溥傑と浩
1937年、愛新覚羅溥儀の弟、溥傑(ふけつ)は日本人女性、嵯峨浩(さが・ひろ)と結婚しました。2人の結婚はマスコミにも大々的に取り上げられ、日満両国の親善のかけ橋と祝福されたのです。
西暦 出来事 1914 嵯峨浩 生まれる 1928 溥傑 日本へ留学 1937 溥傑と浩 結婚 溥傑と浩 満州へ渡る 1938 長女慧生誕生 1940 二女嫮生誕生 1945 8月9日、ソ連軍、対日参戦 12日、関東軍司令部、通化に移転 満州国政府、大栗子に移転 18日 溥儀 皇帝を退位 19日 溥儀一行 日本へ亡命する途中でソ連軍に捕らえられる 浩 嫮生、婉容、流転が始まる 1947 浩、嫮生 日本へ帰国 1950 溥傑、溥儀 ソ連より中国政府に引き渡され、撫順の戦犯収容所に収容される 1954 溥傑 慧生が周恩来首相に書いた手紙を受け取る 1955 浩 溥傑の手紙を受取る 1957 慧生 天城山に死す 1960 溥傑 特赦となり、北京に帰る 1961 浩、嫮生 中国で溥傑と16年ぶりに再会 1974 溥傑夫妻 来日 1987 浩 北京の病院にて死去(享年73歳) 1991 溥傑 立命館大学より名誉法学博士の学位を授与される 1992 溥傑 来日 溥傑 北京にて中国訪問中の天皇・皇后両陛下を表敬 1993 溥傑 病に倒れる 1994 溥傑 北京の病院にて死去
■見合
嵯峨家は公家の中でも五摂家につぐ名家といわれ、明治天皇の生母の実家である中山家とも、大正天皇の生母の実家である柳原家とも親戚であり、浩の父方の祖母は明治天皇の従姉妹にあたります。
嵯峨浩は1914年、嵯峨公爵家の当主嵯峨実勝(さねとう)、尚子(ひさこ)の長女として誕生。その話が持ち込まれるまでは学習院を卒業後、自宅で絵を描いたり友人と遊ぶ、いわば気楽な令嬢でした。見合い話を持ってきたのは元関東軍の本庄繁陸軍大将。本庄は1945年、敗戦の時自決しています。
関東軍にとって皇帝溥儀は、あやつり人形とはいえ形式上は皇帝ですし、満州国を完全に支配するためには邪魔な存在でした。また、子がいない溥儀に代わって目をつけられたのは弟の溥傑で、彼に日本女性を娶わせて男子が生まれれば、これを皇帝にすれば良い、と考えたのです。関東軍は満州国の皇位継承法に目をつけ、皇帝に子がない場合は孫が、子も孫もいない場合には弟が、弟亡き後はその子が・・という具合に変更し、溥儀に強要してこれを認めさせたのです。当時溥傑は日本の陸軍士官学校に留学し、見習い士官として歩兵第59連隊に入隊していました。
溥傑の結婚話に慌てた溥儀は、中国人女性を溥傑と結婚させようとしますが、関東軍がこれを承知するはずもなく、話はどんどん進んでいきます。見合いは1937年1月18日。場所は浩の母方の実家浜口家(東京都大崎)で、この家は現在タイ国大使館になっています。
見合の席で、溥傑は浩に一目惚れしたようですし、浩も事前に見合写真を見て、また溥傑本人にも会って、彼の誠実で聡明そうな姿に好意を持ちました。さらには浩の祖母も、それまで何のかんのといっては話を断ろうとしていたのがウソのように、あの人なら!、と太鼓判を押すようになったのです。
こうして話はまとまりました。もっとも嵯峨家にこの話が持ち込まれた時には、すでに断れる状態ではなかったのですが。2月になると、2人の婚約はマスコミに大々的に取り上げられました。それは満州事変、国連脱退など暗いニュースが多かった当時では久しぶりの明るい話題で、国民はこの婚約を自分のことのように喜び、2人を祝福したのです。
