日本三大霊山巡拝
 叡山・延暦寺
 
延暦7年(788)僧最澄(伝教大師)が比叡山寺を建てた。その後入唐し延暦24年(805)帰朝、比叡山寺に天台宗を起こした。大師入寂の翌年弘仁14年(823)に寺号を延暦寺と改めた。以来仏教の地、日本人の文化の里として古くから人々に親しまれてきた比叡山延暦寺。この比叡山は、踊る念仏の空也、「往生要集」の恵心僧都、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元など多くの名僧を世に送り、日本仏教の発生地である比叡山は、仏教の母山とよばれている。
 最澄の門下から慈覚大師と智證大師がでた。そのころ延暦寺は全盛期であったが、両派の勢力争は激しく、最澄の死後は智證大師一門は三井寺(園城寺)にはいった。そののち山門(比叡山延暦寺)と寺門(長等山園城寺)は天台座主の地位をめぐって抗争した。山門と寺門に法衣と長刀姿
の僧兵時代を作ったのはそのころ。戦国時代に比叡山は越前の朝倉氏、近江の浅井氏を助け、織田信長と争い史上有名な比叡山焼き討ちにあった。その後豊臣、徳川家等の援助で復興し現在に至った。
 比叡山は、東塔、西塔、横川の三ケ所にわかれ、これら三塔の諸塔を総称して延暦寺という。
(琵琶湖・大津観光ガイド 大津市観光連盟参考)
 湿寒貧・三大地獄
 
比叡山に「論湿寒貧」の言葉がある。「論」とは議論、討論問答、デイスカッションをいう。比叡山では昔から討論や問答が盛ん。これでお互いが研究しあうわけで、その中心道場が大講堂である。「湿」とは湿度がたいへん高いことをいう。「寒」とは海抜800mのこの山の夏は涼しいが、冬は寒さが厳しい。「貧」は清貧に甘んずるという意味。この4字をもって修行に励み、不自由、不足勝ちの環境にあって、12年籠山や千日回峰の難行苦行が育成される。宗祖伝教大師最澄は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と教えたが、今もなおこの「論湿寒貧」をかね備えて修学の4名物となっている。
 比叡山には三大地獄といわれるものがある。「看勤地獄、掃除地獄、回峰地獄」である。「看勤地獄」とは横川の「お勤め地獄」で、朝から晩まで、晩から朝まで拝みたおす行法である。「掃除地獄」は、伝教大師の御廟で12年間は山を絶対去らず、祖師が生きておられるかのようにお仕えする。夜が白むと起き、特別釜で料理をしてお供えする。御廟内は塵一つ雑草一つ生やしてはいけないという地獄である。「回峰地獄」は無動寺の回峰行で、千日回峰行がある。この行は7年間に千日を費やして、比叡山1周をかけめぐり、ときには京都市街を巡拝する。1日30Km24時間歩く。寝る時間は2時間くらい。これを4万Km、地球1周の距離をまわり、針の山を歩くような行で、まさに回峰地獄である。この三大地獄から、天台密教の止観と遮那の両業を精進するのだが、霊山比叡には、いまもなお、古い1200年の伝統の本格行法が守り伝えられている。(琵琶湖・大津観光ガイド 大津市観光連盟)
 比叡山ドライブウエイ「夢見が丘P」より京都市街を望む
「延暦寺P」より大講堂に向かう。
「比叡山」案内板。
 東 塔
「大講堂」
5年に一度の法華大会をはじめ、経典の講義などが行われる学問修行の道場。現在の建物は、昭和31年の焼失後に、大津市坂本にあった讃仏堂を移築したものである。(パンフレットより)
 堂内に比叡山で修行し一宗のの開祖となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮の等身大のの木像が安置。前庭の鐘台は「開運の鐘」として親しまれている。(琵琶湖・大津観光ガイド)
 比叡山延暦寺の総本堂国宝「根本中堂」秘仏薬師如来をまつる。
 宝前には、1200年間まもり継がれた「不滅の法灯」が光輝く。
 今この瞬間しかないのに、過去・未来を引きずり不安を抱いて、現在の自分でいられない。今現在に焦点を絞る。根本中堂の階段を上る時に、上を見て上ると、まだ頂上まであんなにある。下を見るとまだこれしか上ってない。足元の一段だけを見て、この一段を踏むことだけを考えるとこんなものかとなる。
 
不安、怖れを引き込まないように、自分に対する答えを下さいと仏に願うことにより、仏にまかせる→最良の結果が出る→不安がなくなり気が楽になる。→後悔をしない。幸せになれる
 根本中堂
 
本堂の本尊薬師如来と衆生(私たち)の立つ位置が同じ高さで、これは天台様式といわれる。衆生(皆)は、この世に神仏の分身として出現しました。(一切衆生悉有仏性)
 一切衆生悉有仏性とは、「山川草木、悉皆成仏」「一切衆生 悉有仏性」といい、この地球上にある全てのもの、命有るものすべてのものは仏であり、仏となる性を有しているというのが仏教の思想です皆が仏になる種を持っているが、本堂内陣の仏(本尊薬師如来)と皆(私たち)のいる場所の間には大きな溝があります。この溝が仏と衆生を隔てるものです。 

 
 根本中堂は、一乗止観院ともいう。現在の建築は織田信長の焼き討ち後、寛永19年(1642)徳川家光三代将軍が再建。本尊は伝教大師作の薬師如来、宝前には開宗以来の不滅の法灯が内陣にゆらめく。重要法儀や伝統儀式が行われる。(琵琶湖・大津観光ガイド)
 西塔−伝教大師御廟「浄土院」では、十二年の籠山修行が続けられている。
 浄土院は、伝教大師のご廟所で、比叡山で最も清浄な聖域。弘仁13年(822)に入寂した大師は、この地に埋葬された。ご廟を守る僧は侍真と称され、厳しく戒律を守り、12年籠山の誓いをたてて行に励み、大師に仕える。(パンフレット)
 西 塔
「釈迦堂」

 西塔の中堂で、正式には転法輪堂という。現在の建物は、信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が園城寺の弥勒菩薩を移して手を加えたもので、山上では最も古い。本尊は伝教大師自作の釈迦如来像で、堂の名前もこれに由来する。(パンフレット)
 西 塔
「にない堂」
 常行堂と法華堂では四種三昧行が修行されていた。
 「にない堂」は、法華堂、常行堂という同じ形のニ堂が、渡り廊下でつながっているので、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれている。法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行がおこなわれる。(パンフレット)
 横 川
 「横川中堂」
 横川の中心となる建物で、848年(嘉祥元)、慈覚大師円仁によって開創された。昭和17年の落雷で全焼したが、昭和46年の伝教大師1150年大遠忌を記念して復元された。新西国霊場第18番の札所である。(パンフレット)
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