清水峠越え・国道291号線

                                   29W 関谷 記

昨年(2004)湯檜曽川新道を遡って蓬峠を越えた。白樺尾根を登り、高圧送電線鉄塔に着いた時、案内板を見ると巡視路反対側に国道291号と書いてある。何!この山道に国道があるとは……。

国道291号線は国道17号線月夜野より分岐して、水上町・土合駅前を通り、一ノ倉沢出合まで延びている。車はそこまででそれから先は清水峠越えの旧道である。一方新潟県側は清水峠を越えて、清水集落より少し手前より道路幅が広くなり、小出で国道17号線に合流する国道である。

一ノ倉沢出合より登山道(旧道)で、清水峠を越えて登沢本谷を回り込むようにある道が国道291号線として登録されている。また群馬県側には湯檜曽川沿いの新道と山側の旧道(国道)がある。一方清水峠より新潟県側への下り道は国道の他に、十五里尾根(謙信尾根)と登沢本谷へ直接下る道、井坪(居坪)コースがあり、現在は共に国道以外の道が利用されている。

資料によると群馬県側の国道は一ノ倉沢出合の舗装道路より先は、一般に言う旧道であるが、現在はガレていて通行困難な箇所がある。また新潟県側国道はヤブが多く歩行困難と記してあり、旧国道と書いてある本もあるが、旧国道でなく現在でも国道291号線である。登山道並みになっている部分は一般には点線国道と呼ばれているが、手入れは殆どされていないのが実状である。

さて、この道を歴的に見ると、1,060年“越後国之古図”に地名があるとか、三国峠は1,487年“北国紀行”に記してあると言うから、かなり古くから共に利用され、以前は清水峠越えの道の方が三国峠越えより利用されていた。

その後越後の上杉謙信(1,5301,578)が関東攻めの際、両峠越えの道を使用していたが、清水峠越えの方が、三国峠越えよりも距離が短いので利用されていたようであった。清水峠越えの場合、新潟・群馬の県境を越えるのには、十五里尾根(信玄尾根)、沢沿いの井坪(居坪)コースと最短道路である。しかし、武田信玄(1,5211,573)と戦うようになると、三国峠越えを使用する方が多くなり、清水峠越えの道は通行禁止にして見張りだけを設けていた。いずれにしても、上杉謙信は志水城・樺沢城と越後の前線基地として使用していた。上杉謙信と武田信玄は、川中島の戦(1,5531,564)で5回も戦った。上杉謙信の関東攻めとしては、1,554年三国峠を越えて猿ヶ京に攻め入ったこともあった。

江戸時代(1,6031,868)になると、三国峠は参勤交代として使用され、宿場として湯沢・三俣・二居・浅貝・猿ヶ京などが利用された。また明治時代になると官軍と会津藩とも戦った事もある。現在の三国峠越え国道17号線は第二次大戦後、輸送力の増強・電源開発などに伴って益々栄えて行った。

しかし、一方清水峠越えの道は上杉謙信時代、通行禁止してから殆ど通らなくなってしまった。明治時代に入ると三国峠越えの道と比較すると距離が短いので、明治6年(1,873)に道路計画され、明治14年(1,881)工事着工した。平均道路幅三間(5.4m)明治188月(1,885)総工費35万円、4年数ヶ月の工事期間を掛けて完成した。清水峠越え国道の開通式、明治1897日(1,885)、北白川宮能久親王・内務卿山県有朋・参議山田顕成等、馬車3台・人力車100輌・警官100人と盛大に挙行された。しかし、その後この清水峠越えの国道は、積雪多く雪崩による損壊も多く受けたので、工事責任者は自害したと言い伝えられている。明治18年(1,885)清水峠越えの道は国道になり、三国峠越えの道は県道に降格されてしまった。

その後鉄道開発も進み、昭和3年(1,928)高崎・水上間が開通した。大正8年(1,919)清水トンネルの測量着手、昭和6年(1,931)清水トンネルは完成して、昭和6年水上・湯沢間の鉄道開通に伴って、清水峠越えの国道は更に見捨てられてしまった。その為に山岳部分の道は国道291号線とは名ばかりで、点線国道として現在も残されている。

改めて国道291号線について、国土交通省に問合せすると、県の方に移管しているとの返事、結局は水上町役場に資料を求めた。