1937年4月3日。
溥傑と浩は軍人会館、現在の九段会館(東京都千代田区)で本庄繁の媒酌で挙式しました。沿道は日満両国の旗を振って歓迎する子供をはじめ、大勢の人で埋め尽くされ、披露宴は林銑十郎首相以下500人の出席者が2人を祝い、2人は日満両国親善のかけ橋と祝福されます。
新婚家庭は千葉市の稲毛で、溥傑が士官学校へ行っている間は、来日している溥儀の妹に中国語を習い(溥傑は日本語がぺらぺら)、時には婦人雑誌の記者が訪問したり、休日になると中国からの留学生が押しかけたり、なかなか充実した毎日だったようです。
9月になると溥傑は士官学校を卒業し、満州に戻りました。浩が日本を発って満州に向かったのは10月12日。すでに浩は妊娠していたので、安定するまで待っていたのです。
■満州でさて溥儀にとって浩は、単に弟の嫁さんでは済まされないものがありました。
子供のいない溥儀は、このままでは皇位は溥傑に、さらに男子が生まれればその子に引き継がれ、自分も溥傑も場合によったら暗殺されるかも知れないと恐れていたのです。満州に渡った浩は溥傑に同行し、宮廷で溥儀に挨拶した後、皇后の婉容を交えて会食をしました。
この席で浩は婉容の健啖ぶりに驚きますが、この時婉容はすでにアヘン中毒が進行していて、その影響のせいか過食症気味だったのです。溥儀はこの席で浩に皇后の目が大きいと思っていたが、浩の目も負けずに大きいね(流転の王妃の昭和史)
と、浩というよりは、その背後にある関東軍を恐れていた割には、こんなこともいって笑ったのですが、あるいは恐怖を紛らわせるためだったのかもしれません。この席での溥儀の言葉が伝わったのかどうかはわかりませんが、浩は目が大きかったので、宮廷の女官達の間で浩は 『目玉の奥様』 と呼ばれるようになりました。(陰口かな、これは。)
以下、特に断り書きのない限り、引用はすべて『流転の王妃の昭和史』によります。
溥儀の浩へのわだかまりは一生涯のものでしたが、このころはなおさらで、溥儀は溥傑と食事をする場合、浩の手作り料理は溥傑が食べるまでは決して先に箸をつけるようなことはしなかったのです。
溥傑が彼の妻といっしょに東北(満州のこと)へ帰ってきてからは、私はある考えを決めた。溥傑の前では心に思っていることを何も口に出さぬこと、溥傑の妻が私に贈ってくれた食物はひと口も食べぬこと、というのである。
もし溥傑が私と一緒に食事をし、食卓には妻の作った料理が並んでいたら、私は必ず彼が先に箸をつけてから少し食べることにした。やがて、溥傑がまもなく父になるというころ、私はびくびくしながら自分の前途を占い、また弟のことまで心配した。私はあの帝位継承法の前の方の数ヵ条はあてにならない、あてになるのは、「弟の子がこれを継ぐ」という言葉だけだ、と信じていた。(わが半生)
1938年2月26日、新京市立病院で長女の慧生(えいせい)が生まれました。生まれた子が女児と知ったときほど溥儀がほっとしたことはなかったでしょう。続いて1940年には二女の嫮生(こせい)が生まれました。溥儀は慧生がよほど可愛かったらしく、慧生にバイオリンを弾かせ自分はピアノで伴奏したりしたようです。また慧生が裾の長い服を着て宮廷に参内したとき、慧生は裾を足に引っかけて大理石の床に転んでしまいました。すると溥儀はあわてて慧生を抱き起こし、子供にこんなものを着せては危ないではないか、と浩に注意したのです。
浩は、こんなに皇帝に愛されるなんて慧生は本当に幸せ者だと感激しますが、慧生が男の子だったらどうだったでしょう?
