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■ 国譲りの神話

はるか大昔。大和朝廷の母体が奈良盆地に生まれた後、母体は近隣諸国の侵略を開始しました。西暦3〜4世紀のことと思います。
この時大和に降伏しないで抵抗し、戦った人達は「従(まつろ)わぬ人」と呼ばれました。
代表的なのは九州の隼人(はやと)と熊襲(くまそ)、それに東北の蝦夷(えみし)などですが、神話にある大国主命もその 一人でしょうか。

日本神話によれば、大国主命が統治していた豊葦原中津国(トヨアシハラノナカツクニ・・日本のこと)に突然やって来て、「国を譲れ」と脅迫したのが、高天が原(タカマガハラ)に住む天照大神です。

天照大神は、孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)に中津国を治めさせるため「荒ぶる神々」のいる下界(豊葦原中津国)を平定すべく、軍勢を派遣しました。
天照大神軍の司令官、建御雷命(タケミカヅチノミコト)は天鳥船(アマノトリフネ)に乗って出雲に進入し、稲佐の浜辺で大国主命に天照大神の言葉を伝えます。
大国主命の長男の事代主(コトシロヌシ) は天照大神に同意しました。

しかし、次男の建御名方命(タケミナカタノミコト)は反対し、一旦は天照大神の軍隊と戦って敗れ、信州まで落ち延びます。建御雷命におどされた建御名方命は、信州から外へ出ないことを条件に助命されます。

一方、結局大国主命は天照大神の脅迫に屈し、隠居してしまいます。 天照大神は、大国主命に「現世は私が支配する。あなたは幽界を支配しなさい。」と通知しました。幽界を支配せよとは、つまり殺されたのです。

その鎮魂のための神殿が出雲大社です。
オオクニヌシとはよほどの実力者だったのでしょう。だから「大国主」と書かれたのです。しかし大国主は一人だけだったとは限りません。大和に滅ぼされた無数の「まつろわぬ人々」を、大国主命という言葉で代表させ ているとも考えられます。

この話は普通「国譲りの神話」と言われています。 出雲の王であった大国主は、天照大神に自分の国を「寄付」した、と言う話です。しかし実際には侵略者天照大神の武力に屈し、その結果殺され た、と言うのが真相でしょう。

 

■ 出雲大社のこと

ちょっと寄り道です。平安時代、源為憲という学者が、「口遊(くちずさみ)」という書物の中で「雲太、和二、京三」という言葉を著しました。

雲太とは、出雲の太郎と言う意味で出雲大社のこと。和二とは、大和の二郎のことで東大寺のこと。京三とは、京都の三郎で天皇の住む宮殿のことです。
この言葉は、日本建築のBIG3とその順序を意味します。なんと出雲大社は、天皇の宮殿より大きいのです。普通こんなことはありえません。 敵(大国主)を祭る神殿が、時の権力者、天皇の宮殿より大きいなんて、そんなことをしたら天皇の権威にかかわります。

しかし実際の大きさはともかく、源為憲はそう信じていたからこのような言葉を考え付いたのでしょう。天照大神側にとってよほど後ろめたいことがあったのでは、と思わざるを得ません。

 

■ 出雲族

さて、大国主と彼が支配していた出雲族とはどんな民族だったのでしょう。
これは想像の域を出ませんがちょっと文献を書き写してみます。
例えばこのようだったのでしょう。

 

今の黒竜江、烏蘇里(ウスリー)あたりに占拠していたツングース族の中、最も勇敢にして進取の気性に富んでいたものは、夏季の風浪静かなる日を選んで、船を間宮海峡或いは日本海にうかべて、勇ましい南下の航海を 試みた。

樺太は最初に見舞った土地であったろう。彼等の船は更に蝦夷島を発見して、高島付近に門番(オトリ・・・小樽)を置き、一部は上陸し、他は尚も南下して海獺の多い土地を発見し、そこを海獺(モト・・陸奥)と命名し、海岸づたいに航海を続けて、入海多く河川多き秋田地方に出たものは、そこに天幕を張って仮住し、鮭の大漁に食料の豊富なことを喜んだであろう。そこを彼等は鮭(ダワ・・・出羽)と呼び慣らしたので、ついに長くその地の地名となった。

