Index   ティータイム

安曇族


■アズミ

 弥生時代のころ、北九州の福岡市周辺にアズミという氏族がいた。アズミは安曇、阿曇などと書く(以下、安曇とする)。

 安曇は、海の民である。
当時北九州には、大陸から渡って来た人たちが大勢いたという。
主に海上を活動の拠点とする人たちで、その中心が安曇氏だが、他にも宗像氏、海部氏、住吉氏などの氏族が知られている。
6世紀の中ごろ、この安曇族は全国各地に散らばった。
理由はわからない。しかし移動先には、地名としての「痕跡」が残っているらしい。

長野県の安曇野はその代表だが、他には字は異なるが、渥美半島、熱海、阿積、安曇、厚見、厚海などがある。滋賀県には安曇川(あどがわ)という川が流れているし、それに由来とする安曇町という町もある。ただし地名との関係は、「そういう説もある」ということで、厳密なものではない。

私は数年前、安曇野の穂高神社を訪れたときから、安曇族に興味をもつようになった。
以下、安曇族について私見を述べる。


■わたつみ

 下の系図は、長野県安曇野市にある穂高神社のパンフレットの一部である。これによれば、伊邪那岐−綿津見(わたつみ)−穂高見(ほたかみ)というラインがあり(系図の赤い丸)、この穂高見が安曇族の遠祖であり、また穂高神社の主祭神でもある。

 日本神話では、伊邪那岐(いざなぎ)は妻の伊邪那美(いざなみ)と共に、この世のあらゆるもの・・・国土はもとより自然に関する神々、生産に関する神々など・・を産んだことになっている。二人の間には最初に大綿津見という神が生まれたが、これは、この系図の綿津見のことではない。

ここでいう綿津見とは、伊邪那美の死後黄泉(よみ)の国から帰った伊邪那岐が、禊(みそぎ)をした後生まれた、上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神の三神をまとめた神を指している。

この神話や系図が古事記や日本書紀の創作であることはいうまでもない。
綿津見は日本古来の神ではなく、もちろん伊邪那岐、伊邪那美夫妻の子でもなく、海を渡って来た渡来人と考えられるからだ。

 では綿津見(わたつみ)とはナニモノなのか。
はるかな昔。福岡県の博多湾周辺に「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族がいた。後漢書にもあるように、後年ここには奴という国があり、その王が漢の光武帝から漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)の金印を拝受したことでも知られる。

「わた」は“海”。「つ」は“の”。「み」は“神”を意味する古語なので、わたつみは「海の神」となる。また「つみ」とは”住む”という意味もあるので、わたつみは「海に住む人」、つまり海洋族ということにもなる。また「神」の音読みは「人」のそれと同じだから「海人」とも呼ばれるようになった。

 海人(あま)とは、海部とも書く。「かいふ」という読み方をする苗字もある。
現代で海人といえば、海に潜って貝や海藻を採集する人をいうが、本来の意味は、「海を渡って来た人」だと思う。
では彼ら海人族は、どこの地から海を渡り日本に来たのかといえば、中国大陸や朝鮮半島に住む人々が、あるグループは半島経由で、またあるグループは半島を経由せず、直接沿岸から船を出して日本にたどり着いたと思われる。

 では中国とすれば、どのあたりなのか。
たとえば中国東北部。いわゆる旧満州地区にはツングースという民族がいて女真、扶余、契丹、粛慎などの部族に分かれていた。

これらの中には後に女真(じょしん)族のように長城を越えて中国に攻め込み、金とか清などの征服王朝を建国する部族もあった。また扶余(ふよ)族が建国した国が、朝鮮半島の北にあった高句麗である。しかし綿津見はツングース系ではない。南方系である。この部分、ツングース系の人たちは北九州には来なかった、という意味ではない。

