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名前と苗字


 2015年、高崎山で生まれた猿に、英国で誕生した王女にちなみ「シャーロット」と名付けたところ、園に「サルに王女の名前を付けるとは英国に失礼だ」などと、抗議が殺到したのは記憶に新しいところである。高崎山側は一時撤回を表明したが、英国王室の「気にしません」とのメッセージで、そのまま当初のシャーロットに落ち着いた。
私は、非常に興味深く(面白半分?)、このニュースを聞いていた。

 話は変わって軍艦の名前だが、アメリカ海軍の空母ニミッツは、太平洋戦争当時のアメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ(1885〜1966)の名前が使われている。
これに対して日本では軍艦に限らず、人名を冠した船舶は存在しない。
というのも明治時代、軍艦に興味があった明治天皇が、軍艦の命名方法について下問したところ、外国では偉人の名前から命名することがあるとの答えに難色を示したかららしい。
以後日本では、船舶に人名を使わないのが慣例となった。

 1982年、防衛庁(当時)が砕氷艦の艦船名を公募したところ、南極探検で有名な白瀬中尉に因む「しらせ」が有力になったが、日本では船舶に人名は使用できない。そこで防衛庁は「しらせ」の名前を採用するにあたり、昭和基地近くの地名である「白瀬氷河(白瀬中尉に因む地名)」に由来することとし、人名を船舶名には採用できないという問題をクリアした。

なんともバカバカしい話である。
それにしても、なぜ日本人は、名前に拘るのか。

■名前

 普段私たちは人を呼ぶとき、その人の名字(苗字)で呼ぶ。
私の場合、下の名前で呼ぶのは、両親や親戚。あるいは幼馴染みの友だちか結婚前の妻くらいなもので、その範囲はかなり限定される。子供のころ、テレビで見たアメリカのドラマで、登場人物が名前で呼び合っているのを不思議に思ったものだった。

日本人には、人をその名前で呼び合う習慣はほとんどない、といっても差し支えないだろう。
集団の中、例えば勤務先で私が特定の女子社員と「A男」とか「A子」とか、名前で呼び合ったら周囲の人は何と思うか、大体想像はつく。この二人、そういう中なのか・・・と。
ではなぜ私たちは、名前で呼び合わないのか。

日本人にとって、名前は特別な意味を持つ。現代でもそうなのだから、昔は相当のものだった。
特に古代の人は、名前とは単に自分と他人を区別するための符号ではなく、そこにはその人の全人格・魂が込められているとして、軽々しく口にしてはならないと考えた。
例えば、男が女に名前を尋ねるということはプロポーズであり、女がそれに応えて名前を教えるのは、それを受け入れるということだった。

 時代が下っても、名前には特別な意味があった。中世以前の女性の名前は、現在ほとんど伝わっていない。北条政子の政子は本名だが卑弥呼、小野小町、紫式部、清少納言等は本名ではない。女性の場合家族以外は、使用人でも名前を知らないのが普通で、使用人が姫君を呼ぶときは、長女なら一の姫様、次女なら二の姫様と呼んだだろう。
男性でも、たとえば源義経は、生前他人から「ヨシツネ」と呼ばれたことはなかったし、織田信長のことを家臣が「信長様」と呼ぶのは、映画やテレビドラマは別として、実際にはなかった。

では源義経や織田信長は、他の人からはなんと呼ばれていたのか。

 源義経は九郎とか、判官(はんがん)と呼ばれていた。織田信長は家臣や領民からは「お館さま」と呼ばれたはずである。足利将軍からは「上総介(かずさのすけ)」と呼ばれただろう。
ここで九郎は「通称」であり、判官や上総介とは「官職」である。
官職とは朝廷における役職のことで、おなじみの官職といえば、吉良上野介の上野介や大岡越前の越前(越前守)がそれにあたる。
では義経とは何なのかといえば、これは本名であり、諱(いみな)、あるいは真名(まな)ともいう。