浩の言葉を借りれば、当時満州の宮廷で権勢を振るっていたのは、関東軍参謀で皇帝御用掛(付き人)の吉岡安直でした。
満州に渡って間もなく、こんな事件が起こります。秩父宮殿下(昭和天皇の弟)が視察のため満州を訪れることになり、そのことを事前に皇太后(昭和天皇の母)からの手紙で知った浩は飛行場まで出迎えに行きました。
出迎える人は関東軍や国防婦人会の人達で、あらかじめ決められていましたが浩はそれを無視しています。皇太后陛下からの手紙には、秩父宮殿下が満州に行くのでよろしくたのむ、と書いてある。どうしても行かなくては・・・ということでした。
浩が飛行場に到着すると、すでに満州国政府関係者、関東軍首脳、国防婦人会幹部などが整列していました。この時浩が、国防婦人会の列に割り込むと、それに気づいた吉岡に一喝されるのです。私もその列に加わったところ、吉岡大佐がつかつかと歩み寄り、
君はなにしに来た!上尉風情の女房の来るところじゃない!帰れ! (上尉というのは溥傑の軍における階級)
大勢の前であまりの屈辱でしたが、場所柄もあって浩はうつむいて唇を噛み締めていましたが、国防婦人会の人のとりなしでやむなく吉岡も引き下がったのです。しかし居並ぶ国防婦人会の人達の顔を浩は見逃しません。いい気味だ。満州皇弟(皇帝の弟、溥傑のこと)の妃殿下だなんて、大きな顔をするんじゃないよ。
声には出さなくとも国防婦人会の人達の顔は明らかにそういっていた・・・浩はそう述べています。この時以来、浩は吉岡に反感を持ち続けることになるのです。もっとも飛行機から下りた秩父宮は、浩を見るなりこう言ったそうです。(秩父宮殿下は)「やあ、ご苦労!」とお言葉をかけてくださいました。そのとき、吉岡大佐のバツの悪そうな顔はたとえようもありませんでした。
浩にとっては溜飲の下がる思いだったでしょうが、普通こんな目にあえば、手記にその人のことを良く書くはずがありませんね(笑)
また関東軍のこともこう述べています。吉岡大佐にかぎらず、「五族協和」のスローガンを掲げながらも、満州ではすべて日本人優先でした。日本人のなかでも関東軍は絶対の権力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。
しかし、実際の吉岡は、『流転の王妃の昭和史』 や、『わが半生』 に書かれたような人物ではなく、もっと立派な人だったと思うのですが、そのことはまとめてここに書くことにします。
■流転のはじまり敗戦はこの夫婦を引き裂きました。
ソ連軍が満州に侵入すると、関東軍は新京を放棄し大栗子へ遷都。ここで8月15日を迎えました。
8月18日。溥儀は皇帝を退位し、満州国は建国後わずか13年5ヵ月で消滅したのです。退位式の後、満州国の中国人関係者は引上げてしまい、残されたのは溥儀以下愛新覚羅一族、宮廷職員、吉岡安直達日本人職員等でした。もはや彼等にとって、行き先は日本以外にありません。
溥傑は溥儀、吉岡等と共に日本へ亡命するため飛行機に乗り込みました。
浩は溥傑とは別行動で、幼い嫮生と皇后の婉容、貴人の李玉琴を初め、他の溥儀一族と陸路朝鮮へ行き、そこから船で日本へ帰る予定でした。慧生は通学の関係で終戦前にすでに日本に帰っていたのです。これがその後16年にわたる夫婦の別れでした。
溥儀達は飛行機を乗り換えるため到着した撫順で、待ち受けていたソ連軍に捕らえられ、そのままソ連に抑留されてしまったのです。浩達はこれ以上の衝撃はないほどの衝撃を受けましたが、浩達にも危険がせまっています。各地で中国人、朝鮮人が暴徒と化し、日本人とみれば襲いかかってきているのです。暴徒が押し寄せてくるという報せに、別の宿舎に移るため外に出た浩達一行ですが、浩は現れた中国人から日本人だ!と指差され、蒼白になります。浩は念のため中国服に着替えていたのですが、なんとなく雰囲気でわかるのでしょう。
