■坂東の地

関東地方は、かつて坂東(ばんどう)と呼ばれていました。
坂とは「箱根の坂」。
箱根は江戸時代には関所がありましたし、それ以前からも西国と東国の境目と考えられていたのです。

坂東は武士の本場でした。
武士は外国にはない日本独自の階級ですが、なぜ発生したのか。
それを説明するのは本題ではありませんが、最大の理由は桓武天皇による軍隊(国軍)の廃止、解散にあります。

軍隊は一面では警察力です。
当時は治安がきわめて悪く、小人数の盗賊なら検非違使の出動でなんとか対応できても、大規模な盗賊集団にはまったくの無力でした。

当時最大の産業は言うまでもなく農業です。
警察力が弱いため、農場主達はこうした盗賊団への対抗上、武装せざるを得ないようになりました。
これが武士のはじまりです。
したがいまして武士のはじめは、後世の江戸時代のような職業軍人ではなく、武装農民でした。

 

武士は全国で自然に発生しましたが、中でも坂東はその本場とされました。
繰り返しますが、当時の最大の産業は農業です。
農業に必要なのは、土地と水と人手。戦いの多くは土地と水をめぐる争いでした。

さらに当時(平安時代初〜中期)の日本はまだ完全な朝廷の支配下にあったわけではなく、特に東北地方では朝廷側と蝦夷との戦闘は大小かかわらず頻繁に起きていました。
蝦夷との戦闘で大規模な軍事行動を起こす時、朝廷から派遣された将軍は坂東で兵を募集して東北へ向かったのです。(有名なのは後三年の役における源義家でしょう)。

こうした絶え間のない戦いの日々で坂東武者は理想的戦士となり、ついには関八州の兵をもって天下を押さえられる、とまで言われるようになりました。

 

坂東では血で血を洗うという言葉は決して大げさではありません。
たとえ親子兄弟であっても、強い敵と戦い、これを倒すことが板東武者にとって最大の名誉でした。
それまでの日本人にはないタイプの人種であり、京の貴族達が「東夷(あずまえびす)」と称してあるいは軽蔑し、あるいは恐れたのも無理のないことでした。


 

坂東の地は未開の地でしたが、比較的早い時期に開拓されたのは常陸、上総、下総(現在の茨城県、千葉県)です。
当時京都は藤原氏専制の時代。
たとえ皇族であっても藤原氏の権力の前には手も足も出ず、都での立身出世をあきらめた皇族は自ら進んで地方に行き、自分の将来を託したのでした。

地方に出向く方法とは、その国の守(かみ)や介(すけ)に任命されることでした。
桓武天皇の子孫、高望王(たかもちおう、839-911年)は朝廷から「平」の姓をもらい、上総介として上総の国に赴任し、5年の任期が過ぎても京には帰らずその地に留まり、大農場主として周囲を開拓し、力を蓄えて行きました。坂東平氏の祖です。
高望王の長男は平国香(たいらのくにか)。国香の長男は貞盛(さだもり)。平清盛の祖先です。
高望王の三男は平良持(たいらのよしもち)。良持の子が平将門です。

(メモ)
律令制では各地域に国があって、最高権力者は守。現在の県知事です。
守を補佐するものとして、介(すけ、副知事)と掾(じょう、副々知事)がいました。
この制度は形式上ですが江戸時代まで続き、例えば大岡越前守などの名称として残りました。
介で有名なのは、吉良上野介ですね。

上野国(群馬)、常陸国(茨城)、上総国(千葉の一部)は「親王任国」と言って、皇族(それも親王)が守となっています。しかし実際には任地には赴任せず、介がその国の最高権力者でした。
したがって、例えば上野介はあっても、上野守というものは実際にはありませんでした。


 

■新田氏と足利氏

室町時代初期、南北朝の争乱期。
死闘を繰り返した足利尊氏と新田義貞は先祖を同じにする、遠い親戚同士でした。

源義家(八幡太郎)の三男、義国(1082-1155)は、内大臣藤原実能との争いで、下野国足利郡に流されました。
義国の長男は義重(1114-1202)、三男は義康。
足利の領地を継いだのは義康で、ここに義康は足利義康と称するようになり、義重は足利に近い新田の庄を貰い、新田義重と称しました。

