Index 群馬良いとこ一度はおいで

群馬県の古跡

私は城跡見物が好きです。
ここでは一つを除いて群馬県内にある城跡を中心に紹介いたします。

枠内にある【解説】をクリックすると時代背景などの解説が表示されます。

 

まず前提としてここの【解説】をどうぞ


反町館 群馬郡新田町
新田義貞の居館と伝えられています。現在では薬師如来をまつるお寺になっています。

【解説】                          

 

生品神社 群馬郡新田町
新田義貞挙兵の地です。

後醍醐天皇から北条氏打倒の綸旨(命令書)を受取った義貞は、おりから来ていた幕府の使者を斬り、一族の者とここに挙兵しました。
1333年5月8日のことでした。その時、義貞に従う武者はわずか150騎だったと言います。

 

分倍河原古戦場 東京都府中市
義貞の挙兵は坂東をゆるがし、各地から続々と兵が加わり4万人に達しました。
5月15〜16日。迎え撃つ鎌倉幕府軍と戦い、これを破り、一気に鎌倉に押し寄せました。

 

平井城 藤岡市
関東管領、上杉氏の居城です。
1438年、上杉憲実の築城と言われています。
最後の城主、上杉憲政は北条氏の圧迫に耐えかねて長尾景虎を頼って越後に逃れます。
長尾景虎は上杉憲政の要請を受けてこの城を取り戻しますが、その後上杉家の名跡と管領職を譲り受け、上杉政虎、上杉輝虎、やがて上杉謙信と改名します。

解説】 

 

箕輪城 群馬郡箕郷町
築城は1512年とも1526年とも言われています。長野氏によって築かれました。
長野業政(ながのなりまさ)は上杉家の家臣で、上杉憲政が越後に逃れた後もこの地にとどまり、武田氏や北条氏を戦いましたが、彼の死後、業盛(なりもり)の代に武田信玄の攻撃で落城しました。1566年のことです。

江戸時代初め、井伊直政(直弼の祖)が一時城主になりましたが、1598年、近くの和田宿に築城・移転して廃城となりました。
和田宿はその後「高崎」と改名されます。  【解説】  【もっと詳しい解説

 

山名城 高崎市
ここは高崎市山名町と言います。
新田義貞の祖先、義重の三男、義範(よしのり)はこの地を領して山名義範と称しました。義範の子孫で最も有名なのは応仁の乱における西軍の総大将、山名持豊でしょう。
領地は日本全土の1/6を占め、六分一殿(ろくぶいちどの)と言われました。

 

根小屋城 高崎市
根小屋とは兵を駐屯させておく場所を言います。
従いまして根小屋は全国にありますが、そこには必ず城跡があります。

この城は戦国時代、西上州を支配した武田信玄が、上州の武将を監視するために築いたと言われています。

 

岩櫃城(いわびつじょう) 吾妻郡吾妻町
1405年、吾妻憲行によって築かれたと言います。
しかし、この城は吾妻氏の居城と言うより、真田幸隆、昌幸父子の城として有名です。

この城は1614年、江戸時代になって200年の歴史を閉じました。
奇岩で知られる岩櫃山の麓にある、難攻不落の名城でした。

【解説】

 

沼田城 沼田市
この城は沼田万喜斎という人が築城しましたが、北条氏に追われてしまいました。やがて、関東に乗り出した上杉謙信の力で、沼田氏は再興されます。
沼田氏滅亡後、真田氏が城主となりました。

今は城址公園になっています。

【解説】

 

松井田城 碓氷郡松井田町
戦国時代、安中氏によって築かれた山城です。豊臣秀吉の小田原攻めに先立ち、上杉景勝の猛攻で落城しました。

 

神流川古戦場 多野郡新町
本能寺の変が起きた時、織田信長の家臣、滝川一益は厩橋(うまやばし、後の前橋)城にいましたが、変に応ずるため急ぎ帰京しようと考えました。

しかしそれは小田原北条氏の知るところとなり、これを阻止すべく兵を差し向けます。
両軍は上野国、武蔵国の境目の神流川(かんながわ)で決戦し、滝川一益は破れてやっとの思いで、美濃に帰ることができました。
戦場は現在の国道18号線で埼玉県から群馬県に入るところの川原です。

 

前橋城 前橋市
1601年、酒井忠重が厩橋(うまやばし、前橋の旧名)城主になった時、彼は徳川家康からから、「関東の華をとらす」と言われました。
前橋城は宇都宮、川越、忍城とともに、関東の四名城と言われたようです。
もともと箕輪城の出城として築かれ、戦国時代は上杉謙信の関東経営の本拠地となっていました。

今は、昔の面影はわずかに残るのみです。

 

高崎城 高崎市
高崎は古くは赤坂の庄と言いましたが、鎌倉初期、和田氏が築城し領主になると、和田宿と呼ばれるようになりました。和田氏は鎌倉幕府侍所別当、和田義盛の子孫と言われます。
戦国時代、この地は上杉・武田・北条氏の勢力圏の接点であり、激しい攻防が繰り返されたところです。和田信繁は武田家の武将として長篠の合戦で戦死。後を継いだ信行は北条氏に属しますが、秀吉の小田原攻めで戦死したとも伝えられます。

ここに和田城は廃城となりましたが、1598年、箕輪城から移った井伊直政によって町の名は高崎と改められ、新に築かれた城は高崎城と呼ばれました。


Index 群馬良いとこ一度はおいで