本堂の書庫を整理していたら、「智證大師」紙芝居が見つかりました。
そういえば、子供の頃見たような気がします。他にも「地獄絵」の紙芝居があり、これは怖かった。
 それでは、はじまり。はじまり。

脚  本 天台宗宗務庁社会部
絵  画 西正世志
制  作 日本教育紙芝居教会
発行所 日本教育画劇株式会社  作品番号354


 いでゐるや 波間の月を 三井寺(みいでら)の、鐘の響きに あくる湖(みずうみ)
朝夕に撞(つ)かれる、三井寺の鐘は千余年の往昔(むかし)から今もそのままに、日本一の琵琶の湖に、響き渡っています。
これから、三井寺のお大師様(だいしさま)の紙芝居を始めます。
さて、三井寺のお大師様は、智證大師様(ちしょうだいしさま)と申しまして、今から千五十二年前(昭和十七年)讃岐の國にお生まれになりました。
小さい時のお名前は、広雄(ひろお)様と申しました。
広雄様は たいへん賢こくて、皆から「智慧童子」と呼ばれ、可愛がられました。
八つの時に 因果経というお経を、十の時には、毛詩(もうし)、論語、文選(もんせん)などといふ、支那(しな)のむつかしいご本を、次から次へと、お習いひになりました。
広雄様は、いつも まことに信心深い行ひをなさって、お坊様になろうと 考えていられました。
ある日、広雄様は、お父様の 和気宅成公(わきのたくなりこう)の前に、きちんと、座られて、
(広雄)
「お父様。広雄をお坊様にして下さい。私ももう十五歳ですから。」
(和気宅成)
「広雄、お前は、和気という立派な家柄の、長男です。予(わたし)はお前をお坊様にしやうとはおもはない。」
(広雄)
「お父様。広雄は決心して居ります。天子様(てんしさま)のおん為、日本国の為に、み佛の教えによって、立派なお坊様となり、ご恩報(おんほう)じをいたしたいのです。お父様どうか広雄をお坊様にして下さい。」
お父様も、さすがに感心なさって、その事をお許しになりました。
そして、琵琶湖の近く...比叡山の登り、義眞和尚(ぎしんかしょう)
といふ偉いお坊様のお弟子になり、名も”圓珍”と改めました。
圓珍様は、一心不乱、必ず立派なお坊様となって、世のため、國の為に、立派なご奉公をしやうと、夜も、昼も、怠らず学問にはげむのでした。
そうして、数年の月日が、早くもたちました。
学問だけではありません。
圓珍様の修行も、一通りではありませんでした。
身を粉にして、わき目もふらず、修行されましたので、畏(おそ)れ多くも、天子様は、お使いをお遣(つか)はしになって、圓珍様の修行を励まされました。
この圓珍様の眞剣な修行振りが、どうしてみ佛にも、通じないはずがありませう。
修行をつづける圓珍様の目の前に、金色(こんじき)の不動明王(ふどうみょう)が現(あら)はれました。
(不動明王)
「われこそは、金色不動明王であるぞ。汝(なんじ)のすぐれた姿を見て深く感じ入った。今より汝の修行を助けまもるであらう。汝は我がすがたを描き朝な夕な禮拝(らいはい)し、水くみ仕(つか)えるべし。」ありがたい言葉に、円珍様は思わず、
(圓珍様)
「南無金色不動明王、々々。」
と掌(て)を合わせて、伏し拝むのでした。
又、或静かな夜、
山王明神という神様が、現れて、
(山王明神)
「圓珍よ。今こそ支那へ渡り、法をきはめ、天子様のおん為、日本國
の人々の為に、自分の生命(いのち)を惜しまず、努力するならば、必ずみ佛の御まもりを受けるであらう。
今こそ支那へ渡る時である、速やかに決心せよ。」
このお告げを蒙(こうむ)った圓珍様は、ついに支那へ渡る事に決心されました。
仁寿(にんじゅ)三年七月十六日、文徳天皇(もんとくてんのう)のお許しを蒙り、圓珍様は、いよいよ支那へ渡る事になりました。
(圓珍の和歌)(朗詠する)
法(のり)の船 さして行く身ぞ
もろもろの 神も 佛も 我を見そなへ。
とお詠(よ)みになった圓珍様のお心は、日本の神々、数々のみ佛の、お守りで無事目的をはたし、天子様のご恩の満分(まんぶん)の一にも報いたいといふ、お心で一杯だったのです。
九州の太宰府から出帆(しゅっぱん)した船が日本を離れて五日目の夜。
俄(にわかに)に暴風雨になり、
風は吼(ほ)え 波は狂い 稲妻は閃(ひらめく)く
船は木の葉のやうに大波に、もまれ、もまれて、人々は生きた心地(ここち)もなく、圓珍様のまわりに思わず集まってしまいました。
恐ろしい夜が明けて、嵐は静まりましたが、 
一難去って又一難。すぐ目の前に海賊船。
海賊共の、ののしりさはぐ声が、昨夜の嵐でぐったりした人々の心を、一層、おどろかせました。