何故義重が父の領地を継げなかったのかは不明です。
当時はまだ長子相続は一般的ではありませんでしたが、彼にとっては面白くないことだったに違いありません。義重の不運はまだ続きます。

源頼朝の挙兵を知った義重は、みずからが源氏の流れをくむことから頼朝の出兵要請を断り、独力で平家打倒すべく、兵を寺尾城に集結させました。
寺尾城の所在地は、群馬県太田市とも言われますし、群馬県高崎市とも言われています。

義重の挙兵は疑り深い頼朝を警戒させるに充分なことでした。

その義重。
せっかく挙兵したにもかかわらず、次第に強大になって行く頼朝の勢力の前に義重は屈し、鎌倉に赴き事情を釈明することになりました。
義重は許されて帰郷しましたが、その後も鎌倉幕府内で重用されることはありませんでした。

さらに不運が起こります。
義重の娘は頼朝の兄、源義平(悪源太義平)、に嫁いでいましたが、平治の乱後、義平が平氏に捕らえられて斬られた後は上野(群馬県)に戻っていました。
あろうことか、頼朝はこの娘(と言っても、相当の年齢だったでしょう)にラブ・レターを送ったのです。

頼朝の妻、政子の嫉妬深さと気性の激しさは坂東では知らぬ者はいません。
恐怖した義重は、あわてて娘を他家に嫁がせてしまいます。

これや、あれやで義重は頼朝からは睨まれ、結局幕府内で要職を得ることはできず、鎌倉時代を通して新田氏は無位、無官の一地方豪族にすぎませんでした。

これに反して、新田氏に最も近い親戚である足利氏は巧みに幕府に働きかけ、源家が三代で滅びた後も、北条氏と婚姻などを通じて鎌倉幕府内では最大の実力者になっていました。
新田氏にとってははなはだ不本意、不愉快なことで、鎌倉時代最後のころには足利氏に対する敵意は頂点に達していました。

新田義貞の鎌倉攻めはそんな中で行われたのです。
やがて建武の新政は崩壊し、足利尊氏と新田義貞は南北朝の代表者として戦うようになります。
もし、新田義貞が過去の因縁を捨てて足利尊氏に帰順したなら、幕府内でかなりの要職に就くことが出来たかもしれません。
しかし、新田義貞にとって足利尊氏の軍門に下ることは到底できない相談でした。

(メモ)
義重の子供たちです
長男:義俊・・・里見を領して里見氏を称する。子孫は後に安房(千葉県)に移る。
二男:義兼・・・新田氏を継ぐ。
三男:義範・・・山名を領して山名氏を称する。子孫には応仁の乱の山名宗全が有名。
四男:義季・・・得川(徳川)を領して得川氏を称する。

里見、山名、得川はいずれも群馬県内の地名です。
南総里見八犬伝は安房里見氏の事跡を基に作られたものです。


 

■建武の新政

私が子供のころは「建武の中興」と教えられたものです。
約半世紀にわたる南北朝の争乱は後醍醐天皇と言う強烈な自我を持った専制君主によって引き起こされたものです。

後醍醐天皇の目指すものは「天皇の、天皇による、天皇のための政治」であり、それは明らかに時代錯誤、時代に逆行するものでした。

この国(日本)の正当な支配者は天皇家である。武士などはその犬にすぎない。

彼の考え、生涯を裏付けた思想は中国の朱子学にありました。

源頼朝が鎌倉幕府を開いてから徳川幕府が崩壊するまで約700年、武士は日本の政治を担当しましたが、それは社会が平安時代の貴族政治の矛盾に耐えられなかったからです。

全国の武士達は北条氏の政治に嫌気がさし、後醍醐天皇をバックアップしました。
もちろんタダ働きではありません。皆恩賞を欲していたのです。

後醍醐天皇をはじめ、貴族達はそれを無視しました。
後醍醐天皇の側近、北畠親房はその著書、神皇正統記でこう書いています。

北条が滅んだのは武士の功績ではない。天の意志である。
そもそも武士などは、以前は朝敵(朝廷の敵)であった。
天皇に味方したおかげて家を滅ぼさなかっただけでも感謝しなくてはならない。
この上さらに恩賞が欲しいなど、不届きである。

