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真田丸


 2016年のNHK大河ドラマ真田丸。
群馬県も関係していることもあって、私は毎週見ていた。大河ドラマを第一回から見たのは、本作がはじめてである。

真田丸とは、大坂冬の陣(1614年)の時、大坂方として参戦した真田信繁(幸村 1567〜1615)が大坂城の南に築いた砦を指す。信繁が大坂城に入った経緯は複雑なので割愛するが、当初大坂側には信繁の入城を疑う人もいた。なぜなら信繁の兄信幸(信之1566〜1658)と、叔父信伊(のぶただ、父昌幸の弟1547〜1632)は徳川方だったから。

思案した信繁は、大坂城の南面の防禦が弱いことに気づき、そこに砦を作って自ら守ることを提案し了承を得た。やがて誰がいうともなく、この砦は「真田丸」と呼ばれるようになる。
真田丸がどこに築かれたのか、はっきりした場所は不明だが、大坂城本丸の南南東1.6kmの地にある三光神社には真田信繁像がある(下左)。
またそこから東へ200mのところにある心眼寺には出丸跡の碑(下右)があるので、このあたりと考えられている。

真田信繁像(三光神社) 出丸跡(心眼寺)

 この砦を中心に信繁は、大坂冬の陣で圧倒的兵力の徳川方を相手に善戦し、徳川方を大いに悩ませた。
しかし半年後の夏の陣で信繁は、一時は家康を討ち取る寸前まで追い詰めるものの多勢に無勢。ついには力尽きて戦死してしまう。
その様子は薩摩の島津氏をして、「真田は日本一の兵(つわもの)、古よりの物語にもこれなき由」と讃えられた。真田の強さは日本一。古くから伝わる話にも、これほどのものはない、という意味である。

では、これほどの戦いぶりを見せた真田氏とは、どんな一族だったのか。

■真田氏

 かつて長野県小県郡に、滋野(しげの)という村があった。現在この村はなく、長野県東御市滋野、小諸市滋野がそれにあたる。真田氏はこの地の豪族、滋野氏の一族である。
とにかく古い家系である。古いだけに滋野氏の遠祖は定かではなく、平安時代中期、将門の乱で将門との戦いに敗れ、信濃路を京へ上る平貞盛(清盛の祖先)を助けた(938年)という記録があるらしい。

滋野氏にはいくつかの支族があるが、その中で望月、根津、海野を滋野三家といい、この海野氏の支族(本家から分かれた分家筋)が真田氏の祖先となる。
海野氏は、源平争乱期の資料にも登場し、保元の乱(1157年)の時、海野幸親(1142〜1184)は300騎を率いて源義朝に味方したという。この時代、信濃国で300騎もの軍勢を率いた豪族が存在したかどうか、疑問も残るが幸親は木曽義仲の挙兵にも馳せ参じ、義仲とともに討死した。
詳細は不明だが、真田氏は海野幸親の子孫の棟綱(むねつな 生没年不明)の子、幸隆(ゆきたか 1513〜1574)が、小県郡真田郷で真田氏を称したのにはじまるらしい。


■真田幸隆

 天文10年(1541年)、甲斐の武田信虎(信玄の父)と、信濃の豪族村上義清・諏訪頼重の連合軍は、信濃の小県に侵攻。
これに対し真田幸隆は、滋野三家とともに戦ったが破れ、上州箕輪城の長野業正(1491〜1561)を頼って落ちのびた。後年、村上義清は武田信玄との争いに敗れ越後の上杉謙信のもとに逃れ、これがやがて川中島の合戦に発展していく。

話は飛躍するが、当時は明治以降の旧日本軍将兵とは異なり、戦いに敗れても自害せず敵将に仕えたり、他国へ落ちて有力大名の庇護を受けることもめずらしくはなかった。
しかし幸隆が何年箕輪にいたのかは不明だが、生国を落ちて来たくらいだから無念の思いもあったろう。長野家の家臣の中には、居候生活をする幸隆をからかう人もいたろうから、あまり居心地は良くなかっただろう。 

真田幸隆 箕輪城本丸跡

 やがて甲斐では、信虎に代わって信玄が領主となり、幸隆は武田家に仕官が決まり、甲斐に移っている。この時の経緯もなかなか面白いのだが、それはまたの機会に。
武田家の武将となった幸隆は、幾多の戦いで戦功を立てること無数。屈指の名将として知られるようになる。39歳の時、幸隆は信玄とともに剃髪(ていはつ。頭をまるめて僧形となること)し、一徳斎(いっとくさい)と称した。

永禄6年(1563年)、幸隆は信玄の命で上州に侵攻し、岩櫃城(東吾妻町)を落した。
岩櫃城は鎌倉時代、この地の豪族だった吾妻太郎(生没年不明)によって築かれたとも、あるいは15世紀はじめ、斎藤憲行という武将が築いたともいわれるが、詳細は不明である。しかし戦国時代、この城が斎藤氏の城であったことは間違いなく、落城後は沼田城とともに真田氏の上州経営の中心的な城となった。

