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多胡館


 

所在地 高崎市吉井町多胡
築城年
築城者 源義賢?

 

 

多胡館は、源為義(1096〜1156)の二男義賢の館と伝えられる。吉井中学校の南西200mにある。

源義賢(1126〜1155)は、後に近衛天皇となる東宮体仁親王の帯刀舎人(たちわきとねり)の長となり、帯刀先生(たちわきせんじょう)と呼ばれた。
東宮とは皇位継承の第一にある者(皇太子)、帯刀舎人とは警護、雑役をする者のこと。仁平3年(1153年)、義賢の兄義朝(1123〜1160)が下野守に就任すると父為義の命により義賢は上州多胡を領した。ここはその時の館跡である。

 

案内板(クリックで拡大) 案内板にある館の図(水色が館の範囲)

 

虎口(左図の○印)
堀跡 土塁 武蔵国 大蔵屋敷

 

それなりの案内板があって堀や土塁跡も確認できるが、遺構は荒れ放題に荒れている。虎口から少し奥に進むと蜘蛛の巣だらけで進むのをあきらめてしまった。高崎市は駅前を整備するのもいいが、このような貴重な史跡・文化遺産への理解を深めてもっと予算を計上してもらいたいものだ。

さて義賢は、多胡と同時期に武蔵国の秩父重隆の娘を娶り、大蔵(埼玉県比企郡嵐山)に館を持ったが、久寿2年(1155年)、兄義朝の長男義平(悪源太義平 1141〜1160)と争い、殺されている。争いの原因はわからない。
このとき義賢の一子駒王丸2歳は多胡館にいたが、知らせを受けた乳父の中原兼遠に抱かれて信濃に逃れた。
駒王丸。後の木曽義仲(1154〜1184)である。

 

 

治承4年(1180年)、平家追討の兵を挙げた義仲はまず父の旧領多胡に入った。兵を募ったのだろうが、鎌倉の頼朝や新田には同族新田義重もいて思うように集まらなかったのだろう。程なく信濃に戻っている。しかし最後まで義仲と行動をともにした多胡家包(たご いえかね)は、おそらくこのとき義仲軍に参加したのではないだろうか。

 


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