なんとも無茶な言い方ですが、これが後醍醐天皇をはじめとする貴族たちの一般的な考えだったことは間違いありません。
足利尊氏は武士たちの不満を代表して、後醍醐天皇に反旗を翻します。
後醍醐天皇は、対抗馬として新田義貞を足利尊氏と戦わせることになります。


 

この時代、真の名将と言えば楠木正成以外にありません。
楠木正成と言えば戦前は忠義の士ともてはやされ、戦後はその反動でまったく無視されると言った具合に、時代によって評価は著しく変動しました。
もっともこれは足利尊氏にも言えることで、戦前は大悪人とされていました。

本質的に楠木正成は武将として一流であるだけでなく、人間としても立派な人物だったように思えます。
明敏な彼は、後醍醐天皇の政治がいずれは破綻することを予知していたに違いなく、それでもなお死ぬまで勤皇の意志を曲げることがありませんでした。

この時代、足利家の執事、高師直の好色ぶり、土岐頼遠の傍若無人ぶり・・・豪族達の我欲旺盛ぶりは後の戦国時代よりはるかにひどいものでした。
また新田義貞も足利尊氏も、その行動目的は勤皇ではなく、あわよくば天下を取ろうとしたことは明白です。
このような世の中にあって、彼のこの清廉ぶりはどこからきているのでしょう。

楠木正成が学問に打ち込んだという記録はありません。
しかし、彼の行動を見ればあるいは学問による行動の裏付けがあったようにも思えます。
有名な桜井での息子の正行(まさつら)との別れ際に言った言葉にも現われているようです。
これは太平記にのみある記述で、信頼性には乏しいですが。

命を惜しんで多年の忠烈を失ってはならない。
一族の最後の一人まで金剛山にひきこもり、敵が押し寄せたら紀信のごとき忠勇を見せよ。

紀信とは漢の劉邦の家臣で劉邦の身代わりとなって戦死した人です。
湊川の合戦で足利軍に敗れた楠木正成は、弟の正季と刺し違える時の会話も太平記で有名です。

正成:人間は最後の一念で輪廻転生する。そなたは何を願うか
正季:七生、人間に生まれ変わり朝敵を滅ぼしたい(大笑)
正成:罪業深いが私もそう思っている(大笑)

仏教の概念では一つのことに執着することは悪とされます。
もちろんこれは太平記という小説上のことではありますが、正成は朝敵を滅ぼすことに執着するのは悪であることを自覚していたに違いありません。
小説とは言え、このような話が生まれたと言うことは、楠木正成は当時の武士としては珍しい程の教養人であり、意志の人だったと思うのです。


 

■関東管領

1336年、足利幕府は東国支配の確立をめざして鎌倉に鎌倉府を設置し、足利氏の一族を長とし、関東管領と呼ばれました。
設置した理由はいくつかあります。

○ 南北朝の問題は解決したものの、北朝側の徹底的勝利ではなかったため有力な南朝側の大名はそのまま残った

○ 初代足利尊氏は諸大名の協力を得るために、惜しみなく領地を与えてしまった。このため幕府が制御できない大名が多かった

○ ただでさえ関東は争乱が多い。

幕府は関東管領の機能の強化に努めましたが、皮肉なことに権力が高まるにつれて、幕府に対抗する気配を見せるようになります。
やがて管領の足利持氏は、管領ではなく「公方(くぼう)」を称するようになります。
それと同時に鎌倉府足利氏の執事であった上杉氏が関東管領を称するようになりました。
公方とはかつては天皇に対する称号で、この時代では幕府の将軍を意味するようになっていました。