陸奥・出羽は、しかしながらツングース族の最後の住地ではなかった。彼等は日本海に沿って南下し、あるいは直接母国から日本海を横切って、 佐渡を経て越後の海岸に来り、そこに上陸し、あるいは更に南西に航行し て出雲付近まで付近まで進んで行ったであろう。こうした移動を、私はツングース族の第一次移住と呼んでいる。これは紀元前1800から1000年位の間に行われた、と思われる。(西村真次「大和時代」。司馬遼太郎「歴 史の中の日本」より)

 

ツングース系の人達は確実に日本人の先祖の一つだったと思います。
あの吉成思汗はツングース系の人ですし、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の先祖、ヌルハチもツングース系の満州族の出身でした。「大航海時代」と言うほどではありませんが、「小航海時代」だったのでしょう。

出雲をはじめとする山陰地方は、鉄の産地として名高い所です。出雲に上陸したツングース族は、あるいは製鉄の専門技術者だったかもしれません。 彼らは「出雲族」と呼ばれる集団を形成し、鉄器を用いて周辺の豪族を切り従えて一大強国を築いたことでしょう。

その集団の中から英雄が出現ます。須佐之男命(スサノオノミコト)です。
須佐之男命の有名な神話、ヤマタノオロチ退治は、とりもなおさず彼が出雲族の敵対勢力(おそらくその勢力のため出雲族は滅亡の危機にさらされていた)を苦戦の末滅ぼしたことを意味するように思えます。彼の何代目かの子孫が大国主命です。

一方、高天原族(仮称です)とはどんな民族だったのでしょう。
出雲族以上の軍団を率いる部族だったことは、大国主命があっさり降伏したことからも明らかです。国譲りの神話から見ても、日本古来の「先住民族」 とは考えにくい面があります。

この当時、鉄器という先端技術で武装した出雲族を破る力を持つ民族は、そんなに多くはないでしょう。例えば、朝鮮半島からの移住者がもっとも可能性は高いと思います。彼らのリーダー、アマテラスは天照と書きます。天を照らす、つまり太陽のことです。少なくとも高天原族とは強力な軍隊を持ち、太陽を神として崇拝する民族だったことに間違いありません。

高天原族がこの国を支配するようになってから、この民族の太陽崇拝は 国名にもなりました。「日本」と言う国名に。
一方、あの卑弥呼は太陽神につかえる人でした。
多くの人が日本神話の天照大神こそ卑弥呼であると主張しています。 そして私も。

■ 邪馬台国

1.魏志倭人伝の信憑性

魏志倭人伝は邪馬台国に関する唯一の資料ですが、唯一であるがために所在地をめぐって江戸時代から激しい論争が展開されてきました。しかし、魏志倭人伝には一体どれほどの信憑性があるのでしょうか。 ここでふと昔(おそらく中学生か高校生の時)読んだ本を思い出しました。 「外国の教科書には日本のことがこう書かれている」、そんな内容の記事 です。

■日本の家庭では父親が絶対の権威を持っていて、家族は彼に服従しなければならない
■サムライはもう少なくなって、田舎へ行かないと見ることは出来ない
■ペリーが来航した時、日本人は狩猟をして生活していた・・・・・

また外国人と文通をしていた学生の話で、その外国人から「日本にはテレビがありますか」と尋ねられたと言う記事も読んだことがあります。

繰り返しますが、この記事を読んだのは30年ほど前のことです。
30年前のこととは言え、20世紀の現代ですら外国のことを正確に把握することは、大変困難なことです。 この点、日本人は比較的勉強家なのかもしれません。外国の知識はある程 度把握しているように思えます。

