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 上野国吾妻郡は山岳重畳古来より修験道が隆盛であった。熊野山福蔵寺は、約950年前平安時代永保元年(1081)秋、修験者熊野坊によって草創された。現世利益、開運厄除ご祈祷の寺である。
降って南北朝時代観応年間(北朝・1350〜52)、新田義貞の支族里見義候によって再興。つづいて室町時代初期、上野国平井の関東管領山の内上杉氏の執事白井長尾氏の一族尻高氏が、応永10年(1403)当時に尻高城を築城、当山福蔵寺を祈祷寺とした。
 大永元年(1521)、尻高憲秀が再興。永禄年間(1558〜1569)、尻高左馬亮景家の二男鉄丸を入れて廣順法印と称し、福蔵寺中興開祖とした。天正9年(1581)武田勝頼のため尻高氏は滅亡、越後へ退去したが、寺は引続きご祈祷霊場として隆盛であった。江戸時代化政の頃(1804〜1829)、当山16世法印廣順禅師修験道教学大峰修業徹する大行者なり。
 師、ある夜夢見るに、「異香を放ち正観世音菩薩示現し給い、信州別所北向観音堂を勧請せよ、我、北に向わん事は北斗の千歳にひとしく厄災消除、寿命長久諸願成就の利益を與えん為なり」と。尊い霊感に触れ、礼拝供養ここに勧請す。然るに、北向観世音の霊験御利益いよいよ顕れ、その仏徳を慕ひ、御利益に浴せんと各地より参拝の善男善女が絶えなかったという。
 修験者熊野坊によって草創された福蔵寺は激動の中世から、近世を経て明治に入ると、維新下の神仏分離令で天台宗に帰入することになった。昭和の時代を迎えると当山20世喜禅法師は仏徳を深く体現、堂宇の改築に務め、昭和9年5月に入山供養を成した。そして、世紀末を迎えた現代、厄除・家内安全・無事故交通安全・商売繁盛・諸願成就の祈願に北向観音の人気が集まっている。(知高大真・記)
   本 尊   正観世音菩薩 (秘仏)
   現住職   22世 知高眞憲
   所在地   群馬県吾妻郡高山村大字尻高乙1260番地
   電 話   0279−63−3096 

   あかぎ出版「群馬の古寺(北毛編)」 監修 近藤義雄
 
    
 北向観音の名で知られる修験の寺
「福蔵寺」
 平成28年7月、玄関(6坪)を増築しました。
 
 半分を護摩堂にしています。
  瀧の下不動尊。
駐車場を新設しました。
 宝塔は、円筒形の塔身に方形の屋根をのせ、頂上に相輪を立てたもので、中国から伝来されたものと言われています。宝塔は、お釈迦様の遺骨(仏舎利)を納める為に作られたもので、墓石などに用いますが、当寺では仏教信仰に基づいた仏の礼拝供養の塔として、塔身に心願成就を込めた写経を一巻納め境内に建立しました。 
神変大菩薩
 修験道の開祖は、役行者神変大菩薩。本尊は金剛界・胎蔵界の曼陀羅の両者あわせて金胎不二の曼陀羅とされます。また、大日如来の化身である不動明王とされます。
 修験道は平安末期に成立し、山岳修行とその結果得られた験力(祈祷によるききめ)にもとづく呪術宗教的な活動の二面を持ちます。

四天王像
北向地蔵尊
 北極星、北斗七星を信仰する密教寺院で、鬼門除け(厄除け)に北方角に向けて観音さまが祀られています。
 北の方角に向いている地蔵さんは安産・子育てにご利益があります。
仏足石
 仏足石は釈尊の足跡を石に刻んだもので、インドでは仏像が誕生する前に、釈尊のシンボルとして礼拝の対象となっていました。
 この仏足石は、一頭三匹の魚紋のもので、靴を脱いで足の裏でペタペタ触れば、足腰健康に大変ご利益があるといわれていますので、ぜひお試しください。
 七福神は福徳を授ける福の神で、室町時代末期から信仰されてきました。 毘沙門天は財宝福徳・破邪顕正威力の神。 弁才天は知恵学問・弁才・福徳財宝の神。 大黒天は衣食住・財福・勤労・経営・権力の神。 恵比寿天は商売・漁獲・薬剤の神。 福禄寿は長寿・幸福・秩序・福寿慶祝、地位権勢の神。 寿老人は長寿・除災招福の神。 布袋和尚は運命開拓・吉凶判断の神。 「今、私の一番の幸せは健康で仕事ができることです。」とある方から伺いました。3ヶ月の入院生活で一番感じた事だそうです。健康なくして人生なし。病気になってから健康を考えるのではなく日ごろの予防が大切で、ストレスをためないことがとても良いそうです。健康長寿はいつの世でも皆の願いです。
本堂格天井(龍、鳳凰、花)
 密教寺院では雲をおこし、雨を降らす龍神を祀ります。龍神は、この地球上にある命有るものすべてのものに水をもたらす神さまです。

