火龍
(愛新覚羅溥儀)
1967年10月17日、一人の中国人が腎臓癌から尿毒症を発症して亡くなりました。
遺体は当然ながら火葬され、以後彼は 『火龍』 と呼ばれるようになります。龍とは中国皇帝の別称で、龍顔とは皇帝の顔を指します。
これは漢の高祖(創始者)劉邦の顔のつくりが立派で、あたかも龍のようだったことが語源になっています。そう。
かつて彼は中国全土を支配する皇帝ででした。長い中国の歴史の中で、火葬された皇帝は彼がただ一人なのです。名は愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。
わずか3歳で清王朝皇帝に即位した溥儀は、その後の動乱の中で合わせて3回皇帝になり、そのつど退位し、最後は中華人民共和国の一市民として生涯を終えたのです。まず年表を書きました。
実にややこしいですから相当簡略化してあります。
西暦 出来事 1906 溥儀 生まれる 1908 溥儀 清王朝最後の皇帝に即位 1911 辛亥革命起こる 1912 溥儀 皇帝を退位 清王朝滅亡 1913 袁世凱 中華民国臨時大総統に就任 1917 2度目の即位 1924 溥儀 紫禁城から日本公使館へ。3ヵ月後天津へ行く 1928 蒋介石 国民政府主席に就任
東陵事件起こる1931 満州事変勃発 溥儀、満州に迎えられる
川島芳子 婉容を天津から脱出させる1932 満州国建国 溥儀 摂政となる リットン調査団、新京(現在の長春)へ到着 1934 溥儀 満州国皇帝に就任 1935 溥儀 来日 1945 8月9日 ソ連軍対日参戦 12日 関東軍司令部、通化に移転 溥儀 大栗子に移転 18日 溥儀 皇帝を退位 19日 溥儀 日本へ亡命する途中でソ連軍に抑留される 1946 溥儀 東京裁判に証人として出廷 1950 溥儀、溥傑 ソ連より中国政府に引き渡され、撫順の戦犯収容所に収容される 1959 溥儀 特赦によって放免される 1962 溥儀 最後の妻 李淑賢と結婚 1967 溥儀 死去
■最初の即位
溥儀は1906年、北京で生まれました。
時の皇帝は10代光緒帝(1871〜1908)で、父親の醇親王(1883〜1951)はその弟になります。当時清の朝廷は西太后の絶大な権力下にありました。
西太后が生んだ9代皇帝同治帝(1856〜1874)は彼女のロボットにすぎず、その後を継いだ光緒帝はまだ幼かったので、西大后が清の政治の一切を取り仕切っていたのです。西太后には、急加速で下り坂を転がり落ちていく清王朝を立て直そうとする理想も思想も気概もなく、贅沢三昧の日々をおくっていたのです。当然ながら逆らう者、気に入らない者には死が与えられました。光緒帝自身も謀反を起こしたとして捕らえられ、紫禁城の一室に幽閉され、一切の自由は奪われ、おそらく毒を盛られていたのでしょう、日に日に衰弱していくありさまでした。
そうしたある日、溥儀が3歳の時。
醇王府(醇親王の家)に西大后の使いがやってきて、溥儀を11代皇帝に指名する、と告げるのです。
直ちに紫禁城へ行かなくてはなりません。
驚いた溥儀は泣き出し、祖母は卒倒し、大勢の召使は何をしていいかわからず醇親王一家は大騒ぎになります。醇親王は皇族という温室育ちのお坊ちゃん。人の良さ以外には何のとりえのない男で、ただおろおろするばかり。この混乱の中で只一人冷静だったのは、21歳になる溥儀の乳母、王焦氏(おうしょうし)でした。氏がついているのは、彼女の本名は不明で、王焦という人の娘だったということです。王焦氏はぐずる溥儀をやさしく抱いて乳を吸わせました。溥儀はいつもこうすると大人しくなるのです。
紫禁城に入った溥儀は西大后と対面しますが、溥儀は醜い老婆(西大后)を見るなり一層大声で泣き出し、不快になった西大后はさすがに3歳の幼児ですから何もせず、ぷいと部屋を出て行き対面はそれで終わりました。
翌日光緒帝は急死するのです。
衰弱しているとはいえ、前日までは元気だったようです。ひょっとしたら・・・・・・。
さらにその翌日には一代の怪物、西大后も後を追うように亡くなります。その騒ぎの中、溥儀は11代皇帝として即位式に臨みます。1908年12月のことでした。
溥儀はお気に入りの王焦氏もおらず(出席できる身分ではなかった)、大勢の文武百官がただ平身低頭するばかりの式典がすぐイヤになり、 『お家に帰る』 と泣きじゃくるばかり。父の醇親王は摂政に任命されたのでそばにいましたが、皇帝になった我が子をなだめるのに必死だったのです。もうすぐ終わるから・・・・・と。醇親王の予言(?)どおり、それからわずか3年後の1911年。辛亥革命によって清王朝は滅亡し、中華民国が誕生。1912年2月、溥儀は皇帝を退位します。
しかし溥儀の生活が変わったわけではありません。中華民国が発行した「清帝辞位後の優待に関する条件」というものがあったのです。
主な内容は次のとおりですから結構良い条件でした。1.皇帝の尊号は廃止せず、中華民国は外国の君主に対する礼をもってこれを遇する
2.皇帝は年金として毎年400万両を中華民国より受領する
3.皇帝は暫時紫禁城内に居住し、後日頤和園に移住する
4.歴代皇帝の宗廟・陵は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
5.紫禁城内の各職員は従来どおり使用できる。ただし太監(宦官)は今後採用できない
6.皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護するしかし条件として溥儀は紫禁城からは出られず、彼の自由は城内だけだったのです。
■紫禁城での生活
溥儀には母が何人もいました。
まず醇親王の正室の瓜爾佳(かじか)。この人は生母です。
それと紫禁城に住む先代、先々代皇帝のお后達で、溥儀はその後を継いだので名目上は彼女達は母親だったのです。このお后達(合わせると5人もいたのですが)によって、瓜爾佳は溥儀に会うことを禁止されてしまいます。おまけに溥儀は毎朝 『母親達』 へ挨拶しに行かなければなりませんでした。幼い溥儀にとってこれはかなりの苦痛のようでしたが、止めることはできません。故宮(紫禁城の一部)
中国国家観光局ホームページより彼の周囲には、太監と呼ばれる宦官が付き人として数多くいて、何かと世話をやきます。太監の仕事は遊び相手、本を読む、勉強の先生。溥儀が出かけるときは先を歩いて道をあけるよう声を出す、駕籠をかつぐ、日傘をさす、携帯用の腰掛けを持つ、着替えの服を持つ、茶道具を持つ、薬を持つ、便器を持つ・・・・・。