 揚子江の南。いわゆる江南の地。
紀元前4世紀ごろ、ここには多くの民族がひしめき合っていた。
江南の地からやや内陸側、現在の湖北・湖南省あたりにに楚(そ)、長江の河口付近、浙江省あたりに越(えつ)、その北に呉(ご・・三国志の呉とは別の国)という国があった。いずれも同じか、あるいは近い民族の国で、彼らは百越と総称される。

彼ら百越には稲作という共通点があった。また川や海に潜って漁をするところも同じだった。水に潜るというだけで、その習慣を持たない揚子江北の、いわゆる中原の漢民族からは、野蛮視されていた。楚、呉、越は、楚は「四面楚歌」、呉と越は「呉越同舟」の故事で知られるように日本でもなじみが深い。また呉の機織の方法が日本にも伝わり、その織物で作った服は呉服と呼ばれるようになる。

 

 この三国は互いに戦いを繰り広げたが、結局呉は越に滅ぼされ越は楚に滅ぼされた。紀元前334年のことである。
越の滅亡後、楚の支配を受けることを嫌った越人は、ボート難民となって新天地を目指したことだろう。

あるいは越の滅亡以前でも、好奇心あふれる人は、海のかなたのことを知りたくて船を出したことだろう。そしてあるグループは朝鮮半島に、またあるグループは北九州にたどり着いたことだろう。

さらには現在の山陰や北陸地方、あるいは南九州や四国に到着したグループもあったかもしれない。いずれにせよ越人(あるいは百越というべきか)の渡来は、紀元前4世紀ごろのことだったろう。

 当時の北九州には、先に述べたツングースや越人をはじめとする中国系の民族だけではなく、各地から渡海してきた人も数多くいた。要するに当時の北九州は、「人種のるつぼ」状態だったといっていい。当然ながら、渡来人と先住民との争いも相当あったろう。山幸彦と海幸彦の神話は、その争いを暗示しているのかもしれない。

紀元前4世紀ごろの中国大陸

日本に稲作をもたらしたのは彼らだったろうし、また海洋民族として日本の各地と交易をする人もいたことだろう。それを思うと、彼ら渡海人の世界は、行動範囲の広さは私などの想像をはるかに超えているような気もする。

余談ながら、かつて福井県から山形県にかけて「越国」という国があった。この場合越は「エツ」ではなく、「コシ」と読み、「海を越えてきた人の国」という意味もあったらしい。かつて新潟県には古志郡という郡や山古志村という村があった。コシの国は、その後京都に近い方から越前・越中・越後と分割され、間には能登・加賀の国もできた。

■安曇氏の移動

  北九州の安曇族がなぜ全国に散らばったのか、ナゾである。
一説によれば、磐井の乱(527〜528年)が原因という。
この乱は、北九州の豪族筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)と大和朝廷との争いだが、その結果安曇氏は敗者側の磐井に与したため本拠地を失い、信州をはじめ、各地に移住することになったらしい。

移住先の一つ、長野県の安曇野は松本市や大町市周辺の地域である。有名な黒部第4ダム(こちらは岐阜県だが)も近い。北九州を離れて新潟県糸魚川市付近にたどり着いた安曇族は、そこを流れる姫川を遡っていったという。

では、なぜ安曇族はこの地を移住先として選んだのかといえば、海洋族として交易に必要な翡翠(ヒスイ)を求めて、という説がある。翡翠は日本古来の宝石であり、国内の産地は限られている。確かに姫川流域国内でも有数の産地ではあるが、これも一つの仮説にすぎない。
しかし理由はともかく、安曇族が姫川を遡って安曇野(当時は安曇野という地名はなかったが)にたどり着いたというのは史実であろう。

穂高神社(穂高見命を祭神とする。長野県安曇野市)

 

 唐突だが、出雲のことを書く。
いつのころかは不明だが、現在の島根県東部には出雲族と呼ばれる人たちがいた。上記したツングース系の人だったかもしれないし、また越の人だったかもしれない。越だとしたら、安曇氏とは、あるいは同族だったかもしれない。

