鶴ヶ鳥屋山・北尾根 (29W関谷) | |
月日 メンバー コース |
2001年11月23日(金)祝 早崎、木下、本間、西本、歳森、丸山、平塚、関谷 JR天王台(6:15)−(7:03)JR神田(7:04)−(8:13)JR高尾(8:21)−(9:25)JR笹子(9:30)− 分岐点(9:40)−No.46高圧鉄塔稜線(10:00)−(10:40)No.28高圧鉄塔(11:00)− (12:00)主稜線コブ(12:30)−(13:00)鶴ヶ鳥屋山(13:20)−林道(14:10)−恩629石標(14:25)− 丸田沢(15:30)−(16:15)JR初狩(16:47)−(17:44)JR高尾(17:58)−(18:52)JR神田 ホリデーパス\2,040 大月〜笹子\230 初狩〜大月\190 |
車窓より紅葉真っ盛りの高尾山系を眺め、JR笹子駅を下車。霜が降り、薄氷が張られた船橋沢への道を 登る。落葉樹もすっかり黄葉し、太陽を透かしての、紅棄は見事であった。 No46高圧鉄塔巡視路より、急峻な北尾根へ取り付く。稜線高圧鉄塔より先の廃道化した登山道は、先日 下見しているので安心して登れる。落葉樹の葉もすっかり落として冬支度をしていた。真っ青な空。初冬の 目差しが注ぐ、気持ちの良い山旅である。北尾根を登る前方に、太陽が輝き眩しい。 先発していた女性軍 に追い付き、No28高圧鉄塔に着く。雲一つない青空。目の前に滝子山が浮かんだように見える。すると空高 く、音もなく小さな銀翼の飛行機が、東から西へ飛んで行った。 林道を横切って、再び北尾根へ取り付き登り、主稜線よリコブに着いた途端、皆がワッと叫んだ。本社ヶ丸 奥に、きらきらと氷雪でクラストした富士山が姿を現した。遠くには南アルプス、雪を覆った塩見岳、右端に 甲斐駒ヶ岳、更に右に目をやると、八ヶ岳連峰の山々が見えた。風のない小春目和り、のんびりと昼食を楽 しんだ。 今日は、女性軍が私のために、鶴ヶ鳥屋山へ招待してくれた。先頭に立って、鶴ヶ鳥屋山へ向う縦走路 は、つい最近、手入れをした跡があり、小さな株は切払い、新しい赤いテープの目印も木に縛り付けてあっ た。落葉を踏みながら進むと、すぐ鶴ヶ鳥屋山山頂に着いた。頂上は、すっかり葉を落とした樹林帯であり、 樹木の間から漏れてくる太陽の光、近くの山々の景色がを見える。北側を見下ろせば、中央線沿線の町 並みを眺めることが出来る。 山頂を後に、北東尾根を下る。落葉で滑らないように、潅木に掴まりながら下る。急峻を一気に下った。黄 葉した樹木を眺め、落ちた葉を一枚一枚拾いながら下る。林道黒野田線を横切り、再び北東尾根へ登り返 すと、すぐ恩629石標に着いた。北東尾根と丸田沢との分岐点に、前回(10月20目)来たときになかった新し い指導標が建てられてあった。僅か一ヶ月間の間であるが、有難いことである。 落葉を踏み踏み下ると、丸田沢に出た。前回間違い易い個所を直し、ここにも指導標が新しく設けられてあ った。 風のない小春日和り、紅葉した山々を眺め、黄葉した樹木の下を通り、褐色になりかけてもまだ赤色の残 っている落葉を踏みながら下り、JR初狩駅に着いた。ホームに立った頃には、下弦の月が輝き始めていた。 2001年11月25日 記 |
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鶴ヶ鳥屋山からの富士山 (地図ソフト「カシミール」で作成 by 49S相川) | |
脚力 (29W関谷) | |
足は第二の心臓とも言われている。ある人と話をしていた時、サラリーマンは体力が絶対必要であると強 調する。出勤時には自宅から駅まで車で送って貰う。駅の階段はエスカレーターを利用する。会社ではエレ べーターを利用して体力の消耗を出来る限り節約して、会社に残りの全体力を注入する。と主張していた が、正論だと思う。又一方、体カキャパシティを高めるため、駅まで歩き、エスカレーターやエレベーターにも 乗らず、歩くことに努め、体力を増進させ、その上で会社の仕事に全力を注ぐように言っている人もいる。これ もまた正論であると思う。が、前者と後者では、目的は同じであっても手段が全く反対である。さてゝどちら が正論なのだろうか。 よく聞く話ではあるが、病院のべットに寝ていると体力の衰えは日増しに増え、長く寝ていると階段はおろ か歩く事すら困難になってくる。