山荘日誌 第4(昭和183月 川田市蔵 遭難の記録)(原文のママ;旧かな遣い)

 

322 快晴→暴風 (遭難の日)

今日は何んたる日ぞ、我が班創って以来最初遭難者として快男子川田市蔵君を喪へり、嗚呼。何だか夢の様だ、今にもひょっこり入口の扉を排して戻って来る様な気がする。併し山荘にも班室にも君の元気な姿は最早見られないのだ。御両親の御心を拝する時只々…… 又翻って国家は有能な技術者を失へり…… 之れ皆私のミスプレーのいたすところ、死を以ても償ひ能はざるところ我身の処置に苦しむ。何故私は還って来たのか、何故私が代わりに死ななかったのか、生きて還った私が怨めしい。私の浅薄な研究と経験とがこの事を将来したのだ。諸君よ、私の轍を踏むなかれと念じつつ将来の戒めにもと動かざる筆を督して記録す。

 

 起床AM 600 文字通りの快晴、雲一つ無い。平標尾根は白銀の全貌を見せ我等を招く。待望の東ゼン登攀をこの期を外してはと昨夜決定せしパーティー 宮本、川田、亀田、一之倉、勇躍準備を整ふ。他の者シッケイより仙の倉へ向ふ。出発AM 9:00 (遭難の一原因)。装備――川田ヤツケ無く軍手(遭難の原因としては最大)食料一食分、飯盒に入れし飯、テルモス大に茶、蜜柑6ケ、川田のみルック無くザイルを肩にす。――即ち出発前に既に遭難の因をはらんで居たのだ。装備不足、食料不足――全く私が殺したと仝じであった。川田よ 許せ。

 暑い暑いとうれしい悲鳴を挙げつつゼンの出合へ到着。10:10予定の如く西ゼン左岸にスキーデポす。輪カンに替えて東ゼン滝下に登る。雪は輪カンをつけて足首の埋まる程度の状態。質は好い方であった。10:53 小憩の後問題の大滝へ突進す。11:10 この頃より平標方面より薄雲風に乗りて来る(ここで諦めるべきであった、猪突こそ恐るべきもの)。大滝攻撃のオーダー、宮本、川田、一ノ倉、亀田。約半分は雪の状態も良く、アイゼンのツアッケを利して簡単に登りしも後の約15mばかりは蒼氷。宮本、ザイルでジッヘルされつつピッケルを振いステップを截りて攀る。大部風が出てくる。

20分の苦闘の後、宮本、大滝上に立ち一同ジッヘルする。左岸の吹溜りにて小憩。空は雲に閉ざされ風強し。この多年懸案の大滝直登を無事成就しお互ひに喜びをわかちあふ。11:50 (これより7~8時間後にあの悲しき運命に曝され様とはこの時誰が想ひしか) 段々険悪化しつつある雲行もこの大滝を突破せし我々にはなにものでもなかった。あとはたんたんたる登りだとばかりに稜線目指す。三ノ字沢を過ぎる頃より風益々激しく、数日前降りし積雪を飛ばし面も向けられぬ(何故退却せざりしや)。只々若さの誤りか。“鹿を逐ふ猟師山を見ず”のたとへの如く稜線へ稜線へと死の淵へと近づきつつあるのも気付かず登高をつづけた(所詮私はリーダーとしての資格は無かったのです)。――「若さ」とのみ云えるであろうか。私個人の登高欲、山を冒涜する征服欲を以てパーティー全体を引っぱっていたのかもしれない――

Great Stone Feel も過ぎ稜線の直下と覚しき地点にて雪穴を掘りて昼食。風凄し。烈風中を強引な登高つづける、真実強引な……。装備不完全な川田を想ふ時、唯申し訳なかったと云ふ以外何物もなし。併し君は終始一言も苦痛の辞を挙げなかった。(君ほどの人間をむざむざと仙の倉の雪の中に逝せしを想ふ時断腸の想ひである。今山本元帥の御戦死、アッツ島の悲報を耳にし、邦家重大の秋、近き将来第一線に立つべき君を私の無為無策の裡に喪う、万死を以ても償ひ得ず)。辛うじて稜線に立ち得しも上州側より吹き来る暴風に歩み得ず、匍匐してイイ沢の肩へ出んとせしも能はず。遂に往路たる東ゼンを、下降不能と考へ来たりし東ゼンの大滝を退却することに決す(何んたる決断の遅さぞ。無為ほど恐ろしきものなし)。

往路のアイゼンの跡を踏みてG..F.も濃霧の裡に見送りて報告団歌を高唱しつつ下降、君も歌った…… 苦痛を隠して…… 当時の君の苦痛を偲ぶ時涙あるのみ……。大滝上までは何のこともなく下降す。大滝左岸に降路をとるべく左へ高捲きす。この頃君の疲労蔽ひ難くアイゼンを雪面にフラットにつき得ず。パーティー一同に激励されつつ最後に残ったエネルギーを振りしぼって這ひ登った。今や尽きんとしている蝋燭の最後に放つあの輝きの如く、残れる茶及び蜜柑のすべてを川田に与え、この滝を突破すれば山荘まで30分と、元気づけて下降を始む。けれど君に、もう食べるものはありませんかと云われた時、腸を掻きむしられる様な思ひであった。どんなに空腹だったろう。