岩櫃山(岩櫃城は右の中腹)

岩櫃城本丸跡 嵩山城跡

 岩櫃城から北東約7Kmのところにある嵩山(たけやま)には、当時斎藤氏の一族、斎藤城虎丸が守る嵩山城があった。
岩櫃城を落した幸隆は、永禄8年(1565年)、嵩山城に向かう。数度の戦いの結果、城は落ち、城虎丸は大天狗(嵩山にある岩山の一つ)から身を投げて自害した。
それにしても、城虎丸(じょうこまる)とは妙な名前である。
・・・丸とは、元服前の童子につける名前だからだが、城虎丸はこの時18歳。当時のこととして、元服していなかったとは思えない。

嵩山は、元々は祖霊を祀る山として、近隣の信仰を集めていた。現在は「霊山たけやま」として知られ、毎年5月5日には、岩山から麓にかけてロープが張られ、100匹以上の鯉のぼりが泳ぐ。ついでにいうと、麓にある「道の駅たけやま」の蕎麦は大変美味しい。

■真田昌幸

 幸隆に数子あって長男を信綱、二男を昌輝、三男を昌幸、四男を信伊という。
こういう名付け方もめずらしいのではないか。日本では、父の名前の一部を子につけるのが普通である、織田信長の父は信秀、子は信忠、信雄、信孝がいる。真田幸隆の子で隆の字のついた子はいない。幸がつくのは昌幸だけである。

武田勝頼 真田昌幸 潜龍院跡

 昌幸は、武田信玄の命で信濃の名家だった武藤氏の養子となり武藤昌幸と称していたが、兄の信綱と昌輝が長篠の合戦(1575年)で戦死したため真田家に戻り、真田昌幸として家を継ぐことになる。この時、昌幸28歳。

武田信玄の死後、後を継いだ勝頼が織田信長に追い詰められた時、昌幸は勝頼に、甲斐を逃れ岩櫃城に避難するよう進言した。勝頼もこれを了承したため、昌幸は勝頼を迎えるにあたり、岩櫃城の近くに館を急造した。この館を潜龍院といい、石垣などの跡が今も残っている。しかし結局勝頼は上州へは来ず、織田勢に追いつめられ、武田家は滅んでしまう(1582年)。

武田家滅亡後、昌幸は短期間のうちに、仕える相手を上杉・北条・徳川と目まぐるしく変えていった。強国(上杉・北条・徳川)に囲まれた小大名の悲しさでもあるが、どう考えても信義の人とはいえない。
しかし武将としては一流だった。昌幸の裏切りを知り、怒って攻め寄せる徳川の大軍に昌幸は、わずかな兵力で壊滅的打撃を与えている(第一次上田合戦 1585年)。

 関が原の合戦の直前、真田家は二分し、昌幸と信繁は豊臣方に、信幸は徳川方にしたがうことになり、信濃国上田城に籠城した。徳川家康は、江戸から関が原に向かうのにあたり軍を分け、一方は自ら率いて東海道を。他方は嫡男の秀忠(二代将軍)が率いて中山道を進んだ。

信濃に入れば中山道の途中には、昌幸・信繁親子が籠城する上田城がある。
この時も、昌幸・信繁は2000の兵で38000の徳川軍を相手に巧妙な戦いを展開し、進行を食い止めること4日間。徳川秀忠はついには関が原の戦いには間に合わず、戦後家康から罵倒されることになる。(第二次上田合戦 1600年)

徳川の大軍を二度も打ち破ったことで、昌幸の名は天下に轟いた。しかし関が原の戦いは徳川家康の勝利となり、敵対した昌幸は、処刑されるところを信幸の必死の懇願でかろうじて助命された。保元の乱(1156年)の後、自ら父為義を処刑した源義朝(頼朝の父)とは正反対で、信幸を讃える人が多かったという。その後昌幸と信繁は、高野山、ついで九度山(和歌山県)に幽閉された。

やがて豊臣家と徳川家は敵対関係となり、1611年、昌幸は老死したが、死の直前昌幸は「あと数年、生きていられたら、豊臣秀頼に天下をとらせてやれたのに」と呟いたという。
それを聞いていた信繁が、その方法を問うと

汝のおよぶところにあらず

つまり、そなた(信繁のこと)では無理だというのである。つづけて昌幸がいうには、

そなたの名は、天下に知られていない。我が作戦を大坂方に献策しても、用いられないだろう

 当時、昌幸は天下の名将として知られていたが、信繁はまったくの無名だった。
だから同じ作戦でも、昌幸のような「有名人」と、信繁のような「無名の人」とでは、世の人の受け止め方は異なるということだ。たとえば同じことを主張しても、有名人は無名の人のそれより高く評価されるということで、人の心は、昔も今も変わらない。

■真田信繁

 大坂夏の陣で信繁は戦死した。しかしその前夜、信繁は娘の梅を敵将伊達政宗の重臣、片倉重長(1585〜1659)の元に送り、保護を求めたのだ。自分(信繁)は戦死するつもりだが、娘は伊達家で預かってほしい、というのである。