これは明らかに幕府への反逆でした。
時の将軍は日本史上指折りの専制君主、足利義教(よしのり)。
義教は、なんとか持氏を除こうと画策して持氏の家臣、上杉憲実に働きかけます。

上杉憲実はおりにふれて足利持氏を諌めますが、却って持氏と不和となり、危険を感じた上杉憲実は上野国、平井城に避難します。

上杉氏は上野国の守護だったのです。
足利持氏はこれを反逆として、好機来ると兵を平井へ差し向けますが惨敗してしました。
その後足利持氏は上杉憲実に殺されます。
足利持氏の子、春王、夏王も父と共に殺されて、ここに関東公方家は一旦は滅びます。

その後、関東の諸豪族は足利持氏の三男、成氏(しげうじ)を公方とすべく幕府に働きかけ、幕府もこれを承認しましたが、成氏にとっては上杉氏は親の敵。うまく行くはずもありませんでした。
再び上杉氏との間で合戦となり、駿河の今川氏も上杉氏に味方したため成氏は敗れ、鎌倉を出て古河(茨城県)の結城氏を頼って落ち延びます。

これが古河公方のはじまりです。

これに懲りた幕府は上杉氏と相談して、将軍義政の弟、政知(まさとも)を公方として送ります。
当然古河公方側は承知せず、騒ぎは大きくなる一方で、せっかく駿河までやって来た政知は関東の情勢を恐れて、箱根を超えることができませんでした。
彼は伊豆の堀越にあって、堀越公方と呼ばれるようになります。

関東には、公方が二人になったのです。

(メモ)
上杉氏は藤原氏の一族、藤原清房の子、重房が1252年、鎌倉将軍、宗尊親王に従って鎌倉へ下向した際、丹波国何鹿郡上杉庄を賜り、それを姓にしたことに始まります。

重房の孫の清子が足利貞氏の妻となり、尊氏、直義兄弟を生むと、足利氏の外戚として重用されました。

室町時代は関東管領となり、上野国、越後国の守護となりますが、小田原北条氏と戦って敗れ、家臣の長尾景虎に上杉氏の名跡を継がせることになります。


 

■戦国時代

●北条氏の台頭

北条早雲が活動しはじめた時、彼はすでに中年になっていました。

まず彼は自分の妹が駿河の守護今川義忠の側室で、一子、竜王丸を生んでいるので、これを縁に関東で志をのべようと、腹心の大道寺太郎以下6名の武士達と今川家にむかうことになります。
ところが早雲達が駿河に到着すると、今川義忠は一揆と戦って戦死し、残された竜王丸と、義忠の従兄弟、範満(のりみつ)との間で家督争いが起こっていました。

さらに悪いことに、関東管領、上杉定正はあわよくば駿河を手中に収めようと、これに介入し、定正は家老の太田道灌(おおたどうかん)に兵を与えて駿河に向かわせます。

一方、早雲。
ごく短期間で今川家家臣の信頼を得ると、太田道灌に面会し兵を引かせ、今川家の重臣を説得して竜王丸に家督を継がせることに成功しました。
この功績で領地を与えられ、その後も戦功を重ねたので駿河と伊豆の境目にある興国寺城の城主となりました。

竜王丸は今川氏親(うじちか、1473-1526)と名乗ります。彼の三男が義元です。

 

一方、堀越公方家では、足利政知の長子、茶々丸が政知夫妻の寝所を襲い夫妻と弟の潤を殺害する事件が起ります。
原因は茶々丸の母、(と言っても、政知の後妻で、継母)が自分が生んだ潤を跡取りにすべく、あることないこと、茶々丸の悪口を政知に吹きこみ、政知もつい本気にしたのが原因でした。

政知の二男義遐(よしはる)は、この時京都にいて無事でしたが、その後不思議な運命で11代将軍義澄となります。

早雲は茶々丸の暴挙を不義としてこれを攻撃すると、茶々丸は館を逃げて三浦氏の下で庇護を受けることになりました。これによって早雲は、伊豆全域を支配することになります。