日本人とわかれば暴行を受けるし、命の保証もないのです。この時、とっさに溥儀の妹が、私の姉です!と返答したので、なんとかその場は助かりました。これ以降、浩の流転先を赤い字で書きます。
浩達は大栗子から臨江に移動し、朝鮮人の家に住み始めました。ここで浩達は素性がばれて、進駐してきた八路軍(中国共産党軍)に捕らえられてしまうのです。1946年1月には浩と嫮生をはじめ、婉容、李玉琴達11名はトラックに乗せられて通化に連れて行かれます。通化では、満州各地から避難してきた日本人が3万人ほどいましたが、進駐してきた八路軍兵士の日本人への虐殺、暴行が後を絶たなかったため、元関東軍兵士である藤田実が中心になって400人が決起し、そのほとんどが戦死するという事件が起こります。
この旧日本兵士達の決起は、事前に八路軍側に情報が流れていたため、待ち受けた八路軍にとっては飛んで火に入る夏の虫状態だったといいますし、一説によれば、決起は八路軍の扇動だったともいわれています。
また多くの日本人民間人も巻き込まれ、逮捕された後処刑された人、拷問を受けて殺された人は1190人といわれています。(通化事件 1946年2月3日)この時、浩達の宿舎も戦闘地域内にあって、嫮生を抱きしめる浩のすぐ近くを銃弾が行き交い、一夜明ければ壁は弾丸の跡で穴だらけ、部屋には旧日本兵の死体があちこちに横たわっているありさまです。
生きている、とほっとしたのもつかの間。
今度は長春へ移動です。浩達にとっては、かつての満州国の首都、新京です。
賑やかだった町並みは、いまや廃墟と化しています。着くなり浩と李玉琴は八路軍の取調べを受けました。
李玉琴は下層階級の出身であり、溥儀との暮らしは短期間だったので通り一遍の尋問で釈放されました。ただし溥儀と離婚するという条件で。彼女は故郷に帰りましたが、その後の人生も平穏ではありませんでした。溥儀の妻だったことがわかると職は失うし、再婚しようと思った人は左遷され離れていくし・・・。彼女が実際に溥儀と離婚するのは1958年のことで、その後再婚し子供も生まれています。
しかし浩への尋問は厳しいものがありました。
溥傑と結婚した理由は何か? 関東軍の手先なのではないか? 日本の天皇家の一族なのではないか?等々。
取調べが済まないうちに、浩と嫮生、婉容、愛新覚羅家の書生3人に移動命令が出て、一行は吉林の公安局へ行き、そこの留置場に入れられてしまうのです。浩はめまぐるしく変わる自分達の運命に何も考える気力もなく、ただ呆然とするばかりでした。間もなく国民党軍の吉林襲撃の情報が入ったため、浩と嫮生は吉林駅で軍用列車に乗せられ、延吉駅で下ろされました。そこから刑務所に入れられるのですが、駅からは荷馬車に乗せられ、しかもその馬車には 『漢奸 偽満州国皇族一同』 と大書された旗がかかっていたのです。町中の人のさらし者になり、罵声を浴びる浩達ですが、じっと耐える以外にありませんでした。
刑務所内では、婉容はこの時すでに重度のアヘン中毒から精神異常をきたし、食事も自分の身の回りのことも何一つできず、部屋の中は嘔吐と排泄物にまみれていました。監視の兵士もこれには閉口し、部屋の中に入りたがらず、やむなく浩が世話をしなければなりませんでした。
精神異常とはいえ、皇后としてのプライドは無意識の内に持っていて、監視の兵はボーイと呼ばれ、浩は宮廷の女官と思われていたようで、何かと用をいいつけられますが、これが一層悲惨さ増幅するのです。また移動です。1946年6月、八路軍と共に浩と嫮生は佳木斯(チャムス)へ移動したので、婉容の最期は誰が看取ったのかわかりません。彼女は禁断症状、栄養失調、精神異常から廃人となった体でもがき苦しんで亡くなりました。婉容がいつ、どこで死んだのかは不明(おそらく1946年ごろ)で、墓すらわからないのです。これが栄華を誇った清王朝最後の皇后の末路でした。
佳木斯では、ここでも尋問されました。
関東軍に協力したか?
