1215日は宮本敬之助さんの命日です。この命日に合わせて、瀬能笛里子(せのうふえりこ)さんから 宮本さんへの思い出の記を寄せていただきました。懐かしくも心温まるお話です。ゆっくり読んでいただければ幸いです。

なお瀬能さんは、今鎌倉で、一花屋(いちげや)と言うカフェを開いており、我々OBも宮本さんとお会いする時、度々利用したお店です。望月(35C) 記



 敬之助さんと私

瀬能笛里子

 

かれこれ二〇年以上前、尾瀬の山小屋「長蔵小屋」に縁あってたどり着いた私は、小学生の頃から憧れていた、自然の中でのシンプルな人間の営みを初々しく体験し吸収していた。

 

毎日早くに起きて、おむすびを大量にむすんだり、客室の布団をたたんだり、黒光りする廊下を小走りでパタパタとしていた。暮らしそのものが新鮮であったけれど、何よりも当時の長蔵小屋には何人もの長老、人生の大先輩が存在しており、やれ挨拶はこうしなさい、箸の持ち方がおかしい、正座するのが当然。ザ昭和な、上下関係があったりもした。決して私はそれが嫌ではなく、むしろそれを面白がっていたように思う。

 

そんな先輩たちと働いていた中で、たまに上山しては1週間ほど滞在して従業員と一緒にまかないを食べ、掃除をし、ふと散策に行ってしまったり気ままに過ごしているおじいさんがいた。

 

決まって従業員部屋へ行く階段の下にある小さな客室「二七番」に寝泊まりし、首からは何やらブラブラと色々ぶら下げて、てぬぐいを頭に巻き、時には洒落た絵の描いたシャツを着ていた。それが宮本敬之助さんであった。飄々としたその立ち振舞いに強烈に惹かれたが、謎は多いまま恐れ多くあまり近づけなかったことを覚えてる。

 

何年か経ち、炉端での茶くみの仕事もそつなくこなすようになったある夏の日。憧れの敬之助さんが「目玉池」に連れて行ってくれると言い出した。チャンス到来であった。

 

「目玉池」とは通称で、とってもとっても小さな池に浮島が浮いていてその浮島がまるで目玉のオヤジのように森の中で目を光らせている。雪の季節には木道を外れて自由に歩ける尾瀬の山。ただし夏になると木々は鬱蒼とし、木道以外に進む道はないと思ってしまう。そんな尾瀬沼の南岸のなんの変哲もないコーナーで敬之助さんは急に「ここが入り口です」と藪に入って行った。そのように道なき道を進むことを「藪漕ぎ」というということもその時初めて覚えたくらいで、腕カバーをした半袖のティーシャツのまま、長靴の足はついていくので必死だった。

 

その頃から親しくなった私は、昔話をたくさん聞かせてもらったし、知識や知恵を授かった。若くして奥さんを亡くした敬之助さんは手仕事がとても得意で手作りのものをいつも身につけていて、私にも贈ってくれた。長蔵小屋の障子に貼っていた布を自分で柿渋に染めたポシェット型手帳ケース。無地のメモ帳が入れられるようになっていて、サッと風景を書いたり、メモをとったり、連絡先を書いて渡したりできる。今でいうスマホを携帯していた。小さな鳥笛も携帯し、こだわりの登山靴を履いたり、敬之助さんを取り巻く空気には一般的に生きるために必要のない雑学がいっぱい漂っていた。でも私はそこに惹かれ続けた。その雑学を一つでも多く集めたいと思っていた。

 