茶々丸とは、一体何才だったのでしょう。
これほどのことをするからには、少なくとも15〜17才以上かと思いますが、その年になってもなぜ幼名だったのでしょうか。

 

さて、この時代は戦国時代と言ってもまだ入口付近のこと。
戦争はほとんどが土地や相続にからむもので、それなりに大義名分があり、後年のように我欲をむきだしにした侵略戦争はほとんどありませんでした。

早雲は、自己の利益のための侵略戦争を行った日本で最初の人ではないかと思います。
彼の収入は四公六民。
つまり農業の収穫の40%しか年貢を取らないと言う、当時としては信じられないような安い税金でした。当然ながらこれでは経営が成り立たず、40%の税金で領地を経営するには領地を広げる以外、方法はありませんでした。
(北条氏の税金の安さはその後の二代目氏綱、三代目氏康と引き継がれて行きます。)

狭い伊豆ではなく、箱根を越えて小田原に進出したい・・・・。
彼は小田原の領主、大森藤頼に交際を求め、藤頼を丸め込むことに成功します。
これが謀略の第一歩。まだ続きます。

彼は大森藤頼に対して

私の領地に鹿が増えて、農作物を荒らしていので困っている。
鹿狩りをするので、大勢の人があなたの領地付近に行くが、鹿狩りなので気にしないでほしい。

そう伝えました。

大森藤頼はこれを承知します。
ところが鹿狩りの人達は、鹿狩りが終わると武装した兵となって一気に小田原城を攻めて大森藤頼を放逐し、ここに早雲は小田原を領することになります。
時に早雲、64才でした。

その後早雲は、長年の敵とも言える三浦道寸を滅ぼし、ついに伊豆・相模における覇権を確立するに至りました。三浦氏を滅ぼした翌年、89歳で亡くなりました。

(メモ)

早雲のエピソードで最も有名なのは馬泥棒の話でしょう。

馬泥棒が捕まったので、早雲自ら尋問することになりました。
ところが、その馬泥棒は

確かに私は馬を盗みました。しかし私の罪など軽いものです。
あなたは国を盗みました。その方がずっと罪は重いでしょう。

と言ったところ早雲は大笑いして、その男を許したそうです。

 

●戦国大名

足利幕府の下での守護大名とはその国の生え抜きではなく、幕府から任命された人がなりました。
この点は律令制の守と似ています。

生え抜きではなく、軍事力で絶対的な支配力を発揮しているわけでもない守護大名の権力の基本は、室町幕府のお墨付きにありました。いわば幕府の力のお蔭でやっていられるわけで、幕府の権力が弱まるにつれて、守護大名の力が衰えてきたのは無理のないことでした。

もともと守護大名は、地元の武士(国人、こくじん)との結びつきは極めて弱く、絶対的な支配権を持っていたわけではありませんでした。
こうした中で、武力で守護大名を屈服させ、他の国人をそれまでの「仲間」から「主従の関係」にした人、それが戦国大名です。

例外的に守護大名がそのまま戦国大名になったところもあります。
例えば、甲斐の国の武田氏がそうです。
何が違うのか。
武力で支配権を確立し、他の国人衆を家臣にすることに成功したところが違います。


 

● 長尾氏と武田氏

 

早雲の死後、北条氏は氏綱、氏康と名君が続きます。
1545年10月、川越城(埼玉県川越市)が関東管領、上杉憲政の大軍に包囲されると、翌年4月、自ら兵を率いて駆けつけ和議を請うと見せかけて油断させ、4月20日の夜、城中、城外から一斉に夜襲をかけて上杉軍を粉砕しました。

大敗した上杉憲政にはもはや独力で戦うことはできず、越後の長尾景虎を頼って落ちのびることになります。


 

長尾氏は坂東八平氏(三浦、千葉、梶原、土肥、鎌倉、秩父、上総、大庭の各氏)の一つで、鎌倉氏の一族、村岡景明が相模の国(神奈川県)長尾庄で長尾氏を称したのが始まりです。