しかしだからと言って、外国人も日本のことを良く知っていると思うのは間違いでしょう。魏志倭人伝は今から1800年位前のものですし、それを書いた中国人はいわゆる中華思想で周辺諸国を常に見下していたことも考えねばなりません。著者陳寿が邪馬台国に派遣された使節と会見した証拠はありません。仮に会見したとしたらこのようになりましょうか。

(陳寿)「東の蛮国へ行って来たのか。ふ〜ん、一応記録しておくか。で、何と言う国名なんだ?。変な名前だな。ヤマタァ国か、ヤマトイ国か、もう一度言え、まぁいいか。ヤマタイ国と言うことにしておこう。酋長は女か。名前はなんと言うんだ?・・・」

まぁ、こんなに尊大だったとは思いませんが。極論すれば魏志倭人伝から確実にわかることは、次の3項目程度でしょう。

(1) 邪馬台国という国があって魏に貢ぎ物を持ってきたので、魏の明帝は親魏倭国王」の称号を与 えた。
(2) そこへ行くには海を渡って何か国も通過しなくてはならない。
(3) その国は女王が支配していた。

 

里程を見ますと、帯方郡から不弥国までに存在した国々の距離の合計は10700里、しかし帯方郡から邪馬台国までの直接の距離は12000里。
したがって不弥国から邪馬台国までは1300里である、と昔から論議されてきました。

しかし、これはあまりにも常識的ではないでしょうか。
いかに当時の中国が文明の最先端を行く国であったとしても、そのような単純な数式をあてはめることができるものでしょうか。私は1070O里も12000里も誤差に誤差が重なっているものだから、その差1300里も誤差の内、したがって考える必要はない、と思います。つまり邪馬台国は不弥国に隣接していたのだ、と考えるのは無理でしょうか。

 

2.卑弥呼の死

卑弥呼は狗奴国との交戦中に死にました。死因は、他殺、戦死、病死、自然死、自殺が考えられます。この中でもっとも可能性の低いものは自殺で、次に戦死です。

仮に狗奴国の軍隊が卑弥呼の宮殿を攻撃し、その結果卑弥呼が殺されたのなら邪馬台国はその時点で滅亡したはずです。
しかし卑弥呼の死後、台余が登場すると言うことは邪馬台国は別に滅亡したわけではありま せん。病死、自然死も考えにくいものがあります。
なぜなら卑弥呼は自分が病 中、あるいは老衰が激しい時、戦争の命令を下すでしょうか。防衛戦争だったら可能性はありますが。

私は、卑弥呼は殺されたと思っています。理由は狗奴国との戦いに負けたためでしょう。その責任をとって殺されたのです。ではなぜ負けたのか。原因は日食です。これは井沢元彦著「逆説の日本史」に詳しく書かれています。

簡単に言えば太陽神の化身、卑弥呼女王を戴く無敵神軍邪馬台国軍は突然起こった日食に動揺し、不敗の信念がぐらついいたため狗奴国軍に負けてしまった。なぜ太陽が突然隠れたのか。女王の霊能力が衰えたためだと考えた邪馬台国民は女王を殺してしまった・・・・。 フレーザーの金枝編を引き合いに井沢氏はこれを説明しています。
そして古代の「王殺し」はこの一件だけではなく、ひょっとしたら「あの天皇」もそれで殺されたのではないか。そう思って次の文章を書きました。

 

■ 崇神天皇から応神天皇へ

ここは私の想像です。笑わないで下さい。

第10代天皇、崇神天皇の和風諡名は「ハツクニシラススメラミコト」と言い、なんと初代神武天皇と同じ諡名になっています。ハツクニシラスとは、初めて国を治めると言う意味で、最初にこの国(日本)を統治したと言う意味です。

「最初に日本を統治した天皇」が二人存在することから、神武天皇から第9代開化天皇までは記紀の著者が創作した実在しない天皇であるとの説が有力です。
では、崇神天皇とはどのような人だったのか。

崇神天皇は名前を「ミマキイリヒコ」と言うことから、ミマ(ミマとは朝鮮半島の南部、弁韓。キは城のこと、つまり朝鮮の王族)からイリ(日本に入ってきた)したと言う学者もいれば、イリとは入り婿のことだと言う人もいます。

