吉岡安直
今回のシリーズを書くにあたり、参考にした書籍はつぎのとおりです。
わが半生 / 愛親覚羅溥儀
流転の王妃の昭和史 / 愛親覚羅浩
李香蘭 私の半生 / 山口淑子・藤原作弥
男装の麗人 川島芳子伝 / 上坂冬子
甘粕大尉 / 角田房子
王道楽土の交響楽 / 岩野裕一
貴妃は毒殺されたか / 入江曜子
李玉琴伝奇 / 入江曜子
東京裁判 / 児島襄
『わが半生』 と 『流転の王妃の昭和史』 を読めばすぐわかることですが、どちらの本にも関東軍、中でも吉岡安直の横暴ぶり、傲慢無礼さが目立っています。
それは特に溥儀の3番目の妻、譚玉齢の急死のところなのですが、溥儀は東京裁判で譚玉齢は吉岡安直に殺された、とはっきり証言しています。また『わが半生』 では表現が微妙に変わってきていますが、やはり吉岡に殺されたと解釈できるような記述なのです。東京裁判で溥儀はこう証言しています。貴人とは譚玉齢のことです。
私の妻は・・私の貴人は、非常に私との仲がよかったのであります。年は若くて23でありました。あるとき私の貴人は病気になりました。彼女は中国を愛し、即ち中国の国家を愛する人間でありました。そうして貴人は常に私に向って今はやむをえないから、できるだけ忍耐しましょう。そうして将来時が来たならば、失った満州国の地を中国にとり返すように致しましょう、と語っておりました。しかしながら、私の貴人は日本人に殺されたのであります。(この部分はその後翻訳が訂正されて、毒殺された、となりました)
殺したのは誰かと申しますと、その下手人は吉岡中将であります。
まず中国の医師によって治療されたのですが、後になりましてから吉岡中将が日本の医者を紹介してくれました。このときの症状は相当重かったのでありますが、しかしながら死ぬほどの病気ではなかったのであります。
そうしてこの医者が診察したのちに吉岡中将はこの医者と約3時間にわたってなにか秘密に話しておりました。その晩医者が来て、すなわちその翌日の朝には私の貴人はもう死んでしまったのであります。
本来ならば、1時間ごとにブドウ糖の注射をしなければならないのでありますが、日本の医者が来てからは、その翌日に至るまで1、2回しかブドウ糖の注射をしなかったのであります。
吉岡中将はその晩宮中に泊まりまして、絶えず日本の憲兵および看護婦からの報告を聞いておりましたが、2日目になって死んだということを聞くやいなや、ただちに引き揚げていきました。
『わが半生』 ではこうです。彼女(譚玉齢のこと)の死因は、私にとっていまだに謎である。彼女の病気は、漢方医の診断によれば、腸チフスだということだったが、絶望的な症状と認められたわけではなかった。のちに私の医師の黄子生が市立病院の日本の医師を紹介して診察によこした。
吉岡はこの時「世話」をすると称して、異例にも宮内府の勤民楼に移ってきた。こうして吉岡の監督下に、日本の医師が譚玉齢の治療を進めたのだが、なんと治療した翌日になると、彼女は突然死んでしまったのである。
私はどうしても不思議に思うのだが、日本の医師は治療を始めたときには、非常に熱心に見え、彼女の身辺で看護し、注射をうったり、看護婦に輸血させたり、一刻も休まず走りまわっていた。
ところが吉岡が彼をほかの部屋へ呼び、ドアで閉めきって長いこと何か話してからはもうあまり熱心でなくなり、忙しく注射だの輸血だのをすることもせず、黙ってじっとしているようになった。
勤民楼に泊まっていた吉岡は、その夜一晩じゅうやすみなく日本の憲兵に命じて病室の看護婦へ電話をかけさせ、症状を問い合わさせた。こうして一夜明けて、翌日の早朝、譚玉齢は死んだのである。
私は不思議でならないのだが、どうして吉岡は治療中に医者を呼んであんなに長いこと話したのだろうか。どうして話をしたあと、医者の態度が変わったのだろうか。
このように 『わが半生』 では、不思議という言葉を2度も使ってこの事件の不可解さを強調しています。一方 『流転の王妃の昭和史』 で愛親覚羅浩は、溥儀の証言を信じるような書き方をしています。(譚玉齢は)もともと病弱ではありましたが、その三日前には楽しく一緒にお食事をいただいたばかりだっただけに、その突然の死には驚きました。
