黒部五郎岳縦走

 

月 日  2006年8月20日〜24日

メンバー 荒井(38C)、関(40C)、永井(38W)、中林(40E)、山田(40S)、関谷(29W

 

出発まで

 

 黒部五郎岳へ行こうか言うと話が始まったのは、昨年(20059月頃だったろうか……。黒部五郎岳のあのカールを再び見たいと思っていた所、今年(20063月に決定した。東京上野松坂屋にて毎年6月ごろ夏山登山案内があり、荒井さんより連絡があり、荒井・木村・関谷3人が太郎平小屋のあるじ五十嶋博文さんと話しをした。 

盆明け8月下旬ごろ、

 

折立―太郎平小屋―黒部五郎岳―黒部五郎小舎―三俣蓮華岳―双六岳―鏡平山荘―新穂高温泉 

 

の計画に付いて話をした。富山より折立までのバス時刻表など、また折立に宿泊所があると言うので、日程が決った時点で、宿泊予約をした所、2ケ月以上前で満室とのことであった。

 荒井さんが山岳部ホームページに、今年の黒部五郎岳縦走に付いて紹介した。

 日程820日(前泊)〜25日(予備日を含む)、その結果6名が参加することになったので、荒井さんが詳細な実施計画案を立案した。

 

 メンバー

 

 荒井さんがチーフリーダー、関さんがサブリーダー、その他4人で合計6人である。

思い出して見ると、荒井さん・関さんの時代は、大学山岳部員として、槍・穂高から剣・立山まで、ダイヤモンドコースを重いテントなど約5060kgはあったろう、大きなキスリングを背負って縦走したことがある。私などは少し時代が前になるので、大学山岳部員は、仙之倉山荘付近の上越を中心に活動していた。私はこのダイヤモンドコースを退職直後に単独行で歩いた。

現在メンバーの最高齢は私が75歳、最年少は関さんの63歳で、平均年齢は67歳である。今度の計画はこのダイヤモンドコース中一番奥深い所を、約12kg前後の荷物を背負って縦走するのが今回のメンバーである。

サブリーダーの関さんがトップの電気機関車で、リーダーの荒井さんがラストの電気機関車である。中間はよく音の出る蒸気機関車の面々である。全員ともよい人達であるが、私が最高年齢でスピードダウンなど迷惑を掛けないように願っていた。

 

8月20日(日)

 

池袋 西武バス13:15―富山19:40―ホテルアルファーワン20:00

 

富山へ

 

8月20日までJRジパングが使用出来ず、安い西武バスで富山まで行くことにした。

台風10号の接近で九州は大雨、前線の影響で北海道も大雨が降っている。関東地方は毎日30℃を越す猛暑が続いていた。

池袋駅前より西武バス30人乗りが3台運行され、私は1号車に乗った。関越・上信越・北陸自動車道を走り、最後の休憩を蓮台寺パーキングエリアにて取った。日本海が見える頃、丁度太陽が今まさに日本海に沈もうとしていた。黒部・滑川を過ぎると、陽はとっぷり暮れて町には灯りが点り、富山に着いた時は夜の街になっていた。バスを降りた時はまだ暑かった。

JR富山駅前にある、ホテルアルファ−ワンに着いた時、関西方面などから来た先発3人は飲みに出掛けた後で、一人で待っていると遅く帰って来た、関さんより明日(8/21)午前5時半ホテルロビーに集まり、6時に富山駅前の集合場所へ行くと話を聞いた。

最上階14階にある展望風呂で汗を流してから床に就いた。

 

8月21日(月)

 

富山 タクシー6:00―折立7:15 7:50―三角点9:35 9:50―太郎平小屋13:00

 

富山から折立へ

 

朝起きると雷が鳴り大雨が降っている。初日から大変だと思い知らされた。夜行組も富山駅前に着いて全員集合した。予約していたジャンボタクシーに乗り折立へ向う。雨よ止んでくれと祈るばかり。常願寺川を渡る時川水は増水して濁っている。所々に雨のため○○は通行止めと指示が出ている。立山方面への道と別れて折立への道を走り続ける。通行料金を支払って林道有峰線に入る、雪崩避けのシェルターがあり、道路補修に余念がない。折立に近づき周辺にある駐車場は登山者の車が何十台と駐車していたのには驚いた。

 

折立から太郎平小屋へ

 

