総本山園城寺巡拝

 天智・天武・持統の三帝の御産湯に用いられた霊泉があるので、通称「三井寺」と呼ばれているが、正式には園城寺(おんじょうじ)。天台寺門宗の総本山。たびたび兵火にあい、焼失もあったが、現在でも国宝に指定されている金堂をはじめ、重要文化財の三重塔、仁王門など、貴重な建造物、さらには国宝絹本著色不動明王像(黄不動尊)などの文化財も多数残っている。鐘楼には、近江八景、「三井の晩鐘」として名高い鐘があり、また、南端にある観音堂は西国三十三カ所霊場の第14番札所として知られている。 

 微妙寺
 三井寺の五別所のひとつで現地に移築したもの。本尊は十一面観音(重文・平安初期)で、現在は湖国十一面観音霊場の第一番札所となっている。
 (総本山園城寺 「三井寺」パンフレットより)

 
 微妙寺 
 
 天台大師
 
 十八明神社
 当山内の土地、伽藍を守護する神々を●る。
 別名「ねずみの宮」という。
 「太平記」によれば当寺の戒壇道場建立の勅許を得たが比叡山の強訴により取り消された。
 これを怒った頼豪阿闍梨が二十一日間の護摩をたき壇上の煙と果てた。
 その強念が八万四千匹のねずみとなり比叡山に押し寄せ堂塔や経巻を食い荒したと伝えられる。
 現在の建物は天保七年(1836年)に再建されたものである。
 (案内板)
 観音堂に至る石段
 西国十四番札所 三井寺観音堂
 
本尊は如意輪観世音。貞亨3年(1686)に火災にあい、元禄3年に再建された大きな堂である。礼堂・合の間・正堂からなる。内部には多くの絵馬が奉納されており、その中には、観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されており興味深い。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 観音堂内陣
 
観世音菩薩の御功徳     観世音菩薩 普門品偈
 汝(ナンジ)観音の行(ゴリヤク)を聴け
 善く応(マサ)に諸の方所に応ず
 弘誓(グゼイ)の深きこと 海の如し 
 劫(ドウ)を歴(フ)るとも 思議せじ 
 衆生困厄を被りて 無量の苦身に逼(セマ)らんに 観音妙智の力
 能(ヨ)く世間の苦を救う 神通力を具足し 広く智の方便を修して
 十方の諸の国土に刹として身を現ぜざること無し
 種々の諸の悪趣 地獄 鬼 畜生 生 老 病 死の苦 
 以って悉く滅をしむ
 真観 清浄観 広大智恵観 悲観及慈観 常に願い 
 常に瞻仰(センゴウ)すべし (案内板)
 観音堂にて整列
 西国十四番札所 三井寺観音堂
 平和祈願法要
 平和祈願のメッセージをつけた風船を放つ。
 西国十四番札所 三井寺観音堂
  平和祈願法要
 平和祈願法要会
 観月舞台と百体堂
 観音堂を出て正面、却下に足代を組んだ懸造(舞台造)の観月舞台がある。眼下には疎水が走るが眼前には視界を遮ぎるものはなく、見渡す限り琵琶湖と湖南アルプスの山々である。
 滋賀では近江八景で名高い石山寺の観月台と本舞台が代表格で、往時より観月の名所として親しまれている。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 観音堂展望台より琵琶湖を望む。
  
 行者堂
 水観寺
 本尊 薬師瑠璃光如来
 脇侍 日光・月光菩薩及び十ニ神将
 本堂 滋賀県指定有形文化財 明暦元年(1655)再建
 
 水観寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ本尊薬師如来は、一切衆生を病苦・災難から救済する仏として、多くの人々の尊崇をあつめている。
 現在の本堂は、豊臣秀吉による園城寺●所の後、再建されたもので、民衆との交流を目的とする五別所の本堂のうちで最も古く、また背面軒廻りなどに優れた近世的な手法を持つことから園城寺別所の信仰の形態を知る上で貴重なものである。なお当本堂は昭和六十三年から保存修理の際に現在の地に移されたものである。
 (案内板)
 水観寺
 放生池
 護法善神堂(千団子社)
 一般には5月16・17・18日の3ケ日に行われる春祭の千団子祭として著名であろう。本尊は護法善神として鬼子母神をまつる。鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼であったが、釈尊がこれを聞き、母神の子を鉢でかくしたところ、狂髪・啼哭して悲しむに至り、釈尊がこれをして慈愛を垂れたるところ、仏教に帰依し、以後善女神となったという。春祭の日には千人の子供たちの供養のため千の団子を供え、堂前の放生池には諸衆の願をこめた霊亀を放す放生会が行われる。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 護法善神堂(千団子社)
 護法善神堂(千団子社)脇の観音堂
 大門(仁王門) 
 園城寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護している。棟札によると宝徳4年の建立になり、記録によれば、甲賀郡石部町に建つ天台宗の古刹常楽寺の門で、後に秀吉によって伏見に移され、慶長6年(1601)、家康によって現在地に建てられたとしている。組物やかえる又などの構造材も優美な姿になっており、桧皮葺の屋根のカーブも美しい。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)