宮廷の習慣では、病気にかかった場合、侍医が漢方の手当てをほどこすのが常でした、宮廷の侍医は腸チフスと診断したそうです。ところが宮内府御用掛の吉岡大佐が軍医を呼んで診察させたところ、粟粒結核で脳膜炎を併発していたため、いやがる貴人に注射をし、服薬させましたが、翌朝には世を去ってしまわれたのです。
のちの東京裁判では、皇帝は「貴妃を殺したのは吉岡御用掛だった」と証言しておられます。真相は今になってはわかりませんが、証言は皇帝が吉岡御用掛をいかに信用していなかったかを物語っています。
ところがこれらの証言や記述とはまったく違うことが 『李香蘭 私の半生』 と、『貴妃は毒殺されたか』 には書いてあるのです。
山口淑子は 『李香蘭 私の半生』 で、譚玉齢の死に関して溥儀は誤解しているといっていますが、 私はこれは誤解ではなく、『故意』 だと思っています。これについては後で述べることにします。『李香蘭 私の半生』 によれば、当時の満州国宮廷には近代医学の知識を持った者は誰もいなく、昔の清王朝時代そのままの加持祈祷が行われていたため、見かねた吉岡安直が新京第一病院長の小野寺直助博士を呼ぶことを提案すると溥儀はしぶしぶ承知。ところが小野寺博士が診察した時には、譚玉齢の病状はすでに腸チフスから脳膜炎を併発していて手遅れで、やむなく博士はブドウ糖を注射しただけで帰らざるえなかったと書いてあります。
続いて 『貴妃は毒殺されたか』 には小野寺博士がブドウ糖を注射して帰ったまでは 『李香蘭 私の半生』 と同じですが、その後のことが詳しく書かれています。
小野寺博士が帰った後、黄子生(宮廷の中国人医師)は別の日本人医師、新京医科大学教授で新京病院の内科医長である橋本元文の自宅を尋ね、無理をいって往診を頼んだのです。これは 『わが半生』 にも書かれています。もっとも橋本医師の名は出てきませんが。
なぜ黄子生が別の医師を呼んだのかはわかりませんが、現在でいうところのセカンド・オピニオン(別の医師に診察させ、誤診を防ぐこと)のつもりだったのかもしれません。
橋本は翌日も往診を頼まれたため宮廷に行きましたが、治療してもはや手遅れであることを溥儀に伝えると、溥儀からは1時間でもいいから延命してほしい、といわれました。橋本の判断では多少でも延命するには輸血をする以外にはなかったので、すぐに勤務先の新京病院に電話し、付属看護学校からO型の血液をもった生徒を呼ぶように指示しました。譚玉齢の血液型はO型でした。
輸血すると譚玉齢はほんの少し生色をとり戻しました。それを見た溥儀は、『ありがとう、ありがとう』 と両手で橋本の手を握りしめたのです。その翌日、橋本は譚玉齢の死を告げる電話を受けています。さて毒殺されたのと、手遅れとはいえ医師に診察させたが亡くなったのとでは大違いです。まして下手人とは何ごとでしょう。
私は東京裁判での溥儀の証言は偽証であり、 『貴妃は毒殺されたか』 が譚玉齢の急死の真相だと思っています。なにしろ譚玉齢の死の2ヵ月後、溥儀は橋本を宮廷に招き、労をねぎらってドイツ製のワインを贈っているのです。橋本は新聞で東京裁判での溥儀の証言を知ると驚いて、知人を介して弁護士団に連絡し、吉岡の名誉のためにも法廷で証言すると告げたのです。
しかし東京裁判はあまりにも政治的であり、勝者が敗者を裁くという報復裁判なので、ソ連や中国への配慮から橋本の出廷は実現せず、彼が入江曜子のインタビューに応じたのはそれから51年後のことでした。# & ♭
溥儀からは下手人呼ばわりされ、浩からは傍若無人と酷評されながらも、吉岡は実際には譚玉齢のために、当時満州一の名医(『李香蘭 私の半生』 による)といわれた小野寺博士を呼んだのです。(橋本医師を呼んだのは黄子生ですが)
溥儀は真相を知っていながら、なぜ譚玉齢は毒殺されたといい、吉岡を下手人扱いしたのか?
