母親の心配 (29W関谷)
 私が大学生になった時、母親は私が山岳部に入部した事は知っていた。山岳部の合宿は春夏秋冬と上越国境の谷川岳附近で、JR土樽駅より沢に入り毛渡沢と仙之倉谷との合流点に学校の山小屋があった。
 入学時の歓迎登山は、五月のゴールデン・ウィークに始まる。ある夏の合宿の準備をしている時、各部員に共同装備を分配した時、私にはザイルが当った。そのザイルを家に持って帰り、合宿の準備していたら、母親がそのザイルを見付けてびっくりした。山に行っている事は知っていたが、こんなものを使って山登りをしているのかと……。
 上越国境谷川岳は、一つの山での遭難者数は世界一であり、その当時で何百人もが遭難死している。母親もその事実を知っているので、谷川岳には絶対に行かないでくれと言っていた。学校の山小屋は上越国境にあっても、直接谷川岳でないので、母親は気持ちの上では何か安心感を持っていたのだろうか。
 私達の合宿は、夏秋は沢登り、仙之倉谷東ゼンには谷川連峰の中で、滝の高さでは下段40メートル、上段20メートルと一、二を誇る大滝があり、西ゼンには知る人ぞ知る一枚スラブ岩が待っている。冬の合宿は、重いドカ雪の中、積雪が数メートルにもなり、山荘日誌の記録に依ると、JR土樽駅より山荘まで約5キロメートル、深い雪の中スキーを履いて、腰まで埋まるラッセルを強いられて約10時間、二階建の山小屋が埋まる程の雪が積っていた事があった。私達の学生時代には山小屋が埋るほどの雪はなかったが、それでもJR土樽駅から山小屋まで雪の中、スキーを履いてラッセルをして、三、四時間は掛っていた。
 春休みまだまだ雪深い山荘に行く時、雪が締まってザラメ雪の中を歩くのでラッセルはしなくてもよいが、春三月でも雪が降ると一晩で1m位積もる事があった。そうなると又スキーでラッセルを強いられることになる。スキーにシールを着装して沢を遡行して行き、吹雪に遇って途中から山荘に引き返す時登って来たスキーのシュプールが消されている事がざらにあった。
 私が卒業し就職して家を後にする時、母親には山に行くかも知れないが、道のない山即ち沢登り、ザイルを使って登るような事はしないと告げた。就職してから三、四年は会社の人達と山にはよく登ったが、前にも言った通り、登山道のある山だけを登っていた。
 ある夏に剣岳に登った。故郷に帰った時、母親はテレビのない時代なので恐らく映画で見たのだろうか、剣岳のカニの横這いを登っている登山者を見たのだろうと思う。母親が私を見るなり、あんな所を登るのじゃないよと言われた。私はその時既に登っていたので、その事について話をしたらびっくりしていた。母親は子供が山に行っている事がこんなにまで心配になるのかと思った。
 その母親も既に遠い人になってしまった。又ある時、知人の息子が某大学の山岳部に入部している話を聞きながら、親達は同じ心配を繰返し引継いでいるのだなあと思った。
 
 1991年6月1日 記
 2002年2月2日 修正