こんな大勢の人が周りにいて、あれこれ口出しする・・考えただけでもうんざりします。でも、はじめのうちは素直にいうことを聞いていた溥儀ですが、次第に太監達は自分の言いなりになることを知ります。何しろ子供とはいえ、溥儀はこの紫禁城では最高権力者なのです。
太監に 『ひざまずいてあの汚物を食ってみろ』 と命令して本当に食べさせてしまったり、火消し用の水をぶっかけて凍死寸前にさせたりと、何かと悪質ないたずらばかりやっていました。
ある日溥儀は太監の一人にに砂を詰めたカステラを食べさせようとしました。すると乳母の王焦氏は 『陛下が砂を噛めないように、太監も砂を噛めないのです』 といって溥儀をたしなめたのです。溥儀は王焦氏のいうことだけは素直に聞くため、その太監は砂を食べることはなかったのですが、この時溥儀ははじめて、太監も自分と同じで砂は食べられないことに気づいたといいます。皇帝という特殊人の本質とは、これなのでしょう。
ただでさえ退屈な紫禁城内の毎日。悪戯ざかりの溥儀にしてみれば好きなことはやり放題だし、誰でも自分の言うことは聞くし・・・。しかし幼児にとってこんな毎日が面白いはずがなく、そんな溥儀にとって唯一の母は、あの乳母の王焦氏だったのです。ところが溥儀が9歳の時、王焦氏は溥儀と別れることになります。溥儀があまりにも王焦氏になつくので彼の 『母達』 が嫉妬したのです。後年溥儀は自伝『わが半生』 でこう述べています。
乳母が去った後は、私の身辺にはもはや「人間性」に通じた人は1人もいなくなった
食事もすごいです。
何しろ中国のことですから日本とはケタ違い。私はひとこと「お膳を伝えろ(食事がしたいということ)」と言いつける。
そばに控えている御用小太監が、養心殿の明殿に詰めている殿上太監に、おうむ返しに「お膳を伝えろ」と言う。殿上太監はまたこの言葉を養心殿の門外に直立している太監に伝える・・・・こうしてずっと御膳房内部に伝わっていくのである。その声の反響が消えないうちに嫁入り道具のような行列がもう御膳房を歩み出る。これは身なりを整えた太監たち数十名からなる隊列で、大小七つのお膳を高くかかげ、金の竜を描いた数十個の朱塗りの小箱を捧げて、延々と養心殿をさしてやってくる。中略
これらの料理は、いろいろの手続きを経て並べられてしまえば、格式を示す以外、何の役にも立たないのである。これらが「お膳を伝えろ」の一声ですぐにテーブルに並べられるのは、御膳房ですでに半日あるいは一日前から作りあげ、火で暖めて待っているからなのである。
私が毎食実際に食べていたのは、太后(5人の母親の筆頭)のところから届けられる料理で、太后の死後は四人の太妃がひきつづき届けてくれていた。というのは、太后や太妃たちはみなそれぞれの膳房を持ち、しかも使っているのはすべて高級なコックで、料理は味がよくて口に合うし、毎食二十品近くあったからである。それが私の前に置かれる料理で御膳房で作ったのものは遠く片隅に並べられ、見本になるだけだった。(わが半生)
毎日の食事のしたくに悩む世の奥様方には何とも羨ましい話でしょう(^。^)
1ヵ月にどれほどの食材を使うかというと、5歳になった溥儀の1ヵ月分の料理に使われた肉類ですが、これほどありました。
食肉 660斤 スープ肉 150斤 豚肉(ラード) 30斤 肥鶏 60羽 肥鴨 90羽 菜鶏 90羽 ちなみに調べたら1斤というのは600gのようですが、溥儀の当時でもそうだったのでしょうか?
食事と同じくものすごい浪費は衣服で、毎日溥儀のために常に新しい服を作っていて、溥儀は同じ服を2度着ることはなかったのです。年代は不明ですが、ある年の10月6日から11月5日までの1ヵ月間に溥儀のために作られた皮襖(毛皮の裏地のついた上衣)は11着、皮の袍褂6着、毛皮シャツ2着、綿の上衣・スボン、シャツ30着・・・。皇帝の家庭に仕えるのは内務府という部署でしたが、その下には広儲、都虞、掌礼、会計、慶豊、慎刑、営造の各司と、48の部局を持ち、それぞれの司の下にはさらに下部組織が存在し、役人だけでも多い時には1023人にものぼったそうです。
溥儀一家の浪費は279万両というデータがありますが、これは溥儀が 『落ち目になった』 後のことなので、最盛期の乾隆帝の時代はいったい皇帝一家でどれほど浪費したのか見当もつきません。
溥儀は勉強はあまり好きではなかったようです。
6歳の時家庭教師がついて儒学の古典を読み、祖先の言葉、満洲語を勉強した程度でした。10歳の時、学友(?)として弟の溥傑(1907〜1994)が醇王府から来るようになると、よほど嬉しかったらしく2人でよく遊んだようです。
それでも溥儀からみれば、溥傑は弟ではなく 臣下でした。これは溥傑もそう思っていたらしく、この関係は満州国が崩壊するまで続きました。1917年7月、袁世凱が死去すると溥儀は、周囲の勧めにしたがって2度目の即位をしました。
しかしこれも長続きしません。
清王朝再興の反対派から紫禁城が空爆されると、溥儀とまわりの人達はふるえ上がり、あわてて退位してしまうのです。1919年、溥儀の新しい家庭教師としてイギリス人、レオナルド・ジョンストン(1874〜1938)が紫禁城に招かれます。溥儀はジョンストンから英語を学び、ヨーロッパのこと・・・政治や文化、洋服、食事・・・・を知るにつけ、次第に紫禁城に嫌気がさしてくるのです。
それとメガネ。映画 『ラスト・エンペラー』 にも出てきましたが、 『皇帝がメガネをかけるなどとんでもない』 という猛反対する中、ジョンストンは 『ならば私は辞職する』 とまでいって太監を押し切りました。
ジョンストンは後に 『紫禁城の黄昏』 という手記を発表しますが、これは東京裁判における証拠書類(溥儀が満州建国に協力した証拠)として提出されました。もっとも却下され、採用されませんでしたが。
1922年、溥儀は16歳で結婚しました。
相手は上級貴族栄源の娘、婉容(えんよう 1905〜1946?)、それと端恭の娘、文繍(ぶんしゅう)。
そう、溥儀は同時に2人と結婚してしまったのです。
話を進めていたのは5人の母親でしたが、それぞれ見合い写真を持ってきて、若い溥儀には何がなんだかよくわからず、結局母親のメンツを立てて2人を選ばざるを得なかったのです。実家の身分からして婉容が正室で、文繍は側室でした。 婉容は上流階級の生まれ、英語はペラペラという才女で、ヨーロッパ式の教育を受けた彼女は当然一夫一妻を考えていましたから、文繍の存在が疎ましくてなりません。