天台寺門宗とは 祈祷とは

   (しゅげんどう)

 林山にこもって秘密神呪を修し、霊験を証得しようとする一派。役小角を本邦修験道の開祖とする。
インド仏教以来、寂静な山林の中で修行することが説かれているが、修験道は山岳信仰、道教、神道などを混淆したもので、密教思想に近い関係にある。また広く諸宗に通じる立場をとり、さまざまな教義・儀礼を混用している。(
 中村元 「仏教語大辞典」 東京書籍

 修験道の開祖は、役行者神変大菩薩。本尊は金剛界・胎蔵界の曼陀羅の両者あわせて金胎不二の曼陀羅とされます。また、大日如来の化身である不動明王とされます。
 修験道は平安末期に成立し、山岳修行とその結果得られた験力(祈祷によるききめ)にもとづく呪術宗教的な活動の二面を持ちます。
 山岳修行については、全国各地の霊山に入り修行しましたが、その中でも、奈良の熊野から紀州の熊野にのびる大峰山を修行の中心としました。修験者(山伏ともいう)は、山中修行により證得した験力を用いて庶民の現世利益的な希求に応えました。
 
 頭に頭巾(ときん)を載き、班蓋(はんがい)をつけ、鈴懸(すずかけ)を着、肩に結袈裟(ゆいげさ)をかけ、
手に錫杖(しゃくじょう)金剛杖(こんごうずえ)を持ち、腰に貝緒(かいのお)や引敷(ひっしき)を帯びて、足に脚絆(きゃはん)をつけ、左手に最多角念珠(いらたかねんじゅ)をまき、笈(おい)と肩箱を背負い、八目(やつめ)の草履(ぞうり)をはき法螺貝(ほらがい)を吹くというように、修験者(山伏)は十二の道具を身につけて山に入り、即身成仏を目指しきびしい修行をしました。

アイコン 大峯奥駈修行(吉野蔵王堂)

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天台寺門宗とは(天台寺門宗 入門者心得)

 天台寺門宗は、宗祖智證大師(圓珍)の開宗の理念にのっとり、園城寺を総本山として、祖師と祖廟を守り脈々相承の大乗戒と灌頂をあい伝えて、山林斗藪、入峰修行の実践に、自行化他の菩薩行を展開するものです。
1.本宗の宗祖は
智證大師であります。
 
智證大師は讃岐国善通寺市金蔵寺町(大師当時は那珂郡龍川村)にご誕生、父は和気宅成、母は、佐伯家の出で弘法大師の姪である。幼名を広雄と伝いました。
15歳の時比叡山に登り義真和尚の御弟子となり、19歳にて受戒、名を圓珍と改め、それより12年間山に籠って修行せられて日本天台の蘊奥を極め、大学者、大高僧となり、32歳の時修験道高祖役行者の芳躅を継ぎ、大峯、葛城の嶮岨をよぢ、熊野三山の深遂に分け入って修行、那智の滝に一千日の修行をなし、縁起相伝の行儀を受け、修験道を継承、復興し天台寺門と修験道との結合の第一歩を開かれました。
その後、40歳の時、唐(支那)に渡って6年間御勉強の後、一千巻のお経をお持ち帰りになり、朝廷の御信仰を得、大師独特の法を弘める御許を得られたのであります。総本山園城寺(三井寺)を根本道場とせられ、清和天皇、陽成天皇、光考天皇の三帝の国師となられ、78歳でおなくなりになりました。
御滅後37年を経て醍醐天皇から、智證大師と云う大師号を謚られたのであります。
2.本宗の教義は顕、密、修験の三道一体であります。
顕教というのは、お釈迦様が一切衆生は仏の子で成仏するのだとお説きになった法華経を中心とする道理教えをうけてその修業によってわが身と語と意とを、仏様と相通じ一つになるようにする教え。本宗ではこの教えを遮那業と言います。
修験道とは、神変大菩薩が開かれ智證大師が継承された山岳修行により、心を浄め、仏の徳を顕わすことを中心とする教えであります。
 この三つは結局はなればなれのものでなしに、止観業、遮那業業、修験道のこの三道を一つに融合して修行し、成仏するのが本宗教義の特色であります。

総本山    滋賀県大津市 園城寺(三井寺)

 
園城寺金堂
唐院灌頂堂での勤行

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祈祷とは(天台寺門宗 入門者心得)

 本宗の教徒は加持、祈祷の方法を誤ってはなりません。
 世の宗教で稍もすると加持、祈祷にて医薬を否定するようなことがあったり、世人に疑惑をいだかせるようなことがあったりします。かくのことのないよう注意せねばなりません。そして未教師の加持、祈祷を禁ぜられられているのはもちろんであります。宗祖智證大師は厳密なる秘法をもって、高貴の方々の御祈祷をなされ、真に赤誠仏を念じられたのであります。我等教徒は宗祖大師の行業を仰がねばなりません。

 
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