溥儀は橋本医師に謝礼としてワインを贈ったにもかかわらず、なぜ橋本のことを話さなかったのか?
浩も愛親覚羅の一族として、事件の真相を知っていたのではなかったのか?
吉岡安直は1888年、大分県の川内清作の5男に生まれ、1913年陸軍士官学校を卒業。1913年佐賀県の吉岡初子と結婚しました。2人には悠紀子、和子が生まれました。
支那駐屯軍中佐として中国に渡り、その後鹿児島45連隊の大隊長、陸軍士官学校教官となっています。初子夫人はなかなかの社交家でした。
当時陸軍士官学校に留学していた溥傑は、よほど居心地が良かったのか、休日には教官である吉岡の家(東京都荻窪)を尋ねて、夫人や2人の子供たちとも親しく交流したようです。溥傑は吉岡のことを時にはオヤジと呼び、嵯峨浩との結婚話が持ちあがった時には相談するような間柄でした。満州国が建国されると吉岡は皇室御用掛となります。御用掛とは皇帝の付き人のような職で、溥儀が語ったように関東軍(電流)と溥儀(モーター)を結ぶ 『電線』 でした。私はここであえて電線と書きましたが、悪い意味で書いているのではありません。
満州国崩壊後、吉岡は溥儀や溥傑等と共にソ連に抑留され、1946年モスクワの病院で死去しますが、最後まで溥儀のことを気にかけていたようです。遺族に吉岡の死が知らされたのは15年後のことでした。
李香蘭(山口淑子)の人気が高まると満州ではファンクラブがつくられ、吉岡はメンバーのなかで最年長だったため、会長に推されました。その縁で山口淑子は時々吉岡の家へ行き、初子夫人をはじめ吉岡家の家族とも交際したようです。 『李香蘭 私の半生』 には、関東軍司令官邸で開かれたパーティーに吉岡夫人をはじめ、溥儀の妹達も招かれて一緒に撮った写真が載っています。けっこう和気あいあいとした雰囲気です。その隣のページには吉岡の長女悠紀子と2人で撮影した山口の写真も載っています。
吉岡も自宅でパーティーをよく開き、そんな時山口淑子はパーティーに招かれただけではなく、初子夫人の料理作りも手伝ったりしたそうです。
吉岡安直 この本をはじめて読んだ時、ぱらぱらとページをめくっていったらこの写真が出てきたので、意外に感じたものです。意外というのは、その時点の私の認識では、吉岡は 『悪役』 だったからです。
この吉岡宅のパーティーの最中、溥儀から呼び出しの電話がかかってくることがしばしばあり、その都度吉岡は大急ぎで着替えて出かけていったようです。それというのも皇帝溥儀には私的なパーティーを開くことなどできず、楽しんでいる弟妹や吉岡がうらやましくて邪魔してやろうという子供っぽいいたずらからでした。それと溥儀は時々吉岡とテニスをしたが、決してその様子を他人には見せなかった。なぜなら2人共テニスが下手だったから、とも書いてあります。
同書によれば、山口は吉岡から、『皇帝陛下は立派な方じゃ。皇后様がアヘンで気がふれておられるのがお気の毒だ。陛下はさびしい方なのじゃ』 としんみりと言われたことがあるし、吉岡は家に帰ると憂鬱な顔をして、陛下はお気の毒だ、と家族に話すことがしばしばあったそうです。
これらのことから想像するに、溥儀と吉岡の関係は決して険悪ではなく、吉岡は関東軍と溥儀の板ばさみに悩み、溥儀にはむしろ同情し、つくしていたと思われるのです。
1961年、満州事変勃発30年を記念して中国人民日報は、『我が経験から日本軍国主義の犯罪行為を摘発する』 というタイトルで溥儀の文章を発表しました。私は読んでいませんが、ここで吉岡は相当やり玉にあげられているようです。
これに対して初子夫人は週刊新潮でつぎのよう述べています(この時点においては吉岡の死去の情報は夫人には届いていなかったようです)。天津時代に参謀だった主人(吉岡安直のこと)、溥儀さまにどんな講義をしたか存じませんが、”昭和9年から敗戦までずっと皇室御用掛の資格で、ほとんど私から離れることもなく監視していた”という言葉はあまりにひどいお言葉だと思います。
中略