 釈迦堂(食堂)
 大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂である。秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもあるが、室町時代に建立されたものであろう。「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に、食堂が描かれており、この堂も食堂として移建されたものであろうが、現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊として信仰されている。 
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 釈迦堂(食堂)
 三井の晩鐘(近江八景)
 
近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼で、金堂の南東に建てられる。梵鐘は銘文によって、慶長七年に鋳造されたことが分かるが、鐘楼も同時に建立されたものであろう。周囲には、下に腰板を廻らし、上は連子をはめている。近年まで屋根は瓦葺であったが、修理時における調査の結果、建立当初は桧皮葺であったことが判明し、現在は桧皮葺に改められている。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 梵鐘(三井の晩鐘) 
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 金堂 (国宝)
 広大な園城寺境内で、ひときわ大きく威容を誇るのが、この本尊弥勒菩薩を安置する金堂である。内部は、外陣、中陣、内陣に分かれ、中陣は中心となる内陣の両脇に脇陣を設けている。内陣以外の床はすべて板敷とするのに対して、内陣は土間のままとしており、伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えている。
 園城寺は、文禄四年(1595)、豊臣秀吉の命令によって一山けっ所の仕打ちを受け、南北朝時代の建立になる当時の金堂は、延暦寺西塔に移建され、転法輪堂(釈迦堂)として重要文化財の指定を受けて現存している。現在の金堂は、秀吉の正室北政所によって再建されたもので、よく以前の形式を踏襲した、桃山時代の代表的建築である。

 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 金堂内部 
 金堂内部(暁天講座)・・朝6時から始まります。 
 閼伽井屋(アカイヤ)
 園城寺
閼伽井屋   一棟
 閼伽井とは、仏前に供養する水を汲む井のことで、閼伽井屋はその覆屋(オオイヤ)として建てられたものです。
 建物は桁行3間、梁間2間、向唐破風造り、桧皮葺の建物で、慶長5年(1600)に金堂に引き続いて再建されました。金堂の西側軒下に接して建つ閼伽井屋は向唐破風の形式や付属する彫刻、かえる股
などが美しく、桃山時代の特色を持っています。
 内部には、天智、天武、持統の三天皇の産水となり、三井寺の名の起こりとなった湧泉が石組みの間から涌きでています。
 明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。(案内板) 
 三井の霊泉(閼伽井屋内部)
 園城寺は一般に三井寺と呼ばれるが、その名前は、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたと伝えられる甘く澄んだ井泉が湧くことによる。閼伽井屋は、金堂の西側奥に、金堂と接して建つが、この種の建物としては大きい方で、色彩や壁画も認められる。唐破風造で桧皮葺の屋根は丸いカーブを描き、その屋根の先端が金堂の軒下にもぐり込んで建つ姿は興趣をそそられる。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 左甚五郎の龍
 三井寺の名称が生まれた霊泉閼伽井屋の正面には、有名な左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の目玉に5寸釘を打ち込み静めたと伝えられている。今もこの龍は、静かに閼伽井屋の正面で三井寺を見守っている。
 (総本山 園城寺パンフレット より

 
   弁慶鐘
 
 
 弁慶鐘
 この鐘は昔、俵藤太秀郷が龍神に頼まれて、大きなむかでを退治したお礼にもろうた鐘を、三井寺へ寄付したものどす。当時、比叡山と三井寺とで争いが起こり、弁慶がこの鐘を分捕って比叡山へ引摺って帰らはった。比叡山で撞いてみやはりましたら鐘の音色が出ませず、ただイノー・イノーと鳴った。それを聞いて怒った弁慶が、イニたけりゃイネと谷底へ投げたのを、後に三井寺へもろうて帰った鐘どす。
 (総本山 園城寺パンフレット より)
 弁慶の汁鍋
 五右衛門風呂といわれています。
 一切経蔵
 毛利輝元公の寄進で、慶長7年、山口の国清寺の経蔵を移築した禅宗様経堂である。室町初期の建築と考えられ、宝形造で桧皮葺、外観は柱間は3間の3間、屋根は2重となっている。また内部の一切経を納める八角輪蔵は、千鳥破風のついた珍しいものである。
 (総本山 園城寺パンフレット より)
 一切経蔵内部の八角輪蔵
 一切経を安置するための堂で、内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられている。山内には珍しい禅宗様の堂であるが、もとは国清寺の経蔵で、慶長7年(1602)に毛利輝元によって移建されたものである。国清寺は山口市内にあった禅宗寺院で、毛利氏と縁の深い寺であった。輪蔵には、高麗版一切経が納められており、また天井から円空仏七体が発見されている。江戸時代の造仏聖円空は、園城寺の尊栄から血脈を受けている。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 三重の塔と灌頂堂
 三重の塔は、もと奈良の比曽寺にあったものを、慶長6年(1601)、徳川家康が当寺に移したものである。3間3間、本瓦葺の塔で、細部様式上から鎌倉末〜室町初期頃の建築である。本尊は釈迦三尊を安置する。
 (総本山 園城寺パンフレット より)
 唐院灌頂堂
 大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備えているが、内部は前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行うプランを備えている。潅頂堂の再建も、大師堂の再建と同時期、即ち慶長3年(1598)に行われたと考えられている。仁寿殿下賜の伝えそのままに、縁を廻らせ、蔀戸などをしつらえており、装飾の少ない堂である。
 なお唐院には、潅頂堂・大師堂のほかに、前記した四脚門と、唐院の表門である唐門が重要文化財に指定され、潅頂堂の横に建つ長日護摩堂が、県指定文化財となる。