これは信繁はもちろん。伊達家にとっても危険な賭けだった。
娘はすぐに殺されるかもしれないし、伊達政宗にすれば、無用な誤解をさけるためにも断る方が無難だったのだから。しかし、頼って来た者は断れない・・・当時の武将の心意気というものだっただろう。信繁も、伊達政宗なら、と考えただろう。伊達正宗は梅の保護を快諾し、後に彼女は片倉重長の妻となった。
信繁の長男幸昌(真田大助)、この時わずか14歳は、豊臣秀頼に殉じたが、二男の守信は、戦後姉を頼って仙台に行き、伊達家の家臣となった。仙台真田家の祖である。

■真田信幸(信之)

 関が原の戦いの後、信幸は上田と沼田の所領を安堵され、上田38000石、沼田27000石の大名となったが、1622年、松代藩主ともなり、松代と沼田を領有することになった。ここに明治まで続く真田家の基礎が作られた(ただし後述のように沼田真田氏は改易され、松代真田氏も養子縁組がかさなたため、真田家の現当主には信之との血のつながりはない)

江戸時代になると、信幸は名前の幸が父昌幸と同じ幸の字であることを幕府に気づかって、信之と改名した(父の昌幸は反徳川だったから)。これは小心というより「細心の注意」というべきで、当時の大名に共通することだった。

信之の妻は、家康の重臣本多忠勝の娘、稲姫(小松姫 1573〜1620)である。
結婚のキッカケは、第一次上田合戦での信幸の戦いぶりが本多忠勝に気に入られたとも、真田家を味方にすべく、徳川家康が考えたともいわれている。

 婚儀の申し入れがあったとき、父の昌幸は激怒したと伝えられている。
昌幸にすれば、小とはいえ真田家は「大名」で、本多家は徳川家という大名の「家臣」だから、家の「格」がちがうというのである。
困った家康が豊臣秀吉に相談すると、姫を家康の養女として結婚させたらどうか、と秀吉はいった。そのとおりにすると、はたして昌幸は、今度は喜んで姫を迎え入れた。これで形式上は、真田家と徳川家は姻戚となった。
この二人。夫婦仲は大変よく、彼女が47歳という若さで亡くなると、信之は「我家の灯火が消えた」と嘆いたと伝えられる。

 ところで沼田藩は独立した藩ではなく、松代藩の分地だった。
信之の死後、松代藩主の座をめぐる相続争いに敗れ、沼田藩主になった真田信利(信之の孫、信直ともいう 1635〜1688)は、その不満から松代藩に対抗すべく、沼田城や江戸屋敷を不必要なまでに豪奢に改装するため、領民に重税を課すようになる。

この暴政に苦しむ領民を救うべく、一人の義人が立ち上がった。杉木茂左衛門(1634〜1686)という。この結果、杉木茂左衛門は死罪となったが、沼田藩は統治不行き届きとして改易されることになった。

群馬県には、「上毛カルタ」という「ご当地カルタ」がある。戦後まもなく作られたもので、群馬県の歴史や産業をわかりやすくカルタにしたものである。ここで杉木茂左衛門は「天下の義人茂左衛門」として紹介されている。


■最後に

 戦国時代、信濃国には強大な戦国大名は出ず、各地に小豪族が割拠する状態で、他国(武田、上杉、北条など)の侵略を受けやすく、この点上州と同じである。
彼等小豪族は利害関係に敏感で、小規模な戦闘にあけくれ、保身のため、生き抜くために智恵をしぼり、仕える相手を次々に変えている。このため小智恵には長けても、信長・秀吉・家康のような武将、政治家としてのスケールの大きさはない。

真田昌幸は、そうした小豪族の代表ともいえる人で、陰謀に陰謀を重ね、武田家滅亡後は上杉、北条、徳川と仕える相手を次々に変えていった。当時の小豪族としては、やむを得ないことだったが無節操といえば無節操。決して信義に厚い人物ではなかったし、武田信玄や上杉謙信のような大器でもなかったと思われる。

この点信繁は父のような陰謀家ではなく、その生涯は当時の武将としてはめずらしく清廉だった。大坂冬の陣の後、信繁の力量を認めた徳川家康は、信繁を味方にすべく叔父の真田信伊を遣わして説得するが、信繁は鄭重に断っている。真田信伊は後に幕府の旗本になったが、信繁は大坂に入城したときから、豊臣の滅亡と自分の死を予想していたにちがいない。

清廉であること、名将であること、時局を心得ていたこと。私は、楠木正成を連想する。
信繁は、一般には幸村の名前で知られるが、この名前は当時の資料には残っておらず、江戸時代になってようやく書物に登場する。なぜ信繁が幸村になったのかは不明である。
また小説やドラマでは「真田十勇士」として、信繁を補佐する10人の家臣が描かれている。特に有名なのは猿飛佐助と霧隠才蔵だが、これは明治から大正時代にかけてブームを呼んだ「立川文庫(たつかわぶんこ)」に登場する人物で、創作された架空の人物であることはいうまでもない。


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