貴族として贅沢な暮らしをしていただろう?その都度否定すると
日本の皇室をなくすよう力を尽すならすぐにでも釈放してやる
八路軍の看護婦として働かないか?これに妥協してしまっては何にもなりませんし、第一信用できる相手ではありません。
しかしなぜか突然浩は釈放され、八路軍の兵に護衛されてハルビンへ行き、紅卍会(当時あったボランティア団体)の世話になり、ここでようやく浩は日本に引揚げる見通しができたのです。貧しい日本人引揚者を装った浩は嫮生の手を引き、他の大勢の日本人引揚者と共に貨物列車に乗って長春、瀋陽を経て錦洲へ着き、引揚船の出る葫蘆島で待機していました。ハルビンから移動中、時にはソ連兵や国民党軍に襲われたこともありました。
そんな時、男たちは中央に女性を座らせ、自分達は円座になって取り囲み、極力ソ連兵や国民党軍の目に女性たちをさらさないようにしますが、そうはうまくいきません。
武器を持たない日本人にはどうすることもできず、相手が女性を要求する時は、その意味での犠牲者が出たのです。彼女たちの多くは、水商売の人、身寄りのない人でした。葫蘆島で待機していた浩と嫮生ですが、今度は国民党軍に見つけられて捕らえられ、北京に送られてしまうのです。
浩は北京ではあるホテルの一室に監禁されましたが、この時はボーイに頼みこんで溥傑の父、醇親王に会いに行くことを黙認してもらっています。久しぶりに嫁にあった醇親王ですが、彼の力ではどうすることもできず、金を渡し食事(浩にとっては久しぶりのご馳走)をさせるのが精一杯でした。間もなく北京から飛行機で上海に移った浩ですが、ある日、突然田中徹雄と名乗る日本人の訪問を受けるのです。
田中の態度や話から、浩は、脱出させるという田中の言葉を信じ、田中の用意した自動車に嫮生とわずかばかりの身のまわりのものを押し込み、そのまま逃走。ここの部分、流転の王妃の昭和史より書いていますが、実はよくわかりません。
この田中という男が何者なのか、岡村という元日本軍司令官が南京政府と交渉して浩を引揚げさせたようですが、この岡村はなぜ南京政府に交渉できたのか。ともあれ、ここでやっと浩は引揚船に乗り、日本に帰国できたのです。
■再び中国へ
一面の焼け野原になった東京に戻ってきた浩は、東横線沿線の日吉に住むようになります。
すでに華族制度はなくなり、浩の両親は野菜を作り、鶏を飼う毎日。
浩は特技を生かして習字を教えたりしていましたが、経済的にはそれほどの余裕はなかったでしょう。それでも慧生と嫮生の姉妹は学習院に通学し、中国語を学びたいという慧生を渋谷の中国人の先生のところに通わせたりしていますから、一般庶民から見れば羨ましいかぎりだったでしょう。嫮生が学習院に入学するにあたって、面接の時こんなことがあったそうです。嫮生さんは、いままでどこにいましたか?という面接官の質問に、嫮生は元気いっぱいに答えました。
はい、カンゴクでした!
さて、家の方はなんとか軌道に乗ってきたものの、溥傑の消息は依然知れず、浩は焦燥がつのりますがどうすることもできません。
中国からの帰国者に会うたびにそのことを尋ねますが、ソ連にいるらしいという人もいれば、中国に収容されているという人もいます。
でも、どうやら、溥傑は無事に生きているらしい・・・。
そんな浩に奇跡が起こります。溥傑の手紙が届いたのです。私はいま撫順にいる。元気で変わらないから心配いらない。・・・こうして便りができるようになり。うれしく思っている。これも慧生のおかげだ。慧生の手紙を周総理がお読みになり、私に届けてくださった。とても立派な中国文だと、総理も感心しておられたときいている。
慧生が父に会いたいと手紙を周恩来首相(当時)に出したのです。父溥傑の消息は、長らく途絶えたままで、母も私たち娘も大変心配しています。私たちは恋しい父に何度手紙を書き送ったかわかりません。同封した写真は何枚を数えたでしょうか。しかし、返事は一度もなく、私たちはただ嘆くばかりです。
・・・・・・
たとえ思想が違っても、親子の情には変わりがないと存じます。周恩来総理に、もしお子さまがおありになるなら、私どもが父を慕う気持ちもおわかりいただけるのではないでしょうか。夫との再会を待って私たちを育ててきた母が、父の身を心遺う気持ちを理解していただけるのではないでしょうか。
・・・・・・