終点折立にてタクシーを降りた時も雨は降っていた。軒を借りて朝食を済ませた。下山して来た人達に山の天気を尋ねると、山小屋付近雨は降っていない、下って来るほど雨は降っていると言う。天気に付いて少し安心した。

雨具を着て、サブリーダー関さんの後、私は二番目で、関・関谷・

中林・永井・山田・荒井と編隊を組んで登り始めた。私の調子は悪く足も重い。休憩を重ねながら登り、三角点に着くとかなりの登山者が休んでいた。時計を見ると午前935分、折立から三角点まで1時間50分掛かったが、標準時間通りに歩いていたのでほっとした。

 

 雨は上ったもののガスが掛かり展望はなかった。登山道は角材で囲みその中に石を敷き詰めてあり、石をよく見ると丸い石である。川原から運んで来た石材で登山道を作ってある。登山道脇を見ると、アキノキリンソウ・オヤマリンドウ・ハハコグサ、誰かが太郎ウスユキソウと呼んでいた花などなどが咲いていた。ベンチを見付けると休憩と叫んだ。少し休んではまた登る。山が少し見えて来たかと思うとまたガスが掛かる。道標を見ると太郎平小屋まで1.0km0.5kmと近づくに従って雨が降り、濃いガスが一面に立ち込めて来た。誰か小屋が見えると言う。ガスの中にボンヤリと微かに見えた。小屋に入ると雷が鳴り大粒の雨が降って来た。いい時に小屋に着いたと胸を撫で下ろした。

夕方になり雨が上って、少しガスに覆われていた北の俣と薬師岳を眺めることが出来た。我々は6畳の部屋に入り、寝る時は押入れ上下に一人ずつ、畳の上に4人でゆっくり寝ることが出来た。

 

山の屎尿問題

 

部屋に入り早速宴会が始まった。焼酎“千年の眠り”ラム酒・ウイスキーなどを飲みだした。環境問題特に“山の屎尿”に付いて議論になった。

現在の山小屋では用便後の紙は、箱に入れて焼却処分しているのが多いが、根本的には解決されていない。

対策として

1 入山料を徴収して設備管理に使用する

2 トイレ入口で使用料金を徴収して処理に利用する

3 トイレ空・満タンクをヘリコプターで運搬して処理する など種々の提案があった。

日本では入山料金を徴収していないので現在は困難であろう。しかし、将来は特に検討する必要性がある。

野外トイレ設備は環境庁が、主な箇所に設置してきたが、管理面で無理があり、すぐ汚れてしまい維持管理が困難である。またバイオトレなど開発されたが、人数が少ない時はよいと思うが、大人数になった時に役に立たなくなってしまう。

トイレ入口に人を置いて使用料金を徴収すると、人件費が高くなり、ボランティアでは通年毎日管理する事は無理である。現在はチップ制にしている所もあるが、一回使用に付き100円入れる人は少ないと思う。こんなことを聞いた事がある。子供がトイレに行って、お金がいるとお母さんの所に戻って来たら、その辺で用便してこいと、青空トイレでするよう子供に勧めていたと言う。

発展途上国の観光地などでは、トイレ入口に管理人がいて料金を徴収している所が多い。

スイスではトイレ空・満タンクをケーブルカーで運搬処理をしている。またカナダではタンクをヘリコプターで運搬処理していると聞いている。その費用は恐らくケーブルカー運賃などに含まれているのではないかと考えられる。

さて、日本ではどうするか、富士山が世界遺産に登録されないのは、極端に言えばトイレ環境が全然整っていないと言う事である。

議論した結果、日本のトイレ環境問題は、スイス・カナダ方式で、トイレ空・満タンクをヘリコプターで運搬する方法で、使用料金を徴収する事を含めて検討する事が、一番妥当な意見と一致した。

 

田部重治

 

“太郎平小屋”と書いてある大看板に田部重治と書いてあった。

田部重治(18841972)に付いて調べて見ると、明治・大正・昭和期の山岳紀行文家、英文学者である。富山県生れ。

立山山麓上新川郡に生まれ育ち、東大英文科卒で、大学時代に木暮理太郎を知り、山に親しみ始めた。秩父に関する足跡は有名で、昭和25年日本山岳会名誉会員に推された。

 

山に関する著書の一部として、

 