文繍は文繍で、気位の高い婉容には相当のライバル意識を燃やしたようで、溥儀もだいぶてこずったようです。
溥儀と婉容
新婚当初、若い溥儀と婉容は相思相愛のカップルでした。溥儀の英語が上達してくると、互いに英語で手紙をやり取りすることもあったようです。
2人はジョンストンに相談して英語圏風の名で呼び合うようになります。溥儀はヘンリー、婉容はエリザベスと名乗っていました。思えばこのころが、婉容にとって最も幸せな時期だったのです。
ついでにこの2人、というか、溥儀の家庭生活の将来はどうなるかといいますと・・・
溥儀は生涯子宝には恵まれませんでした。一説によれば彼は同性愛だったとか、あるいは身体上の欠陥が理由だったともいわれています。そのうち溥儀は満州国皇帝の夢にとりつかれ、婉容等をまったく省みなくなり、孤独のあまり彼女はアヘン中毒になってしまい、満州国崩壊後に悲惨というもおろかな最期をとげるのです。一方の文繍も、溥儀は少しも自分をかまってくれないし、婉容にはいやがらせをされるし、そんな生活に嫌気がさして1931年。そのころは溥儀一家は紫禁城を出て天津の租界に住んでいましたが、ある日突然家を出て溥儀に離婚を要求したのです。
仰天した太監や、文繍の実家、親戚がなだめすかしても彼女は戻らず、結局溥儀は中国史上離婚した最初で最後の皇帝になりました。これに対してお嬢様育ちでプライドの高い婉容は、溥儀への愛情より皇后という立場を重く見たのかもしれません。
天津にいたころ、文繍は自分の気持ちを文章にしました。文中の鹿とはいうまでもなく文繍自身のことです。園中の鹿を哀れむ
春の光りはうるわしく、赤い花緑の葉が、園いっぱいにあふれていた。
私はたまたまそのなかを散歩していた。あれこれに目を遊ばせ、思いをはせるのは、ほんとうに楽しい。木にもたれて休んでいると、ふと放し飼いの鹿の切々とした悲鳴が聞こえた。
かがんで見ると、息もたえだえで、いかにもかわいそうだ。私は思った。
この鹿は御園にはいることができ、恵みを受けて養われ、長く生命を保ったのだから、やはり幸福というべきだ、と。しかし野生の動物は飼うべきものではない。この鹿のように園内にいては、自由がない。牢獄の囚人のように、赦免されないかぎり出られない。
荘子は言っている、むしろ生きて尾を泥のなかにひくも、死して骨となり貴となるを願わず、と。(わが半生)
文繍は後に天津で学校教師になったといわれていますが、詳しいことは不明で1953年、45歳で病死したようです。溥儀には満州国建国後結婚した譚玉齢という妻がいましたが1942年、22歳の若さで病死します。その後は李玉琴(1928〜2001)という女性と結婚しますが、この人は満州国崩壊後、撫順の収容所に何度か溥儀を尋ね、その後離婚しています。前半生における溥儀にとって妻とは身を飾るアクセサリーにすぎませんでした。溥儀の関心事はあくまで清王朝を再興し、その皇帝になることだったのです。そんな彼自身の性格や周囲の環境が災いして幸福な家庭生活は営めず、ようやくそれを手に入れるのは最後の妻、李淑賢(1924〜1997)と結婚してからになるのです。
■満州へ
1924年11月、溥儀は突然やって来た中華民国の使者に 『清帝辞位後の優待に関する条件』 の破棄を申し渡されます。のみならず、溥儀は今日より皇帝ではなく、中華民国の一般国民の身分となり、従来中華民国から支給されていたは年450万元は50元に下げられるのです。さらに溥儀を驚かせたのが、紫禁城に住んでいる清の王族は3時間以内に城を出ていくようにとの通達でした。
まさに驚天動地の出来事です。
とりあえず実家である醇王府に戻った溥儀にとって、選択肢はつぎの三つしかありませんでした。1.皇帝(もはや皇帝ではなかったけれど)の座を降りて一市民として生きる
2.八方手を尽くし、優待条件を回復させて元の生活に戻る
3.外部の力を借りて清朝を再興させるまだ若い溥儀にとって、また皇帝として多くの臣下にかしずかれてきた溥儀にとって1.はできる相談ではありませんでした。
第一、一緒に紫禁城を追い出された(元)大臣や貴族達が承知しません。なぜなら彼等にとって溥儀が皇帝だからこそ自分達も楽な生活ができるからです。当然彼等取り巻き連は2.を主張します。溥儀が迷っているうちに、今度は別のクーデターが起きて北京は危ないという噂が流れてきます。溥儀はジョンストン等の勧めで外国公使館区に行くことを決意し、自動車で醇王府を脱出。この時怪しんだ醇親王の執事と門にいた2人の警官が自動車に乗り込みます。溥儀はショッピングに行くだけだといいますが、この3人は自動車を降りません。
やむなく溥儀は買物をしたりして時間をつぶしますが、ジョンストンが 『溥儀様はご気分が悪いらしい。そこに病院があるので看てもらおう』 といって、ドイツ公使館区域内にある病院に入るのです。
実はこの病院は溥儀の 『目的地』 だったのです。
執事と警官が表で待っている間にジョンストンは、イギリス公使館に受入れの交渉をしに行きます。するとイギリス公使は 『ここより日本公使館の方が良い』 とにべもない返事。おそらく面倒を避けたかったのでしょう。このため溥儀達は日本公使館に向かいました。当時の日本が溥儀に好意を持っているのは明らかでした。
関東大震災を聞いた溥儀と婉容は、災害援助の寄付金を送ったことがあるのです。交渉は成立し、溥儀は日本公使館に入るのですが、当時の公使は芳沢謙吉。溥儀と遅れてやってきた婉容達を最初は歓迎し、公使館で一番良い部屋(芳沢夫妻の寝室)を提供したようです。しかし溥儀達は 『招かれざる客』 でした。
当時外国(中国から見た)の公使館は一種の治外法権地区で、ここには中華民国の法律は及ばないのです。そのため各国の公使館には中華民国の混乱を避けるため、多くの中国人が訪れていました。それは日本公使館も同じで、すさまじいほどの図々しさと我ままな溥儀様ご一行を芳沢公使はもてあまし、おまけに醇王府からの使いが毎日やって来るのでうるさくてかなわない。いうまでもなく醇王府に帰って来い、ということです。しかし相手が相手だから文句もいえない・・・。3ヵ月後、溥儀達は天津の日本租界区に移るのですが、この時ほど芳沢がほっとしたことはなかったでしょう。
さて、こうして日本公使館を出て天津へ入った溥儀ですが、先に書いた今後の方針・・・
1.皇帝の座も野心もみな捨てて一市民として生きる
2.なんとか頼みこんで優待条件を回復させて元の生活に戻る