義経に限らず、ある程度以上の身分の人は、生前諱で呼ばれることはなかった。諱は「忌み名」とも書くが、そのとおり、忌むべきものだったのだ。そして、その人の死後、はじめて故人を諱で呼ぶことができた。これは織田信長でも同じである。

しかし本名を呼べないのは大変不便だから、そのために「通称」というものがあった。
一つ例をあげれば、テレビドラマでおなじみ、遠山の金さんの本名は、遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと)という。テレビドラマでは、最後に金さんがお白州に登場する時、「遠山左衛門尉様、ご出挫〜」と係の者が呼ぶ。
ここで左衛門尉は官職、金四郎が通称であり、景元が諱である。金さんは、他の人からは遠山、あるいは金四郎、または左衛門尉と呼ばれていた。
庶民は、お奉行様と呼んだだろう。
このように通称と諱を使い分けるなど、実に面倒なことだ。そこで明治政府は、通称と諱のどちらか片方を正式な名前として使うように法令で定め、ここで名前は統一され、一つになった。

 このような諱や通称は、なにも日本だけのことではない。
古代中国では通称のことを、字(あざな)といった。例えば、三国志でおなじみの諸葛孔明は、正式には諸葛亮孔明といい、諸葛が名字で亮が諱。孔明が字になる。孔明の主君の劉備は、劉が名字で備が諱。字は玄徳といった。
古代では人の名を呼ぶことをタブーとするのは日本だけではなく、世界各地にあった。イギリスの社会人類学者フレイザーの著書「金枝篇」によれば、王の名を口にすると殺される部族もあったという。

 


 さて通称は仮名ともいう。読んで字のとおり、仮の名前である。この場合、「かな」ではなくて「けみょう」と読む。
男子の通称として太郎、次郎(二郎)、三郎・・は一般的に使われた。これは生まれた順であり、同時に兄弟間の序列でもあった。
太郎、次郎の前に姓をつけることもある。
源太郎とは「源氏の長男」、平次(平ニ)は「平家の次男」の意味がある。

 名前は単に呼び合う、呼び合わないだけのことではなく、権力者は自分の名前を、文書に使わせないようにもした。日本では8世紀半ば。天皇や藤原氏は、自分の名前を使うことを禁じた。当時の最高権力者だった藤原不比等は、不とか比、等という文字を使うことを禁じたのだ。。
権力者自身の名前ではないが、生類哀れみの令で知られる五代将軍徳川綱吉は、娘の鶴姫を溺愛するあまり、鶴の字や家紋として使うのを禁止した。
このため人形浄瑠璃で知られる井原西鶴は、西鵬と改名した。この法令は綱吉の死後廃止され、井原西鵬は西鶴に戻っている。

一方中国・清朝の四代皇帝雍正帝(ようせいてい 在位1723〜1735)は、思想統制の一環として文章を厳しく検閲し、自分に批判的なもの一切を禁止た。
ここまでは良くあることだが、科挙(かきょエリート官僚の選抜制度)の試験問題に「維民所止」という一節があったことで、その出題者を反逆罪で処刑してしまった。維の頭に亠をつければ雍、止の頭に一をつければ正になる。
これは雍正の頭を切り落とそうとしているのだといい、さらに維民所止は維と止を切り離している。ということは雍正帝の胴体を二つに引き裂くことだ、いうのである。徳川家康の国家安康、君臣豊楽と同じで、なんとも凄まじい言いがかりである。

■名字
 日本は名前とともに名字もまた多いことで知られ、現在約27万あるらしいが、世界で一番名字の多い国はアメリカで、150万といわれていまる。多民族国家というのはそういうものなのだろう。

さて、日本人の名字の由来は所属、地名、地形・地勢、職業等に分類される。

●所属
 「平」、「源」などは名字ではなく「姓」という。現在では姓名というように姓=名字だが、近代以前は姓と名字は別のものだった。
簡単にいえば「姓」は一族の名称を表すもので、通常天皇から賜るものである。「平」とか「源」は、それぞれ平清盛、源頼朝がおなじみで、それぞれ「たいらのきよもり」、「みなもとのよりとも」と読む。この場合「の」が重要で、これには平氏や源氏の一族に属するという意味がある。