鎌倉時代末期、上杉家の家老となり、上杉氏が関東管領になると共に長尾氏も発展して行きました。
上杉氏が上野国と越後国の守護となると、上杉氏の本拠地は鎌倉だったので、長尾氏は守護代として上野国や越後国で不在の守護に代わって実務を代行しました。

長尾氏は関東、越後にあって多くの支族に分かれましたが、もっとも有名なのが越後長尾氏です。
1507年長尾為景(?-1536)は守護の上杉房能・顕定と戦い、これを死に追いやり事実上の越後の支配権を確立します。

長尾為景が越中との合戦で戦死すると、その子、晴景が後を継ぎます。
しかし晴景は病弱なため、弟の景虎に家督を譲ることになりました。

長尾景虎、後の上杉謙信です。

川越の合戦に惨敗した上杉憲政は、起死回生の策として武田信玄に戦を挑みますがこれも失敗し、万策つきて長尾景虎のもとに身を寄せることになります。
これが上杉謙信の関東進出のキッカケでした。

後年長尾景虎は、上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られ、名を上杉政虎と改めます。
さらに後年、上杉輝虎、謙信と変えました。

一方信濃では、武田信玄に領地を追われた村上義清がやはり上杉謙信のもとに亡命します。
このことが後に有名な川中島合戦に発展して行きます。

上杉謙信は戦国の群雄の中では奇人の部類に入るでしょう。
領土欲はなく、軍神、毘沙門天の化身をもって任じ、女食を絶って生涯を独身でとおし、その代償として常勝を祈りました。

上杉謙信の死後、養子の景勝(甥)と景虎(北条氏の一族で、謙信から名前をもらう)の間で家督をめぐる争いが起こり、景勝が勝利します。
その後豊臣政権では五大老となり、江戸時代には米沢に移封されたことはご存知のとおりです。


 

武田氏は源頼義(988-1075)の三男、義光(1045-1127)の子孫です。(ちなみに頼義の長男は、有名な八幡太郎義家。)
義光は新羅明神(しんらみょうじん)で元服したことから、新羅三郎義光と呼ばれました。

後三年の合戦の時、兄義家の苦戦を知って応援に行こうと思い、朝廷から許可が出ないため官職を投げ打って出羽(秋田県)に駆けつけ、義家を感動させた人でもあります。

彼は甲斐守として赴任した後、この地で義清が生まれます。義清は武田庄(山梨県巨摩郡)に土着し、武田氏を称しました。義光からは小笠原、村上、平賀、大井、秋山・・・・・など、後に戦国時代になると、領地をめぐって武田氏と争うことになる子孫達がいます。

若いころ信玄は父信虎のやることが不満で、これを他国に追放し、中年になってからは今川義元亡き後の駿河の処置をめぐって長男義信と意見が合わず、ついには謀反を理由に義信を捕らえて牢に入れ、自害せざるを得ないような状況に追い込んでいます。

このため信玄は、「忍人(にんじん)である」と他国の人からは言われました。
忍人とは、目的のためならどんな酷いことでも平気でする人を指します。
(でも、当時はそうした時代でした)

 

信玄の死後、家督を継いだ勝頼は長篠の合戦に大敗し、多くの将兵を失うことになります。
これが滅亡への第一歩でした。
武田氏が事実上滅びるのは、穴山梅雪(あなやまばいせつ)が徳川家康に寝返った時でしょう。

穴山家は武田の一族で、当主梅雪の母は信玄の姉であり、彼自身勝頼とは従兄弟同士になりました。
梅雪は、年長と言うこともあって勝頼のすることにいちいち批判的で、長篠の敗戦後落ち目になった武田に早々に見切りをつけて徳川家康の勧誘にのりました。