3.外部の力を借りて清朝を復活させるこの2.はもはや不可能なことになりました。1.もできないことは前述のとおりで、残るは3.だけになったのです。これがその後の溥儀の人生に、日本と中国の間にどれほどの影響を与えるようになるのか、またこれによって翻弄される人がどれほど出てくるのか・・・・。
1928年、天津にいる溥儀に衝撃的な報せが入ります。
蒋介石の国民党軍兵士によって乾隆帝、西大后をはじめ清王朝の先祖が眠る墓地が荒らされ、貴金属、装飾品などめぼしいものがごっそり盗難されるという事件です(東陵事件)。この恨みに報いなかったならば、私は愛新覚羅の子孫ではない。私のいる限り、大清(清王朝の正式国名)は滅亡せぬ!(わが半生)
この時溥儀は、祖先を辱められて号泣する家族や家臣の前で清王朝復興を固く誓いました。
思えば満州国とは、溥儀の清王朝再興と、日本の思惑が絡み合った結果生まれたものだったのです。
満州の地はソ連、モンゴルと境を接し、日本にとってもソ連にとっても戦略上、防衛上極めて重要な位置にありました。関東軍(中国東北部における日本軍の呼称)は、早くからこの地の戦略的重要性を認識し、いかなる手段を講じても日本の支配下に置かなければならないと考えていました。そして満州支配をより強固なものとすべく、関東軍は密かに満州の独立を画策していたのです。
1931年9月30日。
溥儀に日本人の面会者がありました。
上角利一という大陸浪人で、関東軍の使者としてやって来たのです。上角は溥儀に一通の手紙を渡します。
差出人は満州にいる親日派の軍閥で、内容は 『満州に満州人による新国家を建設したい。清朝という由緒正しき血を引く陛下(溥儀のこと)にはそこの元首になってほしい』 というものでした。上角は 『陛下がご出馬されれば、関東軍はもとより、日本政府は全面的に協力します』 というのです。
いうまでもなく、『親日派の軍閥』 を動かしたのは関東軍で、関東軍が溥儀を選んだのは溥儀が満州族の名家であり、清王朝最後の皇帝であり、政治的にはまったくの無力だったことがあげられます。さらには東陵事件などもあって溥儀は蒋介石の国民党を深く憎悪しているし、満州の地は愛新覚羅氏には故地であるから国際的非難も回避できると判断したのです。
しかしこの時はまだ溥儀はためらっていたのか承諾はしませんでした。
11月になると関東軍大佐の土肥原賢二(どいはら けんじ 1883〜1947)が訪れます。土肥原は陸軍大学卒業後、対中国特務機関の坂西機関に入り、補佐官、奉天督軍顧問、連隊長、奉天特務機関長を歴任。中国語にも堪能で、『陸軍きっての中国通』 と呼ばれていました。土肥原は、溥儀を満州に呼び寄せる責任者だったのです。清王朝再興を願う溥儀にとって、一番の関心事は自分が皇帝になれるか、ということでした。
溥儀 その新国家は、どのような国家になるのですか 土肥原 先ほど申し上げましたように、独立自主の国で、宣統帝が全てを決定する国家であります 溥儀 私が聞いているのはそのことではない。私が知りたいのはその国家が共和制か、それとも帝制か、帝国であるかどうかということです 土肥原 そういう問題は瀋陽に行かれれば、解決しましょう 溥儀 いや…。復辟ならば行きますが、そうでなければ私は行きません 土肥原 もちろん帝国です。それは問題ありません 溥儀 帝国ならば、行きましょう 復辟(ふくへき)とは王朝を再興し、皇帝が再び即位することを指します。
これを読むと、溥儀がいかに皇帝の地位にこだわっていたかがわかります。
少なくともこの時点においては、満州国建国という点において、溥儀と関東軍の利害は完全に一致しており、溥儀は満州へ行くことを承諾するのです。天津では民衆の暴動が起こり、その混乱に乗じて溥儀は天津を脱出し満州へ向かいます。
この時溥儀は知りませんでしたが、満州行きの船には万一中国軍に発見されて捕らえられた時に備えて、船には自爆用の爆薬がしかけてあったのです。
11月13日、遼東湾から営口に上陸した溥儀は、当然満州人民の大歓迎を受けるものと思っていましたが、あてが外れ、彼を出迎えたのは上角利一ともう一人、眼光の鋭い小柄な男でした。間もなく溥儀は、彼は日本では有名な元憲兵大尉の甘粕正彦であることを知ります。ところが歓迎されるどころか、旅順のヤマトホテルに入った溥儀は、そのまま軟禁状態となって外出するのも階下に下りることも禁止されてしまうのです。ホテルには遅れて天津を脱出した婉容等も到着。しかし依然として外出禁止状態です。
この間、関東軍側ではすでに新国家の構想はまとまっていました。
立憲君主制であり、元首は執政と呼ぶこと、東北行政委員会という組織を作り建国プロジェクトチームとすること。国号はこうする、国旗はああする・・・。ホテルで待つこと3ヵ月。
ようやく溥儀の元を訪れた板垣征四郎は、関東軍のプランを溥儀に伝えました。
板垣の説明をいらいらしながら聞いていた溥儀は、板垣がカバンの中から満蒙人民宣言書と五色の満州国国旗を取り出したのを見て、『怒りで胸もはりさけそうに』なったのです。
ふるえる手でそれを押しのけた溥儀は、それが大清帝国だとでもいうのか、と板垣に詰問します。すると板垣は 『こちろんこれは大清帝国の復辟ではありません。一つの新しい国です。東北行政委員会が決議し、一致して閣下を新国家の元首、すなわち執政に推戴しております』 と答えるのです。この答えに溥儀は怒り心頭に達します。陛下ではなく、閣下と呼ばれたのは生まれて初めてのことでした。
溥儀 名正からざれば、言、したわず。言したがわざれば、事、成らずです(論語より)。満州の人心の向うところは私個人ではなくて、大清の皇帝なのです。もしこの呼称を取り消せば、満州の人心は必ず失われます。この問題は関東軍に再考慮してもらわなければなりません。 板垣 満州の人民は閣下を新国家の元首に推戴しております。それが人心の帰趨であり、また、関東軍の同意するところであります。 溥儀 だが日本も天皇制の帝国ではありませんか。なぜ関東軍は共和制の建設に同意するのですか 板垣 もし閣下が共和制が妥当でないとお考えなら共和という文字は用いません。これは共和制ではなくて、執政制なのです。 溥儀 他のことはともかく、この執政制だけは受け入れるわけにはいきません。皇帝の呼称は私の祖宗が残したものです。もし私がそれを取り消したならば不忠不幸です。 板垣 宣統帝が大清帝国の皇帝であられることは、明らかなことです。将来、議会が成立いたしましてから、かならず帝制回復の憲法を可決するものと信じます。
したがいまして現在の執政はあくまで過渡期の便法にすぎません。溥儀 皇帝の称号はそもそも議会などから受けるものではありません (1)東北行政委員とは、満州国建国プロジェクトです。
