Index   ティータイム 古城を歩く

奥平城


 

所在地 高崎市吉井町下奥平
築城年
築城者

 

 

奥平城は吉井町の岩平小学校の西北にある。ここは戦国時代、長篠の合戦(1575年)で有名になった奥平氏発祥の地である。
城跡はそれを示す標識と案内板以外にはこれというほどの遺構はない(と思う)。虎口になるゆるい坂を登ったところも農地で城と実感できるようなものではなかった。

 

遠望

 

城跡の標識 案内板(クリックで拡大)
本丸虎口 長篠城跡(Wikipediaより)

 

奥平氏は、赤松氏の子孫だという。
赤松氏の根拠地は播磨国だが、源頼朝に属した赤松則景は北条義時の娘を妻として生まれた家範が赤松村を領し赤松氏を称したという。則景には、その後別の妻との間に生まれた氏行(?〜1252)という子があり、この氏行が奥平を領して奥平氏を称し、弟の崇行は小幡氏の祖となった。

また別の説では奥平氏は武蔵七党の一派、児玉氏の系統だともいうが、家紋を見るとどちらも扇であることから、この説も捨てがたいと思う。

 

 

吉行以降、奥平氏は継定、高定、満定、定政、定家と代々甘楽郡の郡司をつとめた。定家の子、貞俊のとき家督争いがあり貞俊は弟の貞直に城を譲り、縁者を頼って三河国作手に移り住んだ。ところが城を譲られた貞直も、なぜか城を捨ててしまい、奥平城は住む者もなく廃城になったしまった