やがて織田・徳川連合軍の攻撃が始まると武田の諸将から裏切りが続出します。
彼らは穴山梅雪の寝返りを知って

武田一族の梅雪でさえ寝返ったのだ。自分程度の者が、武田と共に滅びる義理も必要もない

と考えたのです。

武田家はあっけなく滅亡します。世に滅びた名家は数多くありますが、武田家ほど悲惨な例はそう多くはないでしょう。織田信長は、最初から寝返っていた穴山梅雪と木曽義昌以外は寝返り、降伏を許さず、ことごとく殺してしまいました。

武田の残党をかくまった恵林寺の僧、快川僧正が織田軍の攻撃で燃え盛る炎のなかで

心頭滅却すれば火もまた涼し

と言ったのは有名な話です。

 

謙信や信玄は、あと数年の寿命があれば天下をとれたでしょうか?
私は否定的です。
二人とも武将としては超一流とも言うべき人でしたが、その思想は典型的な古い中世の保守的思想であり、世の人々が待ち望んだ新時代のヒーローではなかったのです。

 

● 真田氏

いつのころからかわかりませんが、現在の長野県小県郡に滋野というところがあって、滋野氏という豪族が領していました。

滋野氏の一族、幸恒は、小県郡海野にあって海野幸恒(うんのつねゆき)を称したといいます。
海野とは現在の長野県上田市近辺の土地の総称でもあります。

海野幸恒から25代ほど後の子孫、海野棟綱(うんのむねつな)の次男、幸隆が真田郷に住み、真田幸隆と称したのが真田氏のはじまりです。

真田幸隆は本家の海野氏とともに、村上義清の侵略を受けて一時、上州・箕輪城に避難していたことがあるようです。その後、上州を出て武田信玄に属しました。
39才の時、信玄と一緒に剃髪して一徳斎と称しています。

真田幸隆には四人の子供がいましたが、長男、信綱、次男、昌輝は長篠の合戦で戦死し、三男昌幸が真田氏を継ぐことになります。
一般には真田氏は、大阪の陣の戦死した真田幸村が有名ですが、それは明治時代爆発的大ヒットした「立川文庫」によるもので、江戸時代は幸村の父、昌幸の方がずっと有名だったのです。

長篠の合戦後、真田昌幸はもっぱら上州方面を担当し、岩櫃、沼田などの主要な土地を領していました。織田信長が武田勝頼を攻めた時、真田昌幸は勝頼に岩櫃城に落ち延びることを勧め、勝頼もその気になりましたが間に合わず、天目山で戦死してしまいます。

武田氏の滅亡後、真田昌幸は北条、上杉、徳川と主を次々に変えることになります。
小豪族の宿命としてやむをえない面もありますが、彼は信義の人ではありませんでした。

信濃という山国に育った彼は、地形を利用した山岳戦にかけては、おそらく日本一の戦上手だったでしょう。その自負があるためか、彼は生涯、数え切れぬほどに人をだまし、ことごとく成功したにもかかわらず、得た領地はわずか5万石程度のものでした。
このスケールの小ささは、昌幸の面白いところです。

徳川家康を裏切った時、怒った家康が差し向けた大軍を木っ端微塵に破ったこともあります。
関が原の合戦の前夜、真田昌幸は上田城にあって、関が原に向かう徳川秀忠の軍をここに釘付けにして、秀忠をして合戦に遅れさせたことは有名な話です。

関が原の合戦後、昌幸・幸村父子は、昌幸の長男、信幸のとりなしで助命され、九度山に幽閉されました。信幸は東軍だったのです。
昌幸の病没後、大阪の陣は起こります。真田幸村の奮戦はおなじみですね。

彼は決戦の前日、娘を伊達政宗(もちろん徳川方)に預けることに成功し、幸村の娘は伊達家の家老、片倉小十郎の妻となり、子孫を残すことになります。

(メモ)
真田幸村は実名ではなく、真田信繁(さなだのぶしげ)が本名です。
どのようないきさつで幸村と名乗ったかはわかっていません。


参考資料

武将列伝(海音寺潮五郎)
群馬の歴史(群馬県歴史研究会)
郷土史探訪(群馬県郷土史刊行会)