慧生の手紙に感動した周恩来の特別のはからいで、溥傑の手紙が日本に届いたのです。この時慧生は16歳。父を想い、中国人の先生に師事して熱心に勉強した中国語の成果でもありました。慧生はたいへん字がきれいだったようですが、それ以上に真心がこもっていたのでしょう。 『流転の王妃の昭和史』 のこの部分、読んでいてたいへん感動的です。
1957年12月。
悲劇が浩を襲います。
4日、いつもどおりに大学へ行くといって家を出た慧生ですが、門限(8時)を過ぎたまま、9時になっても帰宅しなかったのです。
浩の心配、不安は一通りのものではありません。以前から、姫(慧生と嫮生)のどちらかを拉致して中国へ連れて行き、清朝再興を図る計画があるとか、日本全国に秘密結社の組織ができていて、渋谷付近を根拠地に、毎日お嬢さんをつけ狙っているとかの話を聞いたり、手紙を受取ったりしていたのです。浩は親戚や心当たりの学友宅に電話をかけまくりますが、ある学友から、大久保武道なら知っているかもしれない。彼は慧生に夢中だったから、といわれたのです。さらには別の友人からは、大久保はピストルを持っているともいわれました。
慧生の身はいま一人の異常性格とも思える男性によって大変な危険にさらされている・・・・
浩はあわてて大久保の住む新星寮に行き、寮長と会って話しますが、はっきりしたことは何もわかりません。しかし、同じ寮生の話から、大久保は伊豆の地図、特に天城山のを広げていて長いこと眺めていたらしい・・・・・。捜査の中心は天城山に移りました。
慧生と大久保さんを乗せたタクシー運転手の証言から、二人が天城山に向かったのは間違いないことがわかりました。なんでも、慧生はしきりに帰りのバスの時間を訊いていたということです。
「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と何度も連れの男性に繰り返していたということです。
そして12月10日。浩の願いもむなしく、天城山で慧生と大久保の心中死体が発見されたのです。二人の死はマスコミに大々的に取り上げられました。心ない人中傷もありました。しかし、何をいわれてもじっと耐える以外ない浩でした。慧生の葬式が済むと、浩は慧生の友人にいろいろ尋ねて回ったようで、このように述べています。
学友たちの話を総合すると、慧生が予想以上に大久保さんとの問題で悩んでいたのがわかってきました。
中略
(慧生は)何度も大久保さんに交際したくないと申し入れていました。友人たちの話によれば、大久保さんはたびたび「おれは失恋した」と広言し、鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行ったこともあるそうです。そして「心の迷いがとれた。もうつきあいません」と断言し、坊主頭になったり、また髪を伸ばしたりしていたといいます。
この事件の概略は以上のとおりです。 『流転の王妃の昭和史』 を読んだ限りでは慧生は、異常な同級生につきまとわれた結果の無理心中の犠牲者、としか読みとれません。しかし・・・・・
1960年、ついに溥傑も特赦となり、北京に帰ってきました。兄の溥儀の特赦の1年後ですが、これはどうやら夫人が日本人なので、日本軍国主義とまだ関係しているのではないか、と疑われていたようです。
浩が、慧生の遺骨を持って母親と末の妹と嫮生で北京に行き、溥傑に再会したのは翌1961年のことでした。周恩来のはからいで、浩に中国で住む意思があるかどうかが確認され、浩としては1日も早い 『帰国』 を望んでいたのです。
日中国交回復前のことですから、羽田から香港へ行き、そこでビザを取って広州を経て入国するのです。列車の窓から見える風景に懐かしさ、うれしさを感じつつ、浩達は広州の駅で、待っていた溥傑や萬嘉熙(ばんかき・・・溥儀の5番目の妹の夫)とついに再会することができました。あれから16年の月日が流れています。
膝の上で大事に抱えられてきた慧生の遺骨は、生前あれほど恋しがっていた父の腕にしっかりいだかれました。
「申し訳ございません・・・」
私は言いかけて、喉をつまらせてしまいました。夫も目をしばたたかせて、何度も頷いていました。悪いのは自分のほうだよ、とこの私を慰めてくださっているようでした。・・中略・・