●加藤さんと佐藤さん
 姓に対して名字とは、そのとおり字(あざ)の名前である。字とは、ある地域の比較的狭い範囲の地名を表し、現在でも○○町大字□□小字△△という地域がある。
源氏の武将源義国(1082〜1155)の長男義重は、上野国新田荘(現 群馬県太田市)、二男義康は足利荘(現 栃木県足利市)で、それぞれ新田氏、足利氏を称した。新田義貞、足利尊氏の祖先である。

新田義貞は「にったよしさだ」であって、「にったのよしさだ」ではない。
新田義貞は、姓は源、名字は新田。通称は小太郎といい、正式な(公的な)名前は新田小太郎源義貞となります。面倒なことだ。
一方で、原氏の一族で賀の国(石川県)にいるので加藤とか、野荘(栃木県佐野市)で佐藤を称したりしてする。

 逆に人名が地名になることもある。支配者が変わったことを、人民に通達する意味を込めたりする。
一例をあげればエジプトのアレクサンドリアは、マケドニアのアレクサンダー大王(前356〜前323)の支配に由来する。
日本では藤原京、間宮海峡、八重洲などがある。藤原京(奈良県橿原市)は694年、持統天皇のときここに遷都した。支配者である天皇ではなく、臣下(藤原氏)の名をつけたのは、天皇の名のタブーを避けるためだったかもしれない。

 間宮海峡は、それを発見した江戸時代の探検家間宮林蔵(1780〜1844)から名付けられた。
東京都中央区にある八重洲(やえす)は、江戸時代初期、ここに住んで幕府の外交顧問、通訳を務めたオランダ人ヤン・ヨーステン(1556〜1623)に由来する。
なお東京の有楽町は、やはり江戸時代初期にここに住んだ織田有楽斎(織田長益 信長の弟。1547〜1622)に由来するという説があるが、これは間違い。織田有楽斎が江戸に住んだという記録はない。

●地形・地勢
 これに由来するのは田、村、山、野、林、森、川、池・・・非常に多い。前後に大中小をつけて大田、大村、中村、中山、小山、大森、中森、小池とバリエーションは豊富だ。

●職業
 古代、○○部(べ)とは、その職業に従事する人(集団)をいう。一例をあげれば服部(はっとり、羽鳥)で、主に衣服を作る人(集団)である。
また斉藤とは、原氏の一族が、伊勢神宮の「宮頭(さいぐうのかみ・・伊勢神宮に奉仕する皇女の世話係の長官)になったことに由来する。斎宮頭の藤原という意味である。

●出身地
 古代中国の秦。あの秦の始皇帝の秦。
その滅亡後、日本に移住した遺民は秦(はた)と称したという。羽田、八田、波多なども同じ。しかしハタとは、前記の職業に由来するのと同じで、機(はた)を織る職業に従事したともいう。
また高句麗(こうくり)とは古代朝鮮にあった国ですが、滅亡後日本に来た遺民は、「こうくり」が小暮・木暮と変化して名字になったとか。

古代、大陸からの渡来人は胡(えびす)といわれましたが、彼等が住みついた地域から多胡(田子)という名字ができた。群馬県高崎市の南に多胡という所があって、事実古代には渡来人が多かったという。高崎市吉井町には「多胡碑」といって、内容は711年、上野国に新たに「多胡郡」を設置するという内容である。
また前橋市の東にある大胡も渡来人が多かったのだろう。大胡は「たご」とも読める。

多胡碑(国特別史跡)

 

●平家の子孫?
 平家が壇ノ浦で滅びた後、地方に落ちのびた一門は、おおっぴらに「平氏」を名乗れなかった。
そこで彼らは、仲間内でわかる暗号を考えたといわれる。
平という字の、上の―を下に下ろせば、半という字になる。平→半 である。だから半沢さん、半田さん。人偏をつけて伴とか伴野(友野)さんは、平家の末裔かもしれない。

