱子学でした。朱子学とはここにも書きましたが、後醍醐天皇はこの思想の大義名分論を重視し、
この国の正当な支配者は誰なのか
と自問します。それから直線的に
日本の正当なる支配者は天皇家である。天皇は絶対の正義であり、逆らうものは絶対の悪なのだ。
それは朱子学の理論に照らしても正しい。
自分の理想の実現には鎌倉幕府を倒さなければならない。
と考えるようになるには、それほどの時間はかからなかったでしょう。
しかしここで後醍醐天皇は強烈なジレンマに陥ります。
自分に味方する武士がいなくては幕府を倒せないからです。天皇には護衛兵はいても、軍事力はありません。
なぜなら国軍は遠い昔、桓武天皇の時代に廃止されたからで、幕府を頂点とする武士団は天皇の指揮下にはなかったからです。(ちなみにこの状態のまま明治時代になります)やむなく後醍醐天皇は各地の有力豪族に綸旨を発し、倒幕を命ずる以外方法はありませんでした。この時だけは後醍醐天皇と、幕府に不満をもつ武士達の利害はとりあえず一致したのです。
足利尊氏、新田義貞等によって鎌倉幕府が倒れ、北条氏が滅亡したのは1333年5月のことでした。
●失敗した新政
後醍醐天皇の新政は結論から言って大失敗でした。
その内容はいろいろありますが大きく分ければ恩賞と新税があげられますし、失敗した理由は後醍醐天皇の政治が時代にマッチしておらず、民衆の支持を得られなかったためです。
倒幕に参加した武士達は当然ながら恩賞を欲しました。
元寇以来、彼等のフトコロはひっ迫していたのです。しかし恩賞の不公平さは武士達の期待を見事に裏切ってしまいました。足利氏と新田氏はともかく、楠木正成はわずかに河内守に任ぜられただけでした。恩賞だけではなく土地の名義を勝手に変えられたり、いつの間にか一つの土地の名義が複数の武士になっていたことも珍しからぬこだったのです。
その混乱に輪をかけて、内裏建築のための増税が加わります。
その取立ては守護や地頭の任務ですが、従来からの守護・地頭はほとんどが罷免され、新たな守護・地頭は朝廷から任命された人達でした。守護・地頭といえば聞こえは良いですが政治のやり方も良くわかっていない公家たちが選んだ者達です。ごろつき、あぶれ者も多かったようで、彼等が任地でどのような取立てをしたか容易に想像できます。
このような武士を無視した新政の背景には、当時の公家たちにあった「選民思想」があります。公家は選ばれた者であり、万民の頂点に立つべきもの、という思想です。後醍醐天皇の側近北畠親房はその著、神皇正統記で、こう書いています。
北条が滅んだのは武士の功績ではない。天の意志である。
そもそも武士などは、以前は朝敵(朝廷の敵)であった。天皇に味方したおかげて家を滅ぼさなかっただけでも感謝しなくてはならない。
その上さらに恩賞が欲しいなど、不届きである。
これが当時の公家一般の考えだったのです。
まったく人間というものはここまで思い上がれるものなのか。
現代の感覚で笑うのは簡単ですが、それが『歴史の流れ』というものなのでしょう。もっとも北畠親房がこれを書いたのは1338〜1339年のことで、すでに建武の新政は破綻し後醍醐天皇が吉野に亡命政権をたてた後でした。公家政治が世に受け入れられなかったので、余計武士に対する不満がつのっていたに違いありません。
武士の立場から見れば、平安末期には彼等の不満のエネルギーが貴族政治を崩壊させ鎌倉幕府を樹立させたのです。鎌倉政権は時代の流れにマッチした政権でした。
武士の殆どは後醍醐天皇の思想、新政治への抱負を知らずに後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府を倒しました。知らなかったのは無理のないことで、この時代、選挙演説などありませんから政治家が他人に自分の考えや公約(?)を知らせる義務などなかったのです。
でも比較的後醍醐天皇の近くにいた楠木正成などは、あるいはこうなることを予測していたのではないでしょうか。この想像はちょっと自信がありませんが。
さて武士達は単に鎌倉幕府(北条政権)に失望していただけであり、武家政治そのものに失望していたわけではないのです。