長らく収容所に抑留されていた夫は私に倍する辛酸をなめ尽くしてこられたことでしょう。31歳であった私ももはや47歳、私自身も慧生を喪った心労の果て、さぞや生気のない顔色をしていたにちがいありません。
「さあ、浩さん・・・」
夫はホテルに向かうときになって、初めて私に口をききました。そして片腕で慧生の遺骨をしっかり抱え、片肘を曲げて私に差し出しました。新婚時代からの習慣どおり、つかまって歩きなさいというのです。
その後、溥傑と浩は北京で、故醇親王(溥儀や溥傑の父親)の持ち家の一つをもらって暮らすようになりました。浩の母親は1ヵ月後に、嫮生と浩の妹は3ヵ月後に日本に帰国し、ここにようやく浩と溥傑の2人だけの生活がはじまったのです。
昭和初期という軍国主義の暗い時代。
固い絆で結ばれた溥傑と浩の夫婦愛は一筋の光を感じます。たとえ政略結婚であっても、国際結婚であってもこれほど固く結びついた夫婦はちょっと珍しいのではないでしょうか。
■しかし・・・・・
ところで溥傑は初婚ではありません。
16歳の時結婚した人がいたのですが、溥傑が陸軍士官学校に入ったころには仲は冷え切っていて、この見合話が持ち上がるのと同時期に正式に離婚しています。見合の席で溥傑は浩に一目ぼれしたようですが、浩の方はそうはいきません。
結婚するまでの間、浩は自分の運命を嘆き、涙にくれる毎日だったようです。また満州に渡ってから浩は、はじめて溥傑が再婚だったことを知り、これまた大泣きに泣いたようです。溥傑にすれば、溥傑は皇族の身分ではなく、一市民だったこともひけ目の一つだったことでしょう。溥傑が生涯浩に優しく接したのは、浩に対してひけ目をいくつか持っていからではないでしょうか。
しかし浩にとって、この世の地獄のような流転を経験し、こんな時夫がいてくれたらと何度も何度も思ったことでしょう。この流転の日々に、あらためて溥傑の愛情に気づき、帰国してから再び会うまでの長い年月に浩の溥傑への思いは一層増していったことと思います。# & ♭
浩の自伝に 『流転の王妃の昭和史』 という本があります。これは出版当時相当話題になったようで、京マチ子主演で映画化もされ、また2003年には常盤貴子主演でTVドラマにもなりました。
『流転の王妃』 は1959年に出版されましたが、浩が北京で暮らすようになってから加筆・訂正をして書き直したのが 『流転の王妃の昭和史』 です。ですから実際には別の本なのですが、 『流転の王妃』 は絶版で読めないので、私は同じものとみなして書いています。
さて、この本のタイトルには根本的な間違いがあります。
そもそも 『王妃』 とは、誰のことなんでしょう?浩のことでしょうか?
違います。
浩はその生涯において、王妃になったことはないのです。
TVドラマ化された
『流転の王妃の昭和史』
2003年度作品
溥傑 :竹野内豊 浩 :常盤貴子 山口淑子 :天海祐希 甘粕正彦 :竹中直人 川島芳子 :江角マキ子 溥傑は皇弟とはいえ、軍隊にあっては上尉であり、社会にあっては一市民にすぎませんでした。満州国で皇族と呼ばれるのは皇帝溥儀と皇后の婉容、それと貴人(側室)の譚玉齢と李玉琴だけだったのです。 それと当時は一般大衆はいざしらず、華族の結婚には人柄より家柄が重視された時代です。嵯峨家にふさわしい家柄といえば、同じ華族か、できれば皇族(もちろん日本の)だったでしょう。そして満州国はほどなく崩壊し、皇帝も皇后も皇族もいなくなってしまったのです。
これによって浩のプライドが大いに傷ついたことは間違いなく、それでもタイトルに 『王妃』 をつけたのは、王妃になれなかった浩の鬱憤を、このようなカタチで晴らしたかったからでしょう。嵯峨家に生まれた浩には、名家に生まれ育った人特有の『意識』があったことは容易に想像できます。その意識が、自伝にこのタイトルをつけさせたのでしょう。
タイトルだけでなく、この本には浩の名家意識、プライドの高さがあちこちで見受けられるのです。秩父宮殿下を飛行場に出迎えた時のことも、その時の国防婦人会の人達の様子も前記しました。
いい気味だ。満州皇弟の妃殿下だなんて、大きな顔をするんじゃないよ。
こんなことを自伝に書くということは、 『大きな顔をしている』 というウワサが直接にせよ間接にせよ、それ以前から浩の耳に入っていたことを意味します。華族出身という意識から、浩は満州ではそのように振るまい、他の日本人からはそのような目で見られていたのではないか、浮いた存在だったのではないか、と私は想像します。