10年間離れることができなかったのは、皇帝の希望があったからでございます。
何かの用事で休んだり、病気で休んだりしたときは、必ず皇帝からじきじきのお電話のために、電話口に出た女中を大へん恐懼させたものでございます。無骨な主人など、もっと軍人らしい仕事につきたいなどと申していたほどでございますが、皇帝が吉岡、吉岡といわれるので、一生懸命になっていたようでございます。
今になってこんなことを申されるなんて、残酷だと思います。主人はどこかに生きていると信じているのですが、万一なくなっていたら、主人の霊も救われないと思います。(貴妃は毒殺されたか)
入江曜子は、吉岡は実直で有能な軍人だったとしてつぎのようにのべています。京劇の、あるいは歌舞伎の伝統的な粉飾をおとしたあとの吉岡安直は、むしろ実直な一人の陸軍軍人にすぎない。もし軍人としての彼に罪があるとすれば、それは職務に忠実なことであり、それを果たす上で有能なことであった。妥協しなかったことが彼の罪であった。
彼が軍人として不運だったとすれば、それはシベリアに不当に抑留されたこと以上に「皇帝」と「王妃」の著作が行われる時点で、その死亡が推察されたことの不運であった。
そして吉岡にとってもう一つ不運が重なる。
満州時代の吉岡を知り、彼が親しく交際した人々の多くが、のちに中国の良き友人となったという事実である。その側からの深い沈黙もまた、彼の虚像をささえつづけてきた。吉岡は、これらの証人が敢えて語ることを避け、その沈黙を埋めるための虚構として歴史の祭壇に捧げられた犠牲の羊であった。(貴妃は毒殺されたか)
(注)「皇帝」と「王妃」の著作とは、わが半生と流転の王妃の昭和史のことです。
私は、 『わが半生』 と 『流転の王妃の昭和史』 における吉岡安直の記述は100%とはいいませんが、相当の部分はデタラメだと思っています。山口淑子は 『わが半生』 と 『流転の王妃の昭和史』 を読んでいますから、当然溥儀や浩が吉岡のことをどのように書いているのか承知していたのです。
さまざまな回顧録に悪く書かれている吉岡中将だが、私が知っている私人としての吉岡中将は、典型的な明治の日本武人ながら好々爺だった。私は、日本や中国各地へのロケ地への公演旅行から新京にかえるたびに、よく吉岡邸に泊まって、家族の一員のような生活を送り、中将の人間的な側面をかいまみたものである。(李香蘭 私の半生)
山口は自伝の中で、この二人に対してあからさまに批判はしていませんが、このように書いたのは、溥儀や浩に対する抗議に思えてなりません。東京裁判以降の溥儀には、『日本の罪状』 を告発し、それを具体例として吉岡個人に代表させる必要があったのではないでしょうか?
いうまでもなく 『わが半生』 は漢奸から釈放された後の溥儀の自伝ですが、溥儀には中国共産党の圧力もあり、溥儀が中国で生きるためには、この自伝を東京裁判の延長線上に位置付け、自分を被害者とし、日本の罪状を告発する必要があったと思われるのです。皇帝時代の溥儀にとって、皇后や貴人(側室)は身を飾るアクセサリーにすぎず、たまたまタイミング良く(?)病死した譚玉齢を100%利用したのではなかったか? 吉岡安直の名を使って病死を他殺にすりかえたのではないか、と考えられるのです。
幸か不幸か、吉岡は関東軍と溥儀の間に位置する 『電線』 の立場にありました。
誰もがこの2人の関係を知っていたのです。
吉岡とは実はこういう男だった、と溥儀が語れば、他ならぬ本人の弁ですから誰もが信用するに違いなく、溥儀はそれを逆手に取ったのではないでしょうか?前記した溥儀の 『故意』 とはこのことです。溥儀が関東軍の傀儡だったことは間違いないとしても、実際の吉岡は、彼の職務と権限の範囲で溥儀のためにつくし、溥儀は関東軍の中では数少ない信頼できる人間として吉岡を頼ったのは間違いないと思われます。吉岡は御用掛という立場に悩み、時には家族に陛下はお気の毒だ、ともらしたのでしょう。
それほどの吉岡を、こうまで誹謗・中傷して良いものでしょうか?