彼らは今さらながらに自分達の利益を守る人・・・鎌倉幕府に代わる新たな武家政権・・・が現れるのを切望するようになります。そしてその武家政権の代表者といえば、最大の実力者と誰もが認める足利尊氏以外にはいませんでした。
後醍醐天皇の新政に不満を持ったのは武士だけではありませんでした。
天皇はそれまで存在した関白職を廃止し、一切を独裁するようになります。神皇正統記の北畠親房の批判は武士だけではなく、天皇もその対象でした。天皇たる者はその政治制度を重んじ、正しく運営しなければならない。天皇は政務の遂行に際しては補佐の臣を選んでそれを通じなければならない。前例というものをよく調べよと親房は言います。
親房は伝統的な前例主義者であり、独裁者というものを認めない保守的な人間だったのです。
独裁者とは何か。簡単に言えば『俺がルール・ブックなのだ』という存在です。日本史には例えば中国皇帝のような、強烈な自我を持つ独裁者というものが登場したことがありません。これは日本人というものの人間的な性格によるものなのか、あるいは独裁者が生まれにくい、生まれたとしてもそれを認めない風土、国民性があるのかもしれません。
それでなくとも何かにつけて自分のすることに反対する公家たちに後醍醐天皇が言った有名な言葉があります。
朕の新儀が未来の先例なり (私がこれからすることが、将来の前例になるのだ)
私はこの言葉自体はけっしてキライではありません。公家というものはいわゆる前例主義、慣例主義で、新規なものを伝統的に拒否するものです。前例がないからこそやってみなくてはならないこともありますからね。
とにもかくにも、後醍醐天皇は武家だけでなく公家からも見離されていきます。前例のないことを次々に実行しただけではありません。後醍醐天皇に優遇されたのは一握りの公家・・・能力のあるなしではなく、後醍醐天皇に気に入られた人が多かったからです。後醍醐の愛妾、阿野廉子がそれを代表します。
この社会情勢を巧みに批判し、諷刺して見せたのが有名な二条河原の落書です。
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナル、訴訟人 文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者・・・・
このごろ都にはやるもの。夜討ち、強盗、にせの天皇の命令書。囚人、早馬、意味のない騒動など。また、僧から俗人にもどるものや、逆に、勝手に僧になる者が目につく。恩賞により名もない土豪から急に大名になった者がいるかと思うと、路頭に迷う者もいる。所領の保証や恩賞にあずかるために、いつわりのいくさを申し立てる者もいる。
恩賞担当役の公家は、お気に入りの遊女から「私も人に生まれたからには一坪でもいいから土地がほしい」と言われたところ、すぐに土地を与えたと言われます。命がけで戦った武士達にはほとんど与えられていないのに・・・・。
●新たな戦乱
1335年7月。鎌倉幕府が滅びてわずか2年後。
信濃国に潜伏していた鎌倉幕府最後の執権北条高時の遺児北条時行は新政に不満を持つ豪族達と共に決起し、一路南下し鎌倉に攻め込みます。鎌倉を守っていた足利直義は一戦して破れ、鎌倉を脱出して三河まで逃げて京都にいる兄尊氏に援軍を求めます。後醍醐の皇子護良親王が殺されたのはこの時のことです。
関東の騒動を鎮めるため征討将軍に任命されることを願った尊氏ですが、朝廷から却下されてしまいます。これは後醍醐天皇が当時最大の軍事実力者であった尊氏のさらなる勢力増大を危険視したためです。
しかし尊氏は朝廷に無断で京都を出て直義と合流し、関東に向かい北条軍を破ります。その後尊氏は帰京せよとの朝廷の命令を無視し、鎌倉において独断で論功行賞を行うようになりました。
論功行賞とは功績のある者にそれに相応しい恩賞を与えることです。かつて源頼朝が時の朝廷からこの権利を譲渡されたことで、頼朝は全国の武士への命令権を獲得しました。命令と恩賞とは一体のものですからね。それは鎌倉幕府成立前の重大な布石だったのです。ですから尊氏の行為は朝廷への反逆でした。
足利尊氏に対抗できるのは、実力でははるかに劣りますが新田義貞以外にいません。朝廷はあらたに新田義貞を将軍とする征討軍を編成し、足利軍と戦わせることになります。しかし新田軍は箱根竹の下の戦いで敗れ、その余勢をかって足利尊氏は京都に進撃します。(1335年12月)