いずれにせよ、最初に奈良盆地にできた原始政権を確立した人が崇神天皇だったのではないか。原始政権と言っても邪馬台国より進んだ形態を持っていたのではないか、とも思います。
崇神王朝(仮称)は、その後何代かにわたって少しづつ領地を拡大して来ました。その遠征軍司令官として任命されのが四道将軍や日本武尊なのでしょう。
ひょっとしたら大国主命は彼らと戦ったのかもしれません。

そして14代仲哀天皇の時代となります。仲哀天皇は、妻の神功皇后と共に熊襲を討ちに九州に遠征に出かけますが、ここで有名な事件が発生します。

 仲哀天皇は、九州より先に新羅を攻めよという神託を無視したため、神の怒りにふれて死んでしまった。神功皇后はその時妊娠中でまもなく臨月だったが、石を腹にくくりつけて腹を冷やして出産を遅らせた。
神功皇后が新羅を平定して帰国後まもなく生んだのが後の応神天皇である。やがて神功皇后と応神は大和へ帰り、反対勢力の香坂王、忍熊王(応神天皇の異母兄)を倒して政権を握った。

仲哀天皇の死はおそらく戦死でしょう。あるいは卑弥呼が敗戦の責任をとって殺されたように、仲哀天皇もまた殺されたのかもしれません。

ここからがさらなる想像です。
神功皇后は実際には、邪馬台国の指導者として仲哀天皇軍と戦い、これを破ったのではないか。崇神王朝は最高司令官、仲哀天皇が死んだことによりその力はガタ落ちに落ちてしまった。やがて神功皇后は息子の応神天皇とともに大和遠征に出かけ、ついに崇神王朝をほろぼし、ここに九州から近畿にかけて大帝国が誕生した・・・・・・。つまり王朝が交代したのです。

彼女の諡、神功とは神のような功績があったと言う意味です。その功績とはそのようなことだったのではないか。また息子の応神天皇は神にふさわしいと書きます。母親だけでなく応神天皇自身も英雄的に働いたためそのように 諡名されたのではないでしょうか。

そして天皇家には万世一系のタテマエがある以上、応神天皇は仲哀天皇の子でなければならず、記紀の作者は神功皇后を仲哀天皇の妻としたのでしょう。さらに、天皇家の発生を遠く過去まで溯らせるために、神功皇后と応神天皇の東征をモデルに神武天皇の話を創作したと考えられます。

話は戻りますが、私は邪馬台国は大分県宇佐市にあったと考えます。理由は、そこに宇佐神宮があるからです。

応神天皇は母、神功皇后とともにここに祭られています。しかし八幡宮の祭神はこの二人だけではありません。もう一人比売大神という神が祭られています。では、この比売大神とは何者なのか。比売大神は三女神であると言います。

三女神とは、多紀理比売(たぎりひめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)を指しますが、須佐之男命と天照大神の誓約(うけい)で生まれたとされます。誓約とは実に神話的表現ですが、実際は性行為のことではないでしょうか。ならば須佐之男命と天照大神は姉弟ではなく、もしかしたら夫婦であったかもしれません。

そして強引なコジツケですが、比売大神とは三女神ではなく天照大神自身を指すのかも知れません。であるなら、比売大神とは卑弥呼のことなのではないでしょうか。
神功皇后とはあるいは卑弥呼の子孫なのかもしれません。

宇佐神宮が舞台になった有名な事件に、道鏡の事件があります。この時称徳天皇は、和気清麻呂を使者として宇佐へ向かわせました。なぜすでに存在し、皇祖神天照大神を祭っている伊勢神宮ではなく宇佐でなければならないのか。 「宇佐は天皇家の故地だから」としか考えられません。
そう九州は、いや宇佐は卑弥呼(天照大神)の生まれたところであり、すなわち天皇家発祥の地なのではないでしょうか。

 


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