いや、これは誹謗・中傷などという生易しいレベルの問題ではありません。
当時の溥儀を取り巻く環境には同情すべき点もあるし、溥儀自身の立場もあるでしょうが、私はこうした彼の人間性に大きな疑問を感じざるを得ないのです。そして吉岡は、別の面から愛親覚羅浩と摩擦を起すことになります。
戦前の日本には華族という制度がありました。
先祖代々の公卿や江戸時代の大名家、明治維新に功績があった人が中心ですが、中でも嵯峨家は藤原氏から分かれた名門だったのです。しかしこの華族出身というプライドが、浩を終生束縛することになります。『流転の王妃』 は1959年に出版されましたが、この本を執筆していたころの浩は北京の溥傑と文通をしながら、溥傑が釈放されたら自分も中国へ渡り、一緒に暮らす夢を膨らませていた時期です。この本は、そんな浩の中国政府へのメッセージとして書かれたとも考えられるのです。
そのメッセージに必要なことは、悪いのは関東軍だった、自分も戦争の被害者だった、日本人に差別される中国人には深く同情していたことをアピールすることでした。この点、溥儀と同じです。
満州に初めて渡った時、浩は使用人として執事を1人、女中を4人引き連れていましたが、到着後まもなく彼女は女中に対する規則を作っています。例えば一部ですが、内容はこうです。
1.溥傑のことは御上(おかみ)、自分(浩)のことは奥方様と呼ぶこと
2.御上と奥方様の食器と、女中達の食器は一緒に洗わないこと
3.御上と話すときは、事前に執事の許可を得てから、膝まづいて話すこと
(この原文は現在国会図書館で閲覧できるようです)すごい規則です。 3.などは話というよりは、直訴でしょう。
さて 『流転の王妃の昭和史』 には、浩が中国人の使用人が愚痴をこぼしているのを聞いてしまうシーンがあります。日本人、国とった、言葉とった、できるもの皆とった、それでまだ、文句あるか?
これに対して浩は心の中で叫びます。
私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。
(そうよ、そのとおりよ、あなた達は何も悪いことをしていない、悪いのは日本人なの・・・・)私は日本人であることが辛かったのです。なれるものなら、中国人になりたかったのです。そして、彼等と一緒になって日本人を思い切り罵倒してみたかったのです。しかし、民族の血というのは非情なものでした。私にはそれが許されないのです。
これは明らかに作り話です。
悪いのは日本人なの・・・、というのは、あるいはそのとおりかも知れませんが、なれるものなら中国人になりたいとは、話が飛躍しすぎます。王妃になれなかった浩が、せめてもの憂さ晴らしとして自伝のタイトルに 『王妃』 の文字を入れているのと矛盾しないでしょうか?さらには自分と夫の食器と、女中達の食器を一緒に洗ってはならないと、というほどの身分意識と差別意識を持った浩が、中国人の境遇に同情していたでしょうか?
浩は、自分は日本人という特別な国民であり、更にその中でも特別な階級の出身と思っていたし、満州皇弟の妻という特別な身分である思っていたのと矛盾しないでしょうか?
玉音放送を大栗子で聞いた後、浩は 『こうなった以上、吉岡は最後まで運命をともにいたします』 という吉岡の言葉に、今までのわだかまりが一瞬にして消えた、といっています。しかし、この 『一瞬にして消えた』 という記述こそ、浩が吉岡から受けた仕打ちを許したという意味ではなく、『流転の王妃の昭和史』 における吉岡に関する記述の信憑性を高めるために書かれたのではないでしょうか?
あれほどひどい吉岡だったけれど、その一言で過去は水に流すわ・・・。
『一瞬にして消えた』 の意味するところはこのようなことです。ちょっと読んだだけでは、浩の心の広さを表しているようですが、読みようによっては、この一文は、それまでの吉岡の浩に対する 『ひどさ』 を強調する効果を生み出してはいないでしょうか?