(2)宣統帝とは、清王朝を退位した溥儀のことです。日本の感情を害してはならない・・・周囲の諌言もあって、結局溥儀は、1年たっても帝制ができなかったら退位するという条件で、執政の座につくことを承諾したのです。関東軍にとって帝政にこだわり、清王朝復興を夢見る溥儀は笑止なことだったでしょう。
この時溥儀は26歳。この若さですでに彼は過去の遺物だったのです。これを書きながら、私は織田信長に祭り上げられた室町時代最後の将軍、足利義昭を思い浮かべています。ところが児島襄の『東京裁判』 にはまったく違うことが書いてあるのです。
皇帝溥儀は、板垣関東軍高級参謀の「脅迫」によって満州国執政に就任したというが、「脅迫」をうけたのは、むしろ、板垣参謀のほうであった。
皇帝溥儀は、帝位につくのでなければ出馬せぬ、と首肯した。日本側としては、溥儀皇帝の出現は、中国の清朝復活という印象を与え、反清朝意識の強い大部分の現地民を離反させる恐れがあると考えたが、他に適当な人物がいないため、やがて帝政を施行する約束で皇帝溥儀と妥協したのである。
さてどちらが真実なのか、今になっては知るすべはありません。
上記の板垣と溥儀の会話は、『わが半生]』 からの引用ですが、少なくとも、『わが半生』 が溥儀の自伝であり、背後に中国共産党が控えている以上、溥儀にとって、あるいは中国共産党にとって不利なことは書かないでしょうね。後の東京裁判で証人として出廷した溥儀は、何かと言えば 『強要された』 、『恐ろしかった』 、『そんなことは知らない』 を繰り返しましたが、溥儀は脅されたどころか、自ら積極的に満州へ行き、 『1年後には皇帝になれる』 と大満悦だったのです。
1932年3月9日、ついに五族(満州、中国、モンゴル、朝鮮、日本)協和、王道楽土をスローガンに満州国は建国され、溥儀は執政となりました。しかしスローガンとはうらはらに、実態は日本の植民地、関東軍の傀儡政権であることは誰の目にも明らかでした。
溥儀は一人で喜んでいましたが、皇帝という眩いライトが影の部分を覆い隠していたのか、あるいは必死の思いで影を見ようとしなかったのか・・・。
満州事変後、事態を重く見た国際連盟は実態調査のため、調査団を派遣することになります。団長はイギリス人リットン伯爵。有名なリットン調査団です。当然ながら建国直後の満州国もその調査範囲でした。
しかしリットン調査団は正義の使者ではありません。
彼等はアジア・アフリカの植民地化経験豊富な欧米人ですし、彼等は中国を欧米諸国で均等に植民地化したかったのであって、日本に出し抜かれた口惜しさからこの調査団は結成されたのです。要するにリットン調査団にとって結論は最初から決まっていて、調査は形式だったのです。5月3日、リットンと溥儀の会見がはじまります。リットンの要望で相手は溥儀一人でした。
リットン 執政閣下についておうかがいいたします。どのようにして天津から満洲に来られたのですか。また、この満洲国はいかにして樹立されたのですか 溥儀 私は満洲人民に望まれてやってきたのです。日本人達の助けは借りましたが、私の国は完全に自発的意志による自主的な・・・・・・ 自主的な何だったのか、溥儀の手記、わが半生にはここまでしか書いてありません。
この調査団が来る前に関東軍は総力をあげて対応を準備し、調査団が通りそうな道路にはチリ一つなく、満州国国旗を掲げ、目立つ所には溥儀の写真を飾り、反日、反満州と見られる不穏分子は留置場へ送り、浮浪者は追放され、という具合でした。
また想定されるあらゆる質問とその回答が用意されており、溥儀の回答はそのシナリオの一部にすぎなかったのです。
リットン調査団
会見後板垣征四郎をはじめ、関東軍の幹部は口々に 『閣下(溥儀のこと)の態度はご立派でした』 と褒めますが、溥儀の心中はどうだったでしょう。後に彼はリットンとの会見で真実を話し、あの時自分をロンドンに連れて行ってほしいと訴えるべきかどうか大変迷った。しかしそれを言ったら間違いなく殺されていただろうと述べています。
しかし溥儀や関東軍の思惑とは違って、前記のとおりリットン調査団の結論は最初から決まっていました。
無理もありませんが、そうとは知らず、危険を冒して満州国の実態を話す市民もいましたし、調査団が満州で受取った1500通もの手紙はことごとく日本を非難するものでした。
翌1933年3月になると外相松岡洋右は、満州国を国際的に認めさせるため国連会議に出席します。しかしそこで松岡を待っていたものは各国の満州国非容認であり、『日本は満洲から撤退し、国際連盟は中国が自治機関を作るよう勧告する』 という勧告案でした。国連会議での採択は当然ながら松岡一人を除いて42対1(棄権1)。全員勧告案賛成でした。 会議の席上松岡は、『報告、勧告は、東洋の平和を確保するとは考えられない、平和達成の様式について、日本と他の連盟国とが別個の見解であるとの結論に達した』 と演説した後、サヨナラと日本語で一言そう告げて退出。これで日本は国際連盟から脱退することになったのです。(3月27日)
当時の新聞
松岡は採択の前、政府からの電報でいざとなれば国連脱退もやむを得ないといわれていたようですが、松岡はどうも脱会すべきではないと思っていたようです。でも帰国した松岡は凱旋将軍のように扱われ、新聞は松岡を褒め称えるのでした。
清王朝復興を願う人達は日本の国際連盟脱退を、機は熟したりと考え、さらに溥儀の野望も摂政から皇帝へ高まっていくのです。1934年3月1日、溥儀はついに満州国皇帝に即位します。伝統的な竜袍(ロンパオ)、それは黄色の清朝皇帝専用服です。
これを身にまとっての古式の礼でした。この竜袍は光緒帝(清朝における溥儀の先代皇帝)がまとったもので、溥儀はこれを着ることに非常に拘ったのです。夜は夜で呼び集めた一族の人達と大祝宴会を開き、弟の溥傑(ふけつ)の音頭で満場から 『皇帝陛下万歳』 の歓声を浴びた溥儀にとってこの夜は得意の絶頂でした。
溥儀のこの思いは翌月の日本訪問で頂点に達するのです。これは秩父宮(昭和天皇の弟)が溥儀の即位の祝いに来たことへの返礼でした。日本海軍の戦艦比叡に乗船した溥儀は、大連で護衛の艦隊を観閲して出航し、横浜港では100機の編隊の歓迎をうけるのです。この日本側のもてなしに有頂天になった溥儀は、こんな詩をつくりました。
海平似鏡
万里遠航
両邦携手
永固東方●大意
海は鏡のように平らかだ
私は万里、遠方に航海する
日満両国は手を携えて永く東アジアを固めようさらにはこのような詩もつくっています。