神話の世界だが、彼らの王は、大国主命(おおくにぬしのみこと)という。
大国の主というくらいだから、よほど強大な勢力があったのだろう。しかし奈良盆地に興った「その勢力」との戦いに破れ、結局は殺された。
「その勢力」とは、後に大和朝廷と呼ばれるようになる。以下ヤマトと書く。ヤマトは、奈良盆地を中心に周辺諸国を侵略し勢力を広げていったが、やがて出雲と対立するようになる。

ヤマトは出雲を征服するのにあたり、建御雷神(たけみかづち)という将軍を派遣した。
日本神話によれば、大国主には二人の息子がいた。
この時、大国主の息子の一人、事代主(ことしろぬし)は、対峙した建御雷神に呪いをかける所作をし、その後波間に消えた。戦い破れ自害したのだろう。
もう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は、建御雷神と力比べをしたが破れてしまった。建御名方は、信濃国(長野県)まで逃げに逃げて、その地を出ないという条件でやっと助命された。この建御名方を祭る社が諏訪神社である。

 再び唐突だが、東北弁と出雲弁には共通性がある、とは古くから指摘されてきた。
これはヤマトの支配を嫌い、出雲を逃げ出した人々が、なかには建御名方のように途中の信濃に留まった人もいたが、多くの人が最終的に行き着いたところが東北地方だったのではないか。だから東北弁と出雲弁には共通性がある・・・と私は考えていた。素人判断である。

しかし最近、考えが少々変わってきている。

何のことはない。
出雲族がツングース系である可能性は比較的高いと思うが、海を渡ったツングース系の人は、何も出雲にだけ行ったわけではあるまい。
前述の「コシの国」にも、秋田県や青森県にも行っただろう。だとしたら、行きついた先が出雲であっても東北であっても、同じ(あるいは近い)民族なのだから、同じような言葉遣いになるのは当然であろう・・・と、これも素人判断である。

 さて、建御名方である。
前提として、私は、神話などただの作り話にすきない、とは考えない。たとえば天照大御神が天岩戸に隠れたという話。
多くの人は、それを皆既日食としているし、私もまた。
それを証明することは不可能だが、ある話(神話)には、そのモデルとなった別の話が存在することは大いに考えられる。もちろん、すべての神話にモデルがあったなどとは思わないが。

安曇族は、新潟県糸魚川市を流れる姫川をさかのぼって安曇野にたどり着いた、と前記した。建御名方命も安曇族も同じように姫川をさかのぼって信濃国に逃げたという。不思議な共通点ではある。
それと建御名方が大国主の息子であり、出雲から信濃に逃げてきたというのは史実なのか、ただの創作された神話にすぎないのであろうか。
さらには私は、建御名方(たけみなかた)という名前が気になっている。

 北九州の宗像氏(むなかた)といえば、安曇氏と同様に海洋民族として、筑前の国(福岡県の一部)に勢力をもった豪族として知られる。
建御名方命(たけみなかた)は、「たけむなかた」に通じはしないか。別の漢字を使って「武宗像」とも書ける。つまり猛々しく、武勇にすぐれた宗像一族の男、といえないだろうか。
(もちろん建御名方が実在の人物だったとしても、宗像氏の一族であってもなくても、その人の実名ではないだろう)


奴奈川姫(糸魚川市海望公園)

 建御名方の出雲から信濃への逃避行のモデルは、姫川を遡った安曇族ではないか。
安曇族は安曇野にとどまったが、建御名方は州羽海(すわのうみ・・諏訪湖)まで逃げたという。この建御名方を祀ったのが諏訪大社であり、戦国時代武田信玄に滅ぼされた諏訪氏は、建御名方の子孫を称している。