ただ、アレヨアレヨとあはてて騒ぎ廻って居る時、圓珍様は、高らかに、「南無金色不動明王、我が船をまもり給へ。」
と、繰り返し祈られますと、不思議や俄(にわかに)に風が起こって、圓珍様の乗った船は、見る々内に矢のように、支那の國の方へ走り出しました。
(海賊)
「それツ追かけろ!」
と海賊共の叫び声を尻目に、難なく支那に着きましたのは、
日本を出帆して七日目。
支那の福州(ふくしゅう)に上陸してから、苦しい旅を重ね、凡(およ)そ八十日目に台州(たいしゅう)につきました。
台州には、あこがれの天台山國清寺(てんだいさんこくせいじ)があります。
圓珍様は、先づ天台山の智者大師様(ちしゃだいしさま)の、御廟(おはか)にお詣りになりました。
そして、見るもの、聞くもの、皆、むかしを偲(しの)ぶものばかり。
圓珍様は九ケ月の間、この國清寺に居て、修行に励み、又二百余巻もの尊いお経を、お写しになりました。
大中(だいちゅう)八年、天台山國清寺に別れを告げ、
たくさんの牛の車に、お経や、そのほか色々の、為になるご本を積んで出発しました。
山を越え、谷を過ぎ、運河を渡り、その困難な事は、全く口には云(い)えません。
こうした困難をつづけて八十日。
漸(ようや)く目的地の長安(ちょうあん)といふ都に着きました。
ここは長安の都の清龍寺(せいりゅうじ)。法全阿闍梨(はっせんあじゃり)といふ、学問の優れたお坊様に会ひまして、圓珍様は、密教(みっきょう)といふ尊い秘密のみ教えを、授かりました。圓珍様が支那に渡った目的は、この密教を学ぶ事でしたから、大変にお喜びになりました。
(法全阿闍梨)
「圓珍様。あなたはこの尊い教えを、日本國にお弘めください。」
(圓珍)
「ありがとうございます。必ず師の教えを守ります。そして、日本國と支那とは、末永く結ばれてゆくでしせう。」
(法全阿闍梨)
「自分は、すでに、最上の教えを授け終わりました。今度お会いする時は、浄土でお会いしましょう。」
と法全阿闍梨からねんごろなお別れの言葉。支那へ渡って六年間。目的を達した圓珍様は、いよいよ日本國に帰る事になりました。
時に御年四十五歳、こうして日本に帰った圓珍様は、新羅明神(しらぎみょうじん)と山王明神(さんのうみょうじん)の二人の神様のご案内で、
比叡山の山つづき、園城寺(おんじょうじ)といふ美しい、景色のよいお寺に参りました。
(神々)
「園城寺こそ、支那から持ち帰られた、佛像やお経を納めてそなたが、法(のり)の道を弘めるお寺です。」
と仰(おほ)せになって、お姿は見えなくなりました。
圓珍様は、夢から醒めた思いで、改めて園城寺を見ますと、びっくりいたしました。
自分が支那で勉強した清龍寺にそっくりです。
思へば、懐(なつか)しい法全大徳(はっせんだいとく)から、尊い教えを受け、今度再び会う時は、浄土でお目にかかりませうと、約束した事を思い出すのでした。
ここを修行の根本道場(こんぽんどうじょう)とする事に、ご決心なさいました。
園城寺を、何故三井寺(みいでら)といふのでせう。
畏(かしこ)くも、天智天皇 天武天皇 持統天皇のお三方の、御誕辰(おうまれ)の御時(おんとき)、御産湯(おんうぶゆ)に使われた、尊い井戸があります。
それで御井(みい)の寺、三井寺といふやいになりました。
圓珍様は、この尊い井戸の水をお汲みになり、密教をお伝へなさる時の、法(のり)の水にお使ひになりました。
密教では、阿伽水(あかすい)と申します。
圓珍様が、三井寺におはいりになりましてから、
五百余人のお弟子様が出来、又、教えを受けた人々は、三千余人、其の御徳(おんとく)は、天下にあまねく充ち渡りました。
 珠(たま) 磨かざれば光なし
 転石(てんせき) 苔を生ぜず、
よい珠をよく磨いてこそ、初めて圓珍様の様な、偉い人になれるのであります。
寛平(かんぺい)三年十月二十九日、御年七十八歳で、大勢のお弟子に守られて御入滅(おかくれ)になりました。
それから三十五年の後、おそれ多くも、醍醐天皇より、「智證大師」というおくりなをたまわりました。
大師様(だいしさま)は御入滅になりましても、いつもこの世に御在(おいで)になりまして、私等(わたくしたち)を導引(みちびいて)下さいます。
そして大師様の目的は、どこまでも日本國家を鎮護(まもる)事と、國民が豊に楽しい生活をなす、佛國土(ぶっこくど)を建てようという事であります。
ここに、大師様の尊像(おすがた)を拝し、その徳業(おとく)を追懐(したい)つつ、この紙芝居を終わります。
ページトップ

トップ アイコン
トップページ