万里雄航破飛濤
碧蒼一色天地交
此行豈僅覧山水
両国申盟日月昭●大意
波濤を蹴たてて万里の彼方に雄々しい航海をつづけている
周囲は緑一色で水平線では青い空と緑の海が接している
今度の旅行は決して物見遊山のためだけではない
両国の盟約は月日のように明らかなのだ
後に、この二つの詩は東京裁判で追求されることになります。
脅かされて満州国皇帝になったのではなく、自ら進んで日本に媚びたのではないか? ということです。横浜で上陸した溥儀は、列車で東京へ向かいます。東京駅では昭和天皇が自ら出迎え、皇居内での歓迎の宴を受け、日本の元老達を引見し、軍隊を閲兵したのです。また、皇太后(昭和天皇の母)の手を取って皇居内を散歩したり、歌舞伎を観劇し、金閣寺、奈良公園を観光したり、溥儀なりに充実した日々をおくっていたのです。
歌舞伎を観劇 帰国した溥儀は 『天皇と私は平等だ、天皇の日本における地位は、私の満洲国における地位と同じだ、日本人は私に対して天皇に対するのと同じようにすべきだ』 と本気で考えるようになるのです。勘違いもここまでくると、滑稽を通り越して悲惨としかいいようがありません。
その後溥儀は、祖先の祀りをやめて天照大神を崇拝するようになります。これは溥儀自身が望んだことではなく、関東軍に強要されたもので、天照大神に向かって礼をする時、 『これは天照大神に拝んでいるのではなく、北京の坤寧宮に拝んでいるのだ』 と心の中でつぶやいたといっています。
東陵事件のところでちょっと書きましたが、儒教に基づく伝統的中国人にとって祖先の祀りをやめるということは大変なことなのです。
政治のことを古くは 『まつりごと』 といいました。
まつり・・・・あの神社で行う春や秋のお祭り。縁日ではありません(笑)。神に祈りを捧げることです。古来より中国王朝は、社稷と祖先を祀ってきました。
社稷(しゃしょく)とは土地の神である社(やしろ)と、五穀の神を代表的な穀物である稷(きび)を合わせたもので、支配者にとって土地の神を祀り、五穀豊穣を祈るのは当時としては政治行為そのものだったのです。後に社稷は転じて国家の意味をもちます。
また儒教の信奉者としての中国人にとって、祖先を祀らなくなることは最大というべき不孝なことなのです。多くの場合、征服者がある国を征服した後行うことは、滅ぼした国の社稷と宗廟(先祖を祀るところ)を焼き払うことで、これによってその国が完全に滅びたことを宣言したのです。ちなみに明朝は、皇城の南に左右対称に宗廟と社稷を造っています。その中心となるのは社稷檀で1421年に築かれました。この檀は明王朝から清王朝へ引き継がれています。この跡地に造られたのが、現在は観光地になっている中山公園です。
さて、『東京裁判(児島襄)』 によれば、天照大神崇拝は関東軍が強要したのではなく、溥儀の方から申し出たことだと書いてありますが、どんなものでしょう? もし天照大神崇拝が溥儀自身がいい出したことなら、溥儀はプライドも何もない、ひたすら日本に媚を売るゲス野郎ということになりますが・・・・。
満州国における溥儀の私生活についてちょっと書きます。
溥儀は生涯子ができませんでした。
関東軍が欲しかったのは溥儀の子、それも日本人の血を受け継ぐ子だったのです。関東軍はしきりに溥儀に日本女性との結婚を勧めますが、溥儀は何のかんのといっては承諾せず、ここで3人目の妻を迎えます。譚玉齢(たんぎょくれい)という17歳の少女でした。
この結婚は長続きせず、彼女は1942年に22歳の若さで病死します。腸チフスだったようです。
溥儀の 『わが半生』 によれば、看病していた医師は最初はマジメに診察していましたが、ある時溥儀の付き人だった吉岡安直(1888〜1946)に呼ばれ、なにやら話し込んだ後は全然診察しなくなり、翌朝彼女は急死してしまったようです。溥儀は後の東京裁判で、譚玉齢は吉岡に毒殺されたと証言しました。この譚玉齢の急死は非常に不可解な事件で溥儀だけでなく、溥傑の妻の浩も吉岡を疑うような書き方をしています。私はこの事件に限らず、吉岡安直という人は溥儀と浩によって事実をねじ曲げられてしまったと思うのですが、それについては吉岡安直に書くことにします。
『わが半生』 によれば、摂政当時からそうでしたが、溥儀には行動の自由は一切なく、すべてが関東軍の承認が必要でした。関東軍の意向はすべて吉岡を通して溥儀に伝えられましたし、溥儀の意思は安岡が関東軍に伝えました。公式の場での溥儀の発言はすべて吉岡が作成したのです。こんな関係を溥儀は、関東軍は高圧電源のようなもの、私は正確機敏なモーターのようなもの、吉岡は電導性のすぐれた電線だった、と述べています。
さて譚玉齢の死後、関東軍は再び溥儀に日本女性との結婚を勧めます。
しかし、日本女性と結婚するなんてベッドに日本人の目と耳を取り付けるようなものだ、と考えた溥儀はあわてて翌年第4夫人をむかえるのです。李玉琴(りぎょくきん 1928〜2001)、15歳。この時、李玉琴はまだ新京の国民学校に通う生徒で、『わが半生』 で溥儀は、文化程度のやや低い、という書き方をしています。溥儀が李玉琴を選んだのは、彼女が自分の思いどおりになるよう躾ようと考えていたからだといわれています。まあ、関東軍に一挙一動をコントロールされている溥儀にすれば、奥方くらいは自分のいうことを聞かせようと思ったのでしょう。
戦後、李玉琴は一時捕らえられましたが釈放されて実家に戻りました。ただし溥儀と離婚するという条件で。彼女は収容所にいる溥儀を何度か訪ねましたが、実際に離婚するのは1958年でした。
譚玉齢 李玉琴
さて、日本から帰国した溥儀は、少しづつ自分のおかれた環境を思い知らされることになります。皇帝とは名ばかりで常に関東軍に見張られ、自由のきかない溥儀にとって、憂さ晴らしの対象は彼の家族でした。
私の日常生活は、食うことと寝ることを除けば、次の言葉で概括できた。すなわち、なぐりどなる、占う、薬を飲む、おそれる、である。(わが半生)
殴ると言うのは溥儀自身が行うのではなく、上位の召使が溥儀の命令で下位の召使を殴るということで、このために死んでしまう者すらいました。でも溥儀には良心の呵責はありません。なぜなら彼は 『皇帝』 なのですから。
ただ溥儀が恐れたのは、死んだ者が怨霊として自分に祟ることで、このため溥儀は召使が亡くなると数日間仏間で読経していたということです。また妙な占いにこだわって服の着方、歩き方、食事の仕方にまで吉となるまで占いを止めず、婉容をはじめ他の人にもそれを押し付ける始末でした。