京に入った尊氏は楠木正成の巧みな戦術に翻弄され、さらには北畠親房の子、顕家率いる優勢な奥州軍が着陣するとついには敗れ、九州に落ち延びます。しかしわずかの期間で体制を整え、再び京都に向かって進撃を開始しました。
京都から脱出した後醍醐天皇は比叡山で湊川の敗戦を知り、とりあえず足利尊氏と和睦することを思いつきます。これに反対する新田義貞に対して後醍醐天皇は
自分はもう隠退し、恒良を天皇とする。おまえは恒良、尊良と共に越前へ行け
と言います。越前には新田氏の領地があったのです。(恒良親王、尊良親王は共に後醍醐の子です)
しかし新田義貞等が立てこもった越前金ケ崎城は越前守護の斯波高経に包囲され、窮した義貞は城を脱出し杣山城へ移ります。そこで兵を集め斯波高経の軍を金ヶ崎城と挟み撃ちにする作戦でしたが、募兵に手間取るうちに金ヶ崎城は落城。尊良親王、新田義顕(義貞の長男)は自害し、恒良親王は捕らえられて後に毒殺されています。恒良親王はわずか14歳でした。
その一方で幽閉されていた後醍醐天皇は、足利尊氏に強要されて三種の神器を尊氏に渡してしまいます。足利尊氏はこの三種の神器をもって、光厳上皇の弟を天皇に即位させるのです。光明天皇です(1336年8月)。その3ヵ月後。足利方の監視の隙をついて後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野山で亡命政権をたて、ここに南北朝が始まるのです。
後醍醐天皇は
足利に渡した三種の神器はニセ物で、自分こそ真の天皇である。我に忠義を尽くすなら逆賊尊氏を討て
と命じました。新田義貞に言った皇太子を恒良親王とすることもでたらめで、義貞は後醍醐天皇に利用され、切り捨てられたのでした。
これこそ後醍醐天皇という人の本質なのです。
この例だけでなく後醍醐天皇は極めて明敏な人でしたが、一人の人間としてみた場合、性格上の欠陥も目立つ人でした。当時貴人情を知らず、という言葉がありました。
身分の高い家に生まれた人は、人に奉仕されても奉仕したことがなく、その感覚は一般の人とはかけ離れていて、人を平気で犠牲にすることがあるのです。後醍醐天皇の身勝手さの犠牲になったのは武士だけではありません。
鎌倉時代末期、倒幕の密謀が露見して幕府に追求された後醍醐天皇は知らぬ存ぜぬで押し通し、最後には密某は側近の日野俊基が勝手に仕組んだことと言って逃げています。これが露見したのは後醍醐天皇の側近、吉田定房が幕府に密告したためでしたが、真相はどうも密某がばれそうになったことを知った後醍醐天皇が先手を打って、わざと吉田定房を使って幕府に密告させたようです。後醍醐天皇の吉田定房への信任はその後も変わっていないのがなによりの証拠です。事件が起こると秘書の責任にする政治家は昔からいたのです(笑)
鎌倉幕府滅亡後、武士達にたいした恩賞を与えなかったことはさすがに後ろめたかったようです。
その不満の代表格は足利尊氏でした。実際には尊氏はそれまでは高氏と名乗っていましたが、後醍醐天皇は、「オレの名前の一字をやるから不平を言うな」とばかりに名前である尊治(たかはる)の一字を与えます。足利高氏が尊氏となるのはこの時のことです。
当時主君の名前の一字をもらうことは非常に名誉なことでした。
しかし・・・・ただそれだけで何も実質的なものはないのです。尊氏の不満はさらに高まっていきます。それを察した後醍醐天皇は皇子の護良親王に尊氏暗殺を命じます。しかし尊氏は逆に護良親王を謀反の疑いがあるとして捕らえ、後醍醐天皇には、「私を狙ったのは天皇のご命令でしょうか」、と詰め寄ります。
あわてた天皇はここでも知らぬ存ぜぬを押し通し、その結果護良親王は鎌倉に幽閉され、後に尊氏の弟、直義に殺されることになります。鎌倉に護送される護良親王は一言、尊氏より父がうらめしい、と漏らしました。後醍醐天皇は息子をも切り捨てたのです。
天皇の持つ力を権威と権力に二分するなら、天皇は古くから権威はあっても権力のない存在で、実際の政治は天皇の代行者が担当していました。聖徳太子や蘇我氏がそれを代表します。