ここは日本ではありません。
満州には大勢の日本人がいましたが、そこには新興国家としてのある種のリベラルさがあり、日本での秩序・序列が通用しない部分もあったのです。満州に来てまでも日本国内と同じように振る舞う浩は、日本人社会では敬遠されていたのではないでしょうか。
それは浩にとっては不愉快なことであったに相違なく、その証拠に 『流転の王妃の昭和史』 には関東軍や吉岡安直のことは別として、浩と他の日本人との交流は一切書かれていないのです。# & ♭
1957年12月。
慧生と大久保武道の心中事件が起こりました。
『流転の王妃の昭和史』 を読むとストーカーのようにつきまとう異常性格者大久保に、慧生が誘拐されるように天城山に連れて行かれた結果の無理心中だったという印象を受けます。(実は私もはじめはそう思いました)しかし同書が出版され評判を呼ぶと、大久保の友人達は彼の名誉を回復すべく、大久保と慧生が交わした手紙をまとめて 『われ、御身を愛する』 という本を出版したのです。それによれば、この事件は大久保の身勝手な無理心中ではなく、2人の合意の結果なのです。
そう。
慧生と大久保は互いに愛し合い、将来を誓った仲だったのです。しかし慧生は、嵯峨家にふさわしい家柄ではないという理由で浩から大久保との交際を禁じられていましたし、慧生は大久保の家庭での問題に深く同情していたのです。
失踪した日の朝、慧生は大久保が寄宿していた新星学寮(学生寮)の穗積五一宛てに遺書を投函。そのまま2人で伊豆の天城山に向ったのです。慧生が遺書を嵯峨家ではなく穗積に郵送したのは、実家に送ってはもみ消されてしまい、嵯峨家の大久保への非難だけが一人歩きし、結果として大久保の名誉が損なわれるという配慮でした。
嵯峨家では、慧生は無理心中の被害者であることを強調したかったのでしょう。
2人が発見されてた時、はめていた慧生の右手の婚約指輪は、いつの間にか消えていました。
穗積は郵送された慧生の遺書を 『すぐに返す』 といわれたので、浩の弟の嵯峨公元と妹婿の町田氏に渡しましたが、この2人はこの『証拠物件』 を焼き捨ててしまったのです。その一方で浩は慧生の友人に 『報道関係者には、誘拐されたといってほしい』 と電話で頼んでいます。それはすべて元華族・嵯峨家の 『体面』 でした。私は、愛する娘を亡くした浩の悲しさ、無念さには大いに同情します。その思いを、大久保という一人の青年の責任に転化して、自らを慰めたい気持ちもわからないではありません。しかし、だからといって、自伝として出版する本にデタラメを書くのは間違いだ思うのです。家の体面を考えるなら、初めから何も書かなければよかったのです。世間は、浩は悲しみのあまりこの事件を書くことができなかった、と思うでしょうから。
この 『流転の王妃の昭和史』 は読み物としてはなかなか面白いのですが、実際には間違ったことがそこかしこに書かれています。浩は、譚玉齢のあと溥儀の妻になった李玉琴(1928〜2001)は得体の知れない一杯飲み屋の娘といっているし、溥儀最後の妻になった季淑賢(1924〜1997)との結婚生活も
大兄(溥儀のこと)は北京に帰られてから五格格のお世話で季淑賢という女性と再婚されましたが、ご家庭はあまりお幸せではなかったようです。いつの間にか、またおひとりの生活に戻ってしまわれました。
と書いています。五格格というのは溥儀の5番目の妹という意味です。
多くの見合写真(これは関東軍のお膳立てですが)の中から溥儀が選んだ李玉琴は、貧しい家の生まれでしたが飲み屋の娘ではありません。戦後は溥儀の妻と知られると好きな人は去っていくし、仕事は辞めさせられるし、相当苦労もしたようですが溥儀と離婚した後は再婚し、図書館に勤務し、文化大革命の災難を乗り越えて、その後は幸福な一生を終えています。
それと季淑賢は溥儀の最期を見取った唯一の人でした。一人の市民として、はじめて愛する人と結婚できた溥儀の晩年は幸福だったと思いますし、季淑賢は相変らず身のまわりのことがロクにできない溥儀に母親のような愛情を注ぎ、溥儀の死後は毎日のように墓参りをしていたのです。浩には、庶民に生まれた李玉琴や季淑賢が、自分と同じ愛新覚羅家の一族(しかも皇族)になることに耐えられなかったのかもしれません。