それと異常なほどの潔癖症で、いつも金属の箱にアルコールを染み込ませた綿を入れてたものを持ち歩き、『唇にハエがとまろうものなら、すぐさまその綿で拭いた』 ということです。(満州には蚊はいないかわりに、蝿がものすごかったようです。)
仏教の輪廻転生を本気で信じ、肉・・・あの食べる肉です。肉は死んだ肉親の生まれ変わりと信じて、ついには精進料理ばかりを食べるようになってしまいました。1937年、弟の溥傑(当時陸軍士官学校に留学中)が、日本人嵯峨浩(さが ひろ)と結婚するニュースは、溥儀に計り知れない衝撃を与えました。この時関東軍は満州国の帝位継承法を変更し、皇帝に子がない場合は孫が、子も孫もいない場合には弟が、弟亡き後はその子が・・という具合にし、溥儀に強要してこれを認めさせたのです。
溥傑に日本人の血をひく子が生まれたら、満州は完全に日本人に乗っ取られてしまう・・・溥傑の見合話を聞いた溥儀は、あわてて中国人の娘と溥傑を結婚させようとしますが失敗します。なにしろ相手は関東軍なのです。
浩はその年の暮れに満州にやって来て、先に帰国していた溥傑と暮らし始めます。この時浩は妊娠していました。溥儀はこの弟の妻に最後まで心を許さず、浩の作った食事はまず溥傑が食べるのを見てから自分も食べるという始末。翌年浩は女児を出産しましたが、この時ほど溥儀がほっとしたことはなかったでしょう。
さて溥儀の日常を書くのはこのあたりで止めておきます。これを読んで溥儀という人間をどのように想像するのも読む人の自由だと思います。ただし彼が生まれ育った清王朝、そして満州における立場、さらには、わが半生が書かれた時の特殊な状況は考慮しなくてはならないでしょう。
■東京裁判
1945年8月9日。
ソ連の参戦は溥儀にとって大衝撃でした。
もはや関東軍には南下するソ連軍を迎え撃つ力はなく、新京(長春)での防衛は困難であるとの判断からあわただしく大栗子へ遷都します。遷都といえば聞こえはいいですが、実際は首都の放棄です。それもつかの間、8月15日。日本の無条件降伏とともに満州国は崩壊し、18日、溥儀は皇帝を退位したのです。
関東軍幹部は本来守るべき満州国よりも、自分の家族を日本へ帰国させることを優先してしまいます。戦況の悪化からこの日を見越して、数ヵ月前から家族や財産を日本に送り返している幹部もいたほどです。
取り残されたのは満州国政府の下級職員や、日本から移住してきた一般市民達でした。いわゆる中国残留孤児の悲劇の原因の一つは、この関東軍上層部の無責任さにあるのです。婉容をはじめ、女性達は列車で朝鮮へ行き、船で日本へ行くよう指示されましたが、これが溥儀・婉容夫妻の永遠の別れになりました。
溥儀は溥傑とともに通化から飛行機で撫順に行き、そこで飛行機を乗り換えて日本へ亡命する計画でしたが、撫順では待ち受けていたソ連軍に捕らえられ、そのままソ連に抑留されてしまうのです。
- ついでに書けば、溥儀がソ連に抑留されたのは彼にとって幸運だったかもしれません。
無事に東京に着けば、必ずや囚われて共産党ではなく、国民党に引き渡されたでしょう。そうなれば川島芳子同様に漢奸として死刑になったことは間違いありません。
1946年8月16日、抑留先のソ連から来日した溥儀は、東京裁判の法廷に立ちました。被告ではなく検察側(連合国)側の証人として、です。
理由は、『歴史の生き証人』 として日本の満州侵略と、満州国建国の経緯を証言させるためでした。被告席には板垣征四郎、土肥原賢二、南次郎、星野直樹等、溥儀の顔なじみが少なからず座っています。
溥儀にとって恐怖は、ソ連から中国に引き渡された場合、満州国建国に積極的に加担したとみなされれば、漢奸として死刑はまぬがれないということでした。
このため溥儀は皇帝としての威厳を捨て、すべての罪を日本側に押しつけ、追求されると額に汗を滲ませ、 『知らない』、『忘れた』、『関東軍に脅された』、『恐ろしかった』 を繰り返したのです。重光葵元外相は日記にこう書いています。
憐れむべし。彼(溥儀)はソ連の俘虜として死命を制せられ、更に支那側の処刑より免れんことをも工夫し居るものの如く、総ての非を日本側に帰せしむるを、最も安全なる策と考へ居るものの如し。
かつて満州皇帝として、小なりといえども、新京の王宮に起居せるものの気品風貌は毫も認むることを得ず。総ては日本側の脅迫詐欺に依らざるなき点に付、技巧を弄す(東京裁判)
重光葵(しげみつ・まもる 1887〜1957)は1945年9月2日、東久迩内閣の外相として戦艦ミズーリ号における降伏文書に署名。A級戦犯として起訴され、1948年、禁固7年の判決を受けるものの、1950年には仮釈放されています。1954年、鳩山内閣では副総理兼外相に就任しています。溥儀の証言はその後数日間にわたって行われましたが、だらだらと言い訳をし、全ての責任を日本になすりつけようとする見苦しさには、さすがの裁判長や検察側もうんざりし、裁判長のウェッブはこういったほどです。
こういうことをいうのはいやだが・・・生命に対する危険、死の恐怖は、戦場における卑怯な行為や戦場離脱の口実にはなりえない。我々は証人から、彼がなぜ日本軍と協力したのか、 その言い訳を聞かされたが、これ以上聞く必要はないと思う。(東京裁判)
溥儀が証言した後、あるアメリカ人の弁護士が叫びました。あなたはすべての罪を日本人に押しつけている。しかしあなたも犯罪者だ。あなたも結局は中国政府の裁判を受けねばならない!(わが半生)
裁判において、自分に有利になるように矛盾が生じない程度に事実を曲げて、あるいは大げさに話すのはある意味では当然かも知れませんが、溥儀の態度はあまりに卑屈で、証言はあまりにも虚偽の発言が多すぎたのです。
溥儀を呼んだのは時間のムダだった・・・・溥儀が去った後、裁判長をはじめ、関係者は皆そう思いました。その18年後、溥儀は 『わが半生』 にこう書いています。
今日、あのときの証言を思い返すと、私は非常に遺憾に思う。
私は当時自分が将来祖国の処罰をうけることを恐れて、心中あれこれ顧慮したので、日本侵略者の罪悪の一部は述べたものの、自分をそこからはずすために、自分の罪行と関係ある歴史の真相を隠蔽した。
つまり少なからず偽証したということです。さらには、歴史の真相を隠蔽した、ということは日本の罪状も完全には述べなかったということでもあります。後になって遺憾に思うのなら、実際のところはどうだったのか、自伝では詳しく真実を書けばいいと思うのですが、これ以上の記述はありません。恩師というのは若い方はあまり使わないかもしれませんが、溥儀は恩師のジョンストンをも中傷しています。