山と渓谷 昭和4  山は如何に私に影響しつつあるか 大正8

数馬の一夜 大正9 含まれる

峠と高原 昭和6  薬師岳を憶う 昭和3 含まれる

          山を憶う 昭和5

若き日の山旅 昭和31

わが山旅50年 昭和40

 

などがあり、 “笛吹川を遡る” を私は国語教科書で学んだ。

 

 五十嶋一晃 著 “岳は日に五たび色がかわる” によると、昭和40年“太郎小屋”を“太郎平小屋”へと改めた時、田部重治が毛筆で書いたものである。

 

 参考文献

 

 太郎平小屋50年史 別冊 

 岳は日に五たび色がかわる

 

 

8月22日(火)

太郎平小屋5:50―太郎岳6:00―北の俣7:55―赤木岳8:35―中俣乗越9:30(昼食)9:50―黒部五郎岳の肩11:30―黒部五郎岳11:45―肩12:10―カール下12:40 12:55―黒部五郎小舎14:15

 

太郎平小屋から黒部五郎岳へ

 

出発した時はガスに包まれていた。太郎山に着くとガスが切れ始め、雄大な薬師岳が姿を現した。しかし、黒部五郎岳の上半分はガスに覆われて、下半分だけを見せていた。かって薬師岳にて冬季愛知大学生13人が遭難した事を思い出した。

平らな尾根道を行くと、誰かが右側に雷鳥3羽を見付けた。まだ小さかったので今年生まれた雷鳥だろうか、一斉にカメラを向けた。近くに寄れば逃げられる、夢中でシャッターを切った。左側に池塘があり、周辺にはハクサンイチゲが咲き、チングルマの花が散って綿毛に水滴を付けて輝き風に揺れていた。

右に神岡新道を見ながら歩き北の俣岳を過ぎて、一人の登山者に出会う、黒部五郎小舎の人であった。昨日(8/21)の出来事、午後2時ごろ三俣蓮華岳付近で登山者のストックに雷が落ちて、怪我の程度は軽かったと聞かされた。我々が太郎平小屋に着いた直後の出来事であった。

“雷は怖い”今日も雷が来るかも知れないと言う。

赤木岳を過ぎるころ、後方に薬師岳が大きく見え、前方には大きな黒部五郎岳が全姿を現して立ちはだかっている。

中の俣乗越で昼食を取り、ガソリンを満タンにして準備を整えてから登り始めた。急峻な登り坂になって来た。先頭機関車が引張り、最後尾機関車が押上げて行く。周辺など見ている暇などはない、ただ登るだけである。やっと黒部五郎岳の肩に着いた。

途中追越し追越されながら歩いていた男女が黒部五郎岳の肩で休んでいた。あなた達は休みなしによく喋るなぁと嫌味を言われた。肩にリュックサックを置いて黒部五郎岳の頂上へ向かった。

 

黒部五郎岳

 

私の一番好きな山の一つに黒部五郎岳がある。今回山旅の中心は是非行きたいと考えていた黒部五郎岳である。海抜2,839.6m黒部五郎岳の頂上に立った2回目である。一回目は1991年単独行で、今回は二回目である。

かっての人深田久弥(19031973)は、黒部五郎岳を、あの有名な日本百名山に書き、中村清太郎画伯(18881967)は黒部五郎岳に明治43年に登り、黒部五郎岳を登山記に紹介している。黒部五郎岳は個性を持った山で、この2人とも推奨している。

黒部五郎岳は一番奥深い場所にあって、現在交通が便利になったとは言え、どこから行っても途中山小屋に一泊しなければ到達することが出来ない所に位置している。

黒部五郎岳の一方は氷河の浸蝕によって削られ切り立った岩壁であり、また一方は長く裾を引いている。

頂上に立って見ると右手は黒部五郎岳の岩稜が続き、真下は浸蝕されたカールが半円形をなし、覗き込むとまだかなり多くの雪渓が谷間に残っていた。

我々はカールの底へ向かって下り始めた。氷河によって削られた岸壁を下る時、ハクサンイチゲ・ゴゼンタチバナ・ミヤマキンポウゲなどが咲いていた。カールの底に着いて大休止となった。雪渓が融けて流れ出る冷たい水に手を入れて飲む。さすがに美味い。小屋で水割りを飲むからペットボトルに一杯にして2L持って行ってくれと言う。小屋までは下り道であるが、しかし、2Lの水は私にはこたえた。