●外国では
 古代ではどんな民族も、狭い地域で集落を作っていた。その集落の中で同じ名字の人、たとえばジョンという名字が多くなると、区別するために「ジョンの息子」という意味でジョンソン(John-son)、「サムの息子」という意味でサムソンという名字が生れた。またワシントン(Washingiton)といえば、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンが有名だが、これは洗濯の町(Wash Town)が訛ったものだ。

 フィンランド人で○○ネンというのは、○○の出身という意味がある。スキーのジャンプ競技で有名なニッカネンは、ニッカという土地の出身者、同様にレオナルド・ダ・ビンチは「ビンチ村のレオナルド」という意味になる。ドイツでは圧倒的に職業に由来する名字が多いらしい。ミューラー(Muller 粉引屋)、シュミット(Schmidt 鍛冶屋)、シュナイダー(Schneider仕立屋)などがある。中国では毛沢東、周恩来のように名字は一文字で名前は二文字が多い。
しかし古代では、一文字の名前が普通だった。三国志でいえば曹操、劉備、孫権。曹操(そうそう)は曹が名字、操が名前(字は孟徳)になる。
中国では昔も今も二文字の名字は稀といっていい。その稀な例が、諸葛孔明だろう。台湾の歌手、欧陽菲菲も二文字だ。映画ラストエンペラーで知られる愛新覚羅氏のように、四文字姓もある。

 韓国では名字の種類は約270と少なく、朴、李、金などがよく知られている。中でも金が多く、全体の20%となるらしい。
ここで不思議なのが古代朝鮮の人名だ。
663年、白村江の戦いで日本の遠征軍は唐と新羅の連合軍の前に壊滅した。日本にとってこの戦いは、当時日本と密接な関係のあった百済を、新羅の脅威から救うための戦いだった。

当時百済の王族の一人に鬼室福信(きしつふくしん)という人がいた。その一族に鬼室集斯(きしつ しゅうし)という人もいる。
この二人だけではなく、日本書紀に記された古代朝鮮の人名には憶礼福留(おくらいふくる)、前部能婁(ぜんほうのうる)、谷那晋首(こくなしんす)など二文字姓であり、朴、李、金のように一文字姓はない。

これはどういうことなのか。

新羅王の金春秋(武烈王 在位654〜661)は、中国(当時は唐)の援助を得て白村江で日本軍を破った。金春秋の死後668年、新羅が高句麗を滅ぼし朝鮮を統一したのも、唐の援助によるものといっていい。
いわば新羅にとって、唐は大恩人である。
古代朝鮮は単に軍事上だけではなく、儒教をはじめとし、思想や文化面でも絶大な影響を受けたの。
詳細は略すが、その影響は、後年名君世宗(1397〜1450)がハングルを考案したとき、臣下から受けた批判を見ればわかる。

ここで私は、一つの想像をする。古代のある時期、朝鮮人は中国に追従するあまり、自らの意思で伝統的な名字名前を棄てて、中国風の名前に切り替えたのではないか、と。
そうだとしたら、これは(苗字が少ない、また、文字数は一文字)創氏改名の古代版ではないだろうか?

■名字と名前の順
 日本人が自分の名前をローマ字で書くとき、Yamada Taro(山田太郎)ではなく、Taro Yamada というように、名前と名字を逆にする人がいるし、テレビや映画でもしばしば見受けられる。
私には、それがどうしても馴染めない。

名前を名字・名前の順で書くのが日本の習慣であり、文化だからです。私、山田太郎は八木登はYamada Taro であって、Taro Yamada ではない。
会社員時代、私は書類にローマ字でサインする時も Yamada Taro と書きました。Taro Yamada と書くのは軽薄な気がするし、欧米に媚びるように思えるの。
私は日本人として、日本の伝統文化や習慣を自ら破壊することはできない・・といえば大げさになるが、半ば本気でそう思っている。


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