話によると、体力の回復には、ベットで寝ていた日数の約三倍の日数を要し て、やっと街中を人並みに歩くことが可能になり、山登りには更に二倍の日数が必要であると言われてい る。勿論歩行トレーニングを積重ねての結果ではあるが。 私の場合、目を患って一ヶ月半入院生活を余儀なくさせられた。入院中は同じフロアーを歩いたこともあっ たが、退院後は家から駅まで、店までと出来るだけ歩く事にした。医師からは、再発防止のために一年間 は山行き禁止と告げられていたが、検査のため病院へ行った時、医師に山へ行っても良いかと尋ねたり、 お願いをしたりした。背負う荷物を出来るだけ少なくしての注意事項を受けて、やっと山行きの許可が出た のは、退院九ヶ月後であった。 まず高尾山を選ぴ、片道一時間程の稲荷山コースを歩き、高尾山山頂までとしてその日は下山したが、久 し振りに快適であった。何回か高尾山山頂までの往復を繰返しながら、次に城山・景信山までと距離を延ば して、やっと満足に歩けるようになるまでには、一年以上掛かったような気がした。 脚力を付けるために、歩く・走る・泳ぐの三種類が基本運動であるが、走るのを一番早く中止した。誰でも 走ることにより膝が早く痛み出すからである。残りは歩く・泳ぐの二種類になるが、講釈は出来ても継続実行 することは生易しい事ではない。 脚力は加齢に伴って弱って来る。昔の山仲間と話をしていると、皆が弱ったと言う。まず荷物が背負えなく なってくる。かつて20kgを背負って、何週間も山道を歩き続けることが出来たが、背負う重量がどんどん少なくなってきた。退職直後は18kgを背負って、北アルプスを約三週問歩いたことがあったが、年を取るに従っ て、リュックサックの重量が段々と増えてくるのが分かった。こんな話を山友達としていたら寂しい会話にな ってしまった。 その後私は交通事故に遭って、右足を骨折してしまった、歩く機能を失うと脚力どころの話ではない。歩行 不能になってしまった。脚力を増進させるための努力が、如何に大切であるかを身を持って感じさせられた 次第である。 2000年7月15日 記 2001年11月14日 修正 |
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機関車 (29W関谷) | |
登山クラブ・ハイキングクラブ等、沢山のグループがあるが、非常に高度の熟練を必要とする団体から、たゞ歩くだ けの団体までさまざまである。中には何百人と多人数の団体まである。各団体では月間・年問のスケジュールを立案 し、メンバーは、時期・場所・難易度・リーダー名が書かれた予定表を見て参加申込みをする。 会を企画・運営する人達は実行しなければならないから大変であるが、大部分の人達は予定表を見て参加するだ けの事であるから、そのリーダーとしては顔を知らない参加者もいるくらいである。時には何十人いや百人を越えるこ ともしばしぱあるらしい。参加者は予備知識もなく、地図をも持たず又読むことすらも出来ない。参加者はたゞ当日出 発場所に集合して、脇見もせずに前の人の足元を見ながら歩くだけである。リーダーが機関車で、後に付いて歩い て登る人達はまるで客車である。ある人が言っていたが、客車でなくあれは貨車だよ、又ある人は金魚のフンだと言 っていた。 ある人から聞いた話であるが、日光のある山へ登った時、何と約三百人が登ったとか、長いフンがぶら下っている。 又何百輌の貨車が連結されて走っている。こうなると強力なエンジンを持った機関車が必要となるが、本来は電車型 登山にすべきであると考える。電車は各車両ともエンジンを持っているから一両でも走ることが出来るし、三、四輌連 結しても走ることが出来、実際の登山はこれでなければいけないと思う。登山・ハイキングをする時は、心の良く通じ 合った人達四人位までで行動するのが最適と思う。 機関車型で貨車何十輌と連結して走っている時、一輌乃至三、四輌の電車が追越しする場合、貨車は線路を占有 してしまって、追越することが不可能になる。登山道は追越禁止区域なのだろうか。又多人数の登山客が山頂に着く と、所狭しと弁当を広げて、本日は貸切でございますと言わぬばかりに居座ってしまうグループもある。貨車に相当 する人達は、早くエンジンを取付けて電車型に改良して楽しんだ方が良いと考える次第である。 2000年6月28日 記 2001年11月14日 修正 |