カールから黒部五郎小舎までの間で雨が降り出した。近いと思ったが以外と長い道程であった。これも老齢化が原因であろうか。黒部五郎小舎に着いてほっとした。小舎は3年前に建て替えられ、三角屋根の小屋は物置小屋になっていた。

 

山の音楽会

 

部屋にいると午後6時半より、食堂で音楽会があるからどうぞと案内があった。シンガーソングライター 金髪に染めたリピート山中こと滝本邦宏さんが食堂の一角に腰掛け、登山者達はコの字型に座った。昨日(8/21)は双六小屋で音楽会を開催し、今日(8/22)は黒部五郎小舎での音楽会である。

リピート山中さんはギターとウクレレの中間楽器ギタレレを抱えて歌い始めた。雪山賛歌・山小屋のともしびなどを歌い、彼が作詞作曲した歌も披露した。歌い終わってからアンコールの依頼もあった。我々だけが残り、昔歌った山の歌 アルプスの乙女・アルプスの夏の想い出 を歌ったらよい歌だと言われ、恐らく古い山の歌も逐次増えて行くだろうと思った。

 

8月23日(水)

 

黒部五郎小舎5:30―稜線6:35―三俣蓮華分岐点7:00―三俣蓮華岳7:45 

8:05―丸山8:30―双六分岐点9:03―双六岳9:30 10:10―双六小屋11:05(昼食)11:35―弓折分岐点13:10―鏡平山荘14:05

 

 黒部五郎小舎から三俣蓮華岳へ

 

 始めて天候は晴れて清々しい朝を迎えた。午前4時半に朝食を取り外へ出る。黒部五郎岳も薬師岳もまだ眠っている。暫らくすると黒部五郎岳の頂上に朝日が当たり輝き始めた。時々刻々と朝日が頂上から下へと赤く輝いて来た。

 中林さんが中々準備体操にやって来ない、まだ部屋にいるのかなぁ。

 小舎脇より左折してから登り出した。朝露に濡れた急峻な登山道を登る。振り返り眺めると黒部五郎岳に陽が当たり、黒部五郎岳への尾根道が目の前にあり、雪渓を残したカールの底は、奥の方に眺めることが出来た。目を覚まして我々を見送っているようであった。左側に加賀白山があり、右側には大きな薬師岳があった。

 

 

 稜線に辿り着くと更に展望が開けた。鷲羽岳・祖父岳・ワリモ岳・水晶岳が姿を現し、手前に雲の平、左に目を向けると遠く立山・剣岳が山姿を見せてくれた。黒部川へ落ちているガレ場を過ぎ三俣蓮華岳と小屋への分岐点に着き登山者はそれぞれに分れた。

 三俣蓮華岳への最後の登り、どの山を見ても大きい。海抜2841.2m三俣蓮華岳の頂上に着いた。雲の上に槍ヶ岳が見えたかと思うと雲の中に隠れてしまう、またすぐ顔を出す。一斉にシャッターを切る。双六岳の右側に一際目立つ笠岳もあった。頂上で食べたミカンは冷たく美味しかった。

  

 双六岳経由鏡山荘へ

 

 三俣蓮華岳より尾根通しに双六岳へ向う。広い尾根で丸山のピークがどこにあるのか分からない中に通り過ぎて、後ろを振り返り見て、少し盛り上がった所が丸山かと思うほどであった。双六岳に着いて早い昼食を取る。双六小屋方面より登って来る団体登山者達と出会う。下り始めは緩やかな道であるが、平坦部を過ぎるとガラガラした岩の急な下り坂となった。目の前に西鎌尾根への道、樅沢岳への登山道が見えた。双六小屋に着くと例の男女が食事をしていた。挨拶をして同じテーブルで残りの昼食を取った。

 以前見た双六池は水が満々とあったような気がしたが、今日見た双六池は水が非常に少なく感じた。弓折岳手前のコルにて一休みして鏡平山荘へ向かった。

 

 鏡平山荘

 

 テラス宴会

 

 今回宿泊したどの山小屋も最近建て替えられて新しかった。鏡平山荘に着いてからリーダー達が、宿泊の手続きを済ませ部屋を確認して戻って来た。部屋を案内してくれた年寄りおやじはうるさい、しかし、我々の部屋は一番よい部屋だと言う。我々6人の宿泊であるが、人数が増えた場合、他のグループが入室するかも知れないと連絡を受けた。