ひねくれた解釈かもしれませんが、私はこれも作り話だと思っています。さらに 『流転の王妃の昭和史』 には吉岡の傍若無人ぶりをあらわすエピソードとして、こんなことが書かれています。ただしこれは浩が直接聞いた話ではなく、ウワサを聞いたにすぎません。
吉岡は「皇帝なんて、可哀想なもんさ。身寄りもなし、後嗣ぎもなし、わしが世話してやらにゃ、どうにもなりゃせん。うん、まあ早い話、わしの子供のようなものさ」 と言い放ち、笑い飛ばしていたということです。
普通こんな目にあったり、こんな話を聞けば、手記にその人のことを良く書くはずがありませんね(笑)
しかしこれも前記した入江曜子の吉岡評と矛盾します。吉岡にすれば立場上原則を踏み外すことはできません。
それでなくとも彼は、『職務に忠実であり、それを果たす上で有能な人』 だったのです。吉岡の原則とは何か。
相手が誰であれ、媚びでもへつらいでもなく、規則に従って職務を遂行することでした。
そんな吉岡にとって、皇帝の弟とはいえ皇族ではなく、一市民であり、上尉(溥傑の階級)にすぎない溥傑や、その妻を特別扱いすることはできず、秩父宮殿下を出迎えるにあたって、飛行場で浩に罵声をあびせて満座の中で恥をかかせたのは、そのことが言いたかったからではないでしょうか。もちろん、やり方はスマートではありませんが。(秩父宮殿下という皇族を迎えるにあたって緊張していた吉岡は、華族風を吹かしてやって来た浩に腹を立てたとも考えられます。)ともあれ、浩は自分の華族出身、皇弟の妻というプライドをずたずたにした吉岡が許せず、彼への反感が 『流転の王妃の昭和史』 の中で吉岡を悪く書かせたのでしょう。そのキッカケになったのが1946年8月、東京裁判におけるあの溥儀の証言だった、と私は思います。
浩は 『流転の王妃の昭和史』 でこのように述べています。東京裁判での溥儀氏の証言は、ソ連監視下で多少の誇張があったとはいえほぼ事実どおりです
まあ、溥儀氏は偽証した、などとは間違っても書けませんね(笑)
東京裁判での溥儀の証言を知った浩は、それが偽証であることが立証されなかったため、吉岡を悪者に仕立て上げることを思いついたのでしょう。元々快く思っていなかった人ではありますし、溥儀の証言はその裏づけになるのです。もっとも溥儀の証言は偽証であろうと、正しかろうと、裁判そのものの大勢には影響はなかったのですが。溥傑はこうした浩の行為(吉岡への誹謗等)を黙認していたはずです。なぜなら、他ならぬ浩の自伝を夫である溥傑が読まないはずがないからです。しかし溥傑は晩年、入江曜子の取材に応じ、入江氏の吉岡に関する質問に、少々間をおいてから遠い目をして、・・・吉岡さんは良い人でした。私達は吉岡さんのことを悪くいいすぎました・・・・と言葉少なに話したようです。
ソ連に抑留され、何も知らずに死んでいった吉岡もまた、戦争の犠牲者でした。
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『わが半生』はかなりの部分修正されて出版されていたようです。
今年(2006年)12月。
朝日新聞に原文に忠実な『完全版』が出版されるとの記事がでていました。以下の文は、その日の掲示板に私が書いた文章です。今朝の朝日新聞に面白い記事が載っていました。
愛親覚羅溥儀の自伝『わが半生』は現在出版中のものは削除や改ざんがあるが、来年1月にそれを修正した『完全版』が出版されるとのことです。
私は拙稿で、溥儀の東京裁判における偽証と『わが半生』のデタラメぶりを批判し、皇帝御用掛だった吉岡安直は、溥儀と愛親覚羅浩が中国共産党に捧げた生贄だったとして吉岡を弁護しました。
この新聞記事を読む限り、私の吉岡への弁護は正しかったようです。今のところ(2006年12月20日)、まだ『完全版』は読むことができませんが、発売されたら一応読んでみて内容を確認したいと思います。場合によったら私の文を訂正するかもしれません。