あるいは建御名方は、信濃国に元々いた豪族で、大国主と同じくヤマトと戦い破れた、とも考えられる。
日本神話の創作者は、ヤマトに抵抗した各国の豪族をいちいち書くのが面倒なので、それらをまとめて「大国主」という一人称で表したのかもしれない。そうなると、建御名方を大国主の息子で出雲から逃げてきたことにしないと、いろいろな辻褄が合わなくなるのだろう。(なぜならこの場合、建御名方は、信濃国の土着の豪族なのだから)

しかし面白い話ではある。面白いといえば、古事記には、糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫(ぬなかわひめ)に大国主が出雲から求婚しに来たという神話が残されているし、建御名方は大国主と奴奈川姫の間に生まれた子という話もある。

■八面大王

 伝承によれば桓武天皇のころ、安曇野に八面大王(はちめんだいおう)という悪王がいて、岩屋に立てこもり民衆を苦しめていた。この岩屋は魏石鬼窟(ぎしきのいわや)というが、魏石鬼とは八面大王の別名である。またこの岩屋は有明山という山にあり、麓には有明神社がある。有明からは北九州の有明海を連想させる。

さて朝廷から追討を命じられた坂上田村麻呂(758〜811)は、八面大王を討ち人々を救ったという。しかし大王には不思議な力があり、死んでもなお生き返るというので、田村麻呂はその五体をばらばらにして埋葬した。胴体を埋めた場所は、現在の「大王わさび農場」だと伝えられる。

これが岩手県では、悪路王(あくろおう)というのが達谷窟(たつこくのいわや)に立てこもり人々を苦しめていたので、やはり坂上田村麻呂に討ち取られたという話が残っている。八面大王と似たような話で、立てこもった場所もどちらも岩に囲まれた場所である。

魏石鬼窟 大王わさび農場 悪路王(鹿島神宮) 達谷窟毘沙門堂

 陸奥(東北地方)には、坂上田村麻呂と実際に戦った蝦夷(えみし)の阿弖流爲(あてるい ?〜802)がいるが、一説によれば悪路王とは阿弖流爲のことだという。
悪路王も阿弖流爲も長いこと朝廷に歯向かう逆賊とされてきたが、近年岩手県では阿弖流爲をヤマトの侵略に抵抗して立ち上がった郷土の英雄として再評価する動きが出てきているし、ドラマや演劇(たとえば宝塚星組)も上演されている。

勝利者側である大和朝廷は、侵略の事実を隠蔽するため悪路王という名前を創作し、民衆を苦しめたので坂上田村麻呂に討ち取られたと、事実を改ざんしたのだろう。信濃の国には阿弖流爲のように、大和朝廷と戦った郷土の英雄はいたのだろうか。私は浅学にして知らないが、もしいたのなら、その人物こそ八面大王のモデルなのだろう。

■最後に

 穂高神社で、毎年9月27日に開かれる御船祭(みふねまつり)には、高さ6mの船型の山車が登場する。安曇野に暮らす人たちの先祖、海人である安曇氏を偲んでのことだという。

海人といえば、壬申の乱(672年)に勝利し即位した天武天皇の名前は大海人(おおあま)といった。その由来は、天武の養育係だった凡海麁鎌(おおあまのあらかま 生没年不明)が、安曇氏の一族だったことによる。天武の乳母も凡海氏の女性だった。凡海は大海とも書く。

また古代天皇の名前・・・神武天皇とか、仁徳天皇、天智天皇という漢風の諡号(おくり名・・死後つける名前)をつけたのは淡海三船(おうみのみふね 722〜785)という学者だった。

淡海三船は天武の兄、天智天皇の玄孫で、元々の名を「御船王」といった。淡海は現在の近江(滋賀県)で、安曇とも縁の深いところである。それに御船からは穂高神社の祭を連想させるが、安曇氏と何かの関係があるのか・・これは考えすぎだろうか。

御船祭(穂高神社)

 


 Index   ティータイム