 外で待っていた連中は宴会の用意をする。生ビールジョッキ一杯800円、山小屋にてジョッキで飲む生ビールは、黒部五郎小舎とこの鏡平山荘が始めてある。全員揃った所で今回の山旅を祝して乾杯した。乾いた喉に生ビールが染み通る、一気に飲むとさすがに美味い。山旅の楽しかった事、想い出での山の出来事などなどを話しながら飲んでいたら、途中で追越し追越されながら歩いていた中年男女も加わった。最初に会った時はよく喋る連中だと言われたが、段々と話をするようになり、この鏡平山荘テラス宴会に加わった。ビールも買い足し大宴会になった。

 話をするとこの男女は年に数回泊り込みの山旅をしていると言う。沼津に住んでいると言うが何者であろうか、和気あいあいと酒宴を続けていた。

 

 暮色の槍・穂高

 

 テラスでの宴会後、部屋で休んでいると、槍・穂高が見えると誰かが言った。

 ガスが晴れて赤焼けした槍・穂高が目の前に山姿を現した、素晴らしい光景である。部屋のガラス窓を開けて一斉にカメラの放列である。小槍・槍ヶ岳・南岳・大キレット・北穂高・北穂ドーム・涸沢岳・奥穂高・

ジャンダルム・天狗岳・西穂高が一列に並んで一大パノラマを見せてくれた。左側手前に槍ヶ岳へ向かって伸びている西鎌尾根も見えた。

 昔あのごつごつした西鎌尾根を歩いた事、右側を眺めると奥穂高から西穂高への尾根を歩いた事、計画をして行く事が出来なかった大キレットから北穂高への急峻な登りを想い出した。皆の目は槍・穂高の光景に釘付けにされてしまった。

 

 

この部屋が一番よい部屋だと、鏡平山荘のうるさい管理人が言った意味が理解出来た。また誰かが言った。今回の山旅でこの素晴らしい

“暮色の槍・穂高”を見ただけで元が取れたと……。

 ガスが槍・穂高の山姿を隠してしまった。

 鏡平小屋も建て替えられて数年と言う。建築を見ていると、雪の重みに対して頑丈に作られてあったが、部屋の窓は一重窓で寒さに対する対策が不充分と思った。話は変わるが谷川岳肩の小屋の窓は三重窓であった。

また景色はよいが水の少ないこの山小屋の洗面場に、歯を磨いてもよいが、顔を洗うことは不可と注意書きもあった。

 

8月24日(木)

 

 鏡平山荘5:50―秩父沢7:30―わさび小屋9:00(昼食)10:00―新穂高温泉バス停11:10―風呂―バス新穂高温泉13:40―松本15:40特急16:03―新宿18:36

 

 翌朝(8/24)もう一度朝焼けの槍・穂高を眺めようとしたが、稜線がガスに覆われてしまって、昨夕(8/23)のような光景を眺める事は出来なかった。年寄りの管理人に見送られて鏡平山荘を後にした。鏡池の前で立ち止り、稜線にはガスが掛かっていたが、鏡池に映る槍・穂高から出て来る太陽を暫し眺めていた。

 

 

 小池新道石畳の急峻な下り坂を下り、花の様子が変わって来た。ハクサンフウロ・シシウド・ゼンテイカ(日光キスゲ)・トリカブトなどが咲き乱れていた。

秩父沢に着いて顔を洗っていると、次から次へと下山して来て、水場付近は登山者達で一杯になった。左俣谷を渡ると、まだ雪渓があちらこちらに残り、雪崩の被害を受けた箇所を回り道して、緑滴るブナ林道を歩いてワサビ小屋に着いた。

 小屋脇で非常食を持ち寄って昼食を取った。その時沢水で冷やした

キュウリは格別に美味しかった。

 新穂高ロープウェイも見え、新穂高温泉バス停に着き、無事に下山した事を報告書に書いて提出した。

 バス停前にある無料温泉に入り、汗で汚れた身体を洗い流し疲れを癒した。

 関西方面へ帰る 関さん・永井さんを見送り、遅れて東京方面へ帰る、荒井さん・中林さん・山田さん・関谷はバスに乗り安房トンネルを走り抜けて松本へ向かった。

 

2006年9月1日 関谷 記