立木にザイルをかけて宮本まず下降し足場を固め、一之倉次いで降り、次いで川田下降に移りしも約5m降りてザイルを握り損ねてかザイル抜け約15mほどスリップし、辛うじて肩を立木に引っかけて停止す。君は元気な声――しかし幾分遅れてはいたけれどー―を挙げて我等を安心させて呉れた。亀田ピッケルで確保しつつ下降。下方を偵察するに約5mの壁の下降を終はれば沢へ下降し得ることを察知し、川田をザイルに結んで降らす。宮本、その壁の右下の吹溜りに飛び降りて、川田に助力し沢まで滑り下らしむ。続いて一之倉ザイルにすがって下降し、誤ってスリップし沢まで滑落せしも無事。亀田も下降し、無事大滝下に立つことを得たり。一之倉をして直ちに山荘に急を報ぜしめ、救援を仰がしむ。この頃よりさしもに吹き撲ってきた風も一時憩む。

問題の大滝を突破し張りつめた気も緩みしか君遂に立たず、亀田、宮本、両脇より肩を入れて辛うじてスキーデポまで降る。雪は相当ゆるむ。川田のスキーのみをとって来、はかせたれども駄目、スキーの上に腰を下ろさしめザイルにて牽んとせしも平衡とれず駄目、スキーとザイルにてタンカを作って擔はんとせしも両人体力の消耗甚しく擔ふこと不可、背負えども雪濘(ヌカ)って膝まで没し駄目、憎や天は雨を降らし来る。辛うじてイイ沢出合上の台地上(夏は滝)まで下りしも川田の意識次第に不明瞭となり、それまで私等を安心させんと大丈夫、大丈夫と云って居りし声も細まり行けり。日は次第に没し夜の帳は次第に下りんとす。

時折凄まじい強風吹きまくって来る。両人の力尽きたれども全ての荷物を捨て猶も山荘へ山荘へと心は飛べど体力の消耗如何ともすべからず。意識不明の川田を抱えて救援を待つ。日は遂にとっぷりと暮れ、時折り雨憩みて空間より月を隠顕させ谷間を蒼白く照らす。

遂に救援来たる。遥か下方より明滅する電灯の明り、その灯の近づくのがなんと遅かったことよ。永井、高橋、土田の三君到着。直ちに運搬作業を始めたれども雪(ヌカ)作業困難。西ゼン下流の支沢より押し出しているデブリを避けて下降せしも、遂にイイ沢下流約200m の地点にて呼吸微弱となり、救援隊持参の焼酎を含ませ等して人工呼吸を始む。増援を待つこと急なりしため亀田をして連絡に下らす。しかし天無情、神も仏もなきか、川田の呼吸は〇〇となり宮本連絡に下る(当然私は下るべきではなかったでせう。川田の臨終に間に合はなかったとは)。PM10:00 宮本山荘500m 手前にて増援隊と遇い急行を頼み、山荘に入りて暫くして永井戻り、食事をとって永井に土樽村へ連絡を求め、宮本現場へ引き返さんと登行中引き上げて来る――川田を残して引き上げて来る――諸君に遇う。万事休す。川田よ、申し訳ない。

宮本下るや川田の呼吸途切れ途切れとなりて脈拍も微かとなり、流石の土田君も長時間の人工呼吸に疲労し来る。川田にズボンをはかせし高橋も次第に寒さを覚え、加ふるに霧出で来たりたり。川田の鼓動遂に憩む。呼べど戻らず、叫べど還り来ませず。

増援隊寝袋、粥を持ちて到着したれど、それを用うべき人今やなし。川田を寝袋に納め山荘へ運ばんとせしも全員の疲労甚だしく万一を慮って泣いて川田を現場に安置して下る。PM11:00

 

3月23 吹雪 → 曇

永井4時頃帰荘。

AM6:00       剱持氏、高井孫平次氏、橇を携えて入荘。土田君、高井氏に駐在所に連絡を

お願いする。

AM 8001030 永井、亀田、清水を除く全員、現場へ赴き遺骸収容。

AM 11:30      学校より千明、中条、鈴木 三先生来着。

正午        駐在所 神山氏 来着

PM 2:30      検視に湯沢へ下ろせとのことに土田、亀田、宮本、付き添って下る。

           土田、亀田、剱持氏宅へ宿泊。

          川田君御家族来着    

          宮本、湯沢へ下り、仝夜湯沢宿泊。村田、星野、篠部、岡崎、萩原応援に来る。

 

 

324

 遺骸 湯沢発にて帰宅。宮本、警察へ報告作製のため仝夜剱持氏宅宿泊、他の者は退荘す。

 

お世話になった方々  土樽駅殿        高井嘉吉  様

土樽小屋殿       高井孫平次 様

土樽役場殿       剱持義延  様

土樽村駐在所神山様   山口利一郎 様

湯沢村巡査部長派出所

湯沢村役場

 

 

 

 

余りにも常識的な、そして平凡なこの度の遭難は、言ふべき言葉もなく唯私を混沌の淵へ追い落としました。原因、それは私が山を軽視したの一言に尽きます。

只此のことによって班員諸君が畏縮することなく、この遭難を一つの踏石として、若き班員諸君の次への飛躍の基ともならばと思ひ、書き記し置きます。       (紡織三年 宮本敬之助 記)