中大兄皇子は天皇親政(天皇による直接政治)を目指しそれに成功したのが大化の改新でしたが、10世紀ごろから再び「代行者(藤原氏)」による政治が摂関政治として復活してきます。そうした中で院政は新たな宮廷革命でした。
《院政》
太上天皇(上皇、法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり、摂関政治上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し、白河上皇の専制的権勢のもとに定着した政治形態を後世の史家が院政と名付けた。(平凡社世界大百科事典)院政とは実権を持つ上皇(治天の君)が執政する政治形態であり、天皇とは将来「治天の君」になるための見習期間で、まったく権威も権力も持たない状態だったのです。
南北朝の抗争は別の観点から見れば院政派と親政派の抗争でもありました。院政は1086年白河法皇から始まり1321年まで続きましたが、後醍醐は院政を否定し、親政をめざしました。
1185年、壇ノ浦の合戦で三種の神器は安徳天皇、二位尼(平清盛の妻。安徳天皇の祖母時子)と共に海に沈みました。源氏方の必死の捜索で勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣は発見できなかったため、草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用する ことになります。この代用を含んだ三種の神器で即位したのが後白河天皇です。
剣が代用でよいなら、鏡と勾玉も代用でかまわないはずです。
つまり三種の神器で天皇の正統性を主張することは150年も前からできないことで、神器の持ち主よりむしろち治天の君に指名される者こそ正式な天皇と考えられていました。ですから後醍醐天皇が信じた三種の神器の価値とはもはや滑稽劇でしかなかったのです。しかしそれ(滑稽劇)は後世になってわかること。
当時は三種の神器の価値、権威は絶大なものだったと思います。
そうでなければ楠木一族のように純粋な忠義心からではなく、なぜ多くの他の武士達が南朝を支持したか説明できないからです。
結局のところ南北朝とは朱子学と言う理念先行の学問にかぶれた後醍醐天皇が、当時の大多数の社会分子である武士を無視して強行した時代錯誤の政治からはじまったのです。こんなバカげた争いはそれ以前にも、それ以降にもありません。後醍醐天皇は自分のせいで日本中が大混乱していることにいささかの責任も感じず、その死の直前にこう言い残したようです。
・・・ただ生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり
これ思ふ故、玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。
もし命に背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ
我が願いは朝敵を滅ぼし、四海(四方の海・・・天下のこと)を太平にすることである
だから我が身はたとえ南山(吉野のこと)の苔に埋もれても、魂はいつも北闕(京都のこと)の空にある
もし我が遺言に背くなら、皇位をついでも真の天皇ではない、臣下も忠義の臣とは言えない
我が願いは太平の世である。我が子孫はあくまで北朝と戦えとまで言ったのです。両朝が合一(統一とは違い、力ずくで合わせること)されたのは1392年。足利尊氏の孫、足利義満の時代でした。
後醍醐天皇の生涯をみると、政治家というものは時代にマッチしていなければならないと思います。また一般の国民を無視した政治というものは結局のところ長続きしないものだとも思います。
前記と重複しますが、日本史にはヨーロッパや中国でいうところの絶対権力者、独裁者というものが存在しません。それでも独裁者と言う言葉にすぐ連想するのは織田信長と後醍醐天皇です。それだけこの二人は日本人としては強烈な個性の持ち主でありました。
しかし信長は時代の要求によって生まれたと思いますが、後醍醐天皇は時代に望まれた人ではなかったのです。
●参考資料
武将列伝(海音寺潮五郎)、逆説の日本史(伊沢元彦)、天皇家はなぜ続いたか(今谷明)