山小屋で働くことをやめた年から、長蔵小屋で出会った珍奇な4人で四国八十八ケ所お遍路巡礼を始めた。敬之助さんと、敬之助さんと共に利尻島でパークボランティアをやっていたまきべえと、尾瀬の先輩あやさんと私の4人。年齢もバラバラだったので家族3代で巡礼しているとよく間違われたものだった。型に囚われないこの珍巡礼。いきなり51番松山石手寺で集合だ。なんでそんなところから始めたかというと、道後温泉に行きたい。ただそれだけの理由であった。そんな巡礼は、テントと寝袋と食料を各自背負って歩いていたが、当時八十代前半だった敬之助さんも、自分の荷物は全部自分で背負って一緒に歩いた。上りの山道はそっとまきべえが気づかれないようにリュックを押した。辛そうだったのはそのくらいで、あとは一緒に悠々と歩いた。「般若心経は最後の羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶に全てが集約されているからそれだけ唱えればいい」と敬之助流でお参りし、お札箱から錦のお札を探して、道沿いの柑橘はお遍路さんのものだからとっていいのだと私に取りに行かせ、桜の満開の公園でテントで寝たり、テント場がどうしても見つからずみんなでモーテルに泊まったこともあった。こんなに自由な旅はない。ただ歩く、感じる、話す、うどんを食べる。それでも一日十〜二十キロの遍路道を歩くことは辞めず、疲れたらバスに乗るズルさも楽しみ、目的があるようでない春の十日間を例年過ごした。徳島エリアを残す最後の四年目。私は妊娠出産をしたため突如参加できなくなってしまったが、三人は無事八十八ケ所を達成し、高野山にも行ったのだった。私もいつかその残りの20ヶ所くらいを回る時が来ないかなあと思っている。

 

そうそう、そのお遍路の時大きな丘にある公園でキャンプしていたら翌朝園内放送で「キャンプをしている方は速やかに撤去してください」と流れた。敬之助さんは「はいはい、私の出番ですね」と、わざわざ白装束に着替えてすげ笠をかむり、事務所に挨拶に。ニコニコと戻って来た手にはたくさんの抱えきれてない柑橘を持って「いやいやこんなおじいさんがキャンプで巡礼してるとは思いませんでした。どうぞ頑張って!」とこんなにいただいちゃいました。と笑っていたのが忘れられない思い出だ。うどんばっかり食べたがる私に付き合って、急遽香川ではうどん遍路に切り替えて、製麺所や街道沿いのうどん屋でうどんばっかり食べたこともありましたね。

 

そんな旅人時代の最後を一緒に過ごすことがギリギリできて運がよかった。私も子供が生まれ、故郷の鎌倉の地で喫茶店を始め長い旅に出ることはなくなった。敬之助さんはそれからも海外にも行っていたが、そのうち国内旅行になり、そのうち鎌倉にきてカレーとチャイを頼んでゆっくりしてくれるようになり、そのうち愛知県からも出なくなっていった。いつも身動きの取れない私にいろんなところから便りをくれたり、不意に贈り物をくれたり、暮れには礼文島のカレンダーを毎年送ってくれたりしていた敬之助さん。

 

今度は私が会いに行く番になった。

 

知立のご自宅に初めて訪ねた数年前。新しいマイホームが建ち並ぶ一角にいきなりバリのような沖縄のような生命力が生き生きとしている見るからにちょっと怪しい家があり「あはは、ここだ」とすぐにわかった。お邪魔すると、このまま丸ごと博物館になるんじゃないかという世界各地の蒐集された面白いものが陳列しており、敬之助さんは体が自由に動かなくなっただけで脳みそも目玉も前と一寸も変わらず飄々としていた。妖怪にハマっているという私に妖怪図鑑をくれて、一緒に行った坊やに煙の出るおもちゃでびっくりさせ、限られた時間で精一杯心を込めてときを過ごした。

 

またきますね!!と言って、車から手を振る私をいつまでもいつまでも見送ってくれた。小さくなってやがて見えなくなった敬之助さん。その時まだ元気だったけどハッキリとこれが最後だろう。とわかってしまって、涙が溢れてむせび泣いた。

ずっと恋人気分でいた。

 

勝手に。五〇歳も離れていたけど、全然いけるって思ってた。

 

亡くなった後、息子さんからいただいた手紙に「親父は娘のように可愛がっていましたよ、いや、恋人と思っていたのかも」と書いてあって、やっぱり。と私はニンマリと笑んだ。

 

それでも、もう新しい礼文島のカレンダーは届かない。