東京裁判で、家庭教師ジョンストンの著書 『紫禁城の黄昏』 は、日本協力の証拠として溥儀に突きつけられました。
その本に溥儀は出版を喜ぶ文章を書いていたのです。しかし、溥儀はそれをも、他人が書いたものだといい、さらには 『ジョンストンがこの本を書いたのは金儲けをしようとしたためであり、面白くするために、あることないことでっち上げたと思われます』 と述べているのです。
■撫順収容所
その後溥儀の身柄はソ連から中国共産党に引き渡され、溥儀は漢奸として撫順の収容所へ入れられました。映画 『ラスト・エンペラー』 はここから始まります。
漢奸とは読んで字のごとし。
漢は漢民族のことで、国家への反逆者、売国奴という意味があり、代表的な人をあげれば、例えば汪兆銘(1883〜1944)でしょう。1912年、南京で孫文は臨時大総統に就任し、中華民国の成立を宣言しましたが、この宣言の起草をしたのが汪兆銘です。彼は蒋介石の補佐役でしたが、しだいに対日方針で対立するようになり、1938年ハノイへ脱出。その後日本軍のバックアップを得て蒋介石とは別に南京政権を作るのです。彼が日本で亡くなったのは1944年、入院先の名古屋大学付属病院でした。遺体は南京に運ばれ埋葬されましたが、夫人の陳璧君は国民党に墓があばかれて夫が辱めを受けることをおそれ、墓に5トンのコンクリートを流し込んで固めたのです。しかし戦後になって、国民党政府は汪兆銘を漢奸としてあくまでゆるさず、彼の墓は爆破されました。
国民党政府に漢奸に指名されたのは川島芳子も同じで、川島は処刑されましたが共産党に引き渡された溥儀は1961年に特赦で出所することになります。
しかし重箱の隅をつつくなら、私は溥儀は漢奸ではないと思うのです。もちろん川島も。
なぜなら漢奸は祖国(中国)を裏切った 『漢民族』 が対象であり、溥儀も川島の漢民族ではなく、満州族の出身なのです。それに満州の地が正式に中国の領土となるのは1949年のこと。
清王朝の建国以降、清王朝が滅びるまでは満州は中国の領土ではなく、逆に中国が満州の領土だったのです。そして満州国は溥儀という愛新覚羅の子孫が先祖発祥の地に建国した国なのですから、中国にとってはそういってしまってはミモフタもありませんが、隣国の出来事なのです。ではなぜ川島芳子は処刑され、溥儀は赦免されたのか。
2人を裁いたのが国民党、共産党という違いはありますが、私はここに共産党の 『計画』 を感じます。
溥儀のような悪人でも中国共産党の思想教育の結果、真人間に生まれかわるのだ、と宣伝材料として利用されたのではないでしょうか?例えば弟の溥傑も漢奸として収容所に入れられ、後に赦免されたばかりか、日本にいる妻の浩を呼び寄せて北京で暮らすようになりました。周恩来は溥儀だけではなく、溥傑にもいろいろ親切にしましたが、スカルノ大統領が訪中したとき、溥傑と浩は周恩来のパーティーに招かれ、周恩来は2人をスカルノ大統領に紹介しました。
周恩来の目配せに、溥傑と浩は2人でスカルノ大統領に酒を注ぎに行きました。スカルノは2人の数奇な運命に驚きましたが、周恩来はスカルノにこういったのです。どうです?
むかし「王さま」だった人とはとても見えないでしょう? 簡単ではありませんでしたが、彼(溥傑のこと)は確実に改造をなしとげ、私たち新時代の人間とすこしも違うところはありません」スカルノ大統領にもご紹介いただき、と浩が『流転の王妃の昭和史』 に書いた栄光の実状である。
過去の中国王朝には、ときに「哀帝」「哀王」と称される末代皇帝やその一族がいて、征服者である新しい皇帝の宴席にはべり酒を注ぐことを強いられたことを、浩は知っていたであろうか。(貴妃は毒殺されたか)
このとおり、溥傑も浩も中国共産党の宣伝材料としても使われたのです。
宣伝材料としての利用価値は、溥傑や浩、川島芳子に比べれば溥儀の方がはるかに大きいことはいうまでもありません。なぜなら溥儀は元皇帝だったのですから。収容所での出来事についてはあれこれ書きません。
溥儀に課せられたものは 『過去の罪の告白』 なのです
溥儀はなにぶん生まれが生まれであり、育ちがそだちですから相当苦労したことは間違いないでしょう。収容所には溥儀の一族や、かつての家臣達がいましたが、当然ながら彼等にとって溥儀はもはや皇帝ではなく、対等の関係なのです。それどころか溥儀は家臣達と違って洗濯や裁縫もできず、靴のヒモも結べず、モタモタしていると係官に叱責されるありさまでした。溥儀のプライドはずたずたです。1959年、『反省』 が認められた溥儀は特赦もあってついに出所するのです。ちなみに映画ラストエンペラーで溥儀役のジョン・ローンに特赦の証書を手渡す人は、かつて溥儀本人に手渡した人です。この人にとっては自分が行った証書の手渡しを、後年映画で再び行うなんて想像すらしなかったでしょう。
1961年2月、溥儀は周恩来首相の世話で北京植物園に勤務するようになります。新人の元皇帝は誰よりも熱心に仕事をし、先輩職員は誰も皆、親切に接したようです。
しかし私生活においては、溥儀はまだまだ未熟(?)だったようで、もらった給料、つまり生活費を計画的に使うことを知らず、無くなれば給料日でもないのに事務所へ行って給料を貰おうとしたり、バスに乗ろうとすると乗降口に立っているバスガイドに、どうぞお先にといったため、そのままバスが発車してしまい停留所に置き去りにされたり(当時はレディ・ファーストという言葉が北京でも流行していたのです)、微笑ましい(失礼かな?)エピソードがいくつもあったようです。 溥儀にとって不愉快なことは、溥儀のことをいまだに皇帝扱いする人がいたことでした。主に老人が多かったのですが、中には結婚を前提とした交際を求めてくる女性もいたようです。そんな人達は、元皇帝はいまだに大富豪だと勘違いしていたのです。
李淑賢と溥儀
そんな中、溥儀は知人の紹介で李淑賢(りしゅくけん 1924〜1997)という看護婦の女性と知り合い、デートを重ねた結果1962年4月、ついに結婚したのです。思えば溥儀にとっては5回目、そして初めて自分が愛する人と結婚できたのです。
仲の良い夫婦でした。
溥儀は依然として皿洗いも、買物も、掃除も満足にできない人でしたが、李淑賢はそんな不器用な溥儀に振り回されつつも心から彼を愛したようです。しかし結婚生活は5年で終わりました。
溥儀が腎臓癌で入院したのです。
尿毒症を併発した溥儀は1967年10月17日、李淑賢に看取られて静かにこの世を去ったのです。