 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 唐院長日護摩堂
 
唐院は、智証大師円珍が天安2年(858)、入唐求法によって請来した経典や法具を、貞観10年(868)に内裏の仁寿殿を下賜されてそこに納め、伝法灌頂の道場としたことに始まる。大師堂には、ニ体の智証大師像(中尊大師・御骨大師)と黄不動尊立像の三体が安置されている。園城寺にとっては重要な院であり、秀吉破却後の再建事業に際しても、最も早く慶長3年に再興されている。比較的に簡素な構えではあるが、参道より一段高く塀に囲まれたこの一郭は、独特の趣を見せている。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 長日護摩堂は、3間3間、一重、宝形造、本瓦葺の建築。本尊は不動明王で長日護摩供を修する道場。
 (総本山 園城寺パンフレット より)
 唐院探題灯籠 
 金堂から勧学院へ向かと、山脇に唐院が建つ。園城寺山内で重要な建造物の一つで、大師堂・灌頂堂などがある。石段の脇には石造灯籠が配され、唐院に参る者に自ずと清廉な情を感じさせる。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 大師御廟前では重礼をします。

 村雲橋(ムラグモ)と勧学院石垣
 中院と南院を分ける水溝にかかる石造の橋が村雲橋で、「寺門伝記補禄」によれば、ある日、この橋上で西の空に炎気あることを悟った智証大師は、大唐青龍寺の火禍を感知した。大師が呪水を潅したところ、雲霧となって西方の空へ飛び去り、彼寺の火災を鎮めたといい、これ故にムラカリタツクモの意を伝えて村雲橋と名づけられた。
 この村雲橋を渡れば、勧学院の築地である。「園城寺境内古図」にはすでにこの地に勧学院が建立されていたことが知られ、美しく組まれた石垣は、勧学院の清楚な建築と相まって整然とした風情を伝えている。

 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 勧学院客殿 (国宝)
 勧学院は、教学のセンターとして、正和元年(1312)に創立されたと記録されており、一山の中世における同舎を描いた「園城寺境内古図」にも、村雲橋の南、ほぼ現在の位置に描かれている。勧学院は火災や秀吉の破却に逢うが、慶長5年に再建され現在に至る。
 内部は、南北を大きく3列に分け、南列の一之間と広いニ之間には、狩野光信の手になる華麗な障壁画が部屋を飾っている。基本的に、全ての部屋は襖で仕切られており、襖をはらえば広い空間となり、学問所として多人数での使用を考えての機能を担うものと考えられる。桃山時代における、代表的な書院建築として有名である。

 (総本山園城寺 「三井寺」 より)
 勧学院客殿 (国宝)
 勧学院客殿一之間床貼付絵 狩野光信筆  滝図 (重文)
 勧学院庭園
 
 光浄院客殿  (国宝)
 光浄院客殿一之間床貼付絵 狩野山楽筆  松に滝図 (重文)

 
 光浄院は、室町時代に山岡氏によって建立され、山岡氏と縁が深かった。秀吉のけっ所後、かつて光浄院住持を務めていた山岡道阿弥が、慶長6年に再興するが、それが現在の光浄院客殿である。外観は、勧学院却殿とほとんど同じであるが、内部の部屋数や配列などに相違が見られる。一之間の付書院が広縁に張り出すプランなどは、伝統的な形式のなかに新しい要素を取り入れたものとされている。一之間・ニ之間には、狩野派による華麗な障壁画が残されている。桃山時代における、書院の代表的建築として極めて貴重である。
 (総本山園城寺 「三井寺」 より)

 
 光浄院客殿(国宝)と庭園
 
  
 園城寺仏教尊像修復院
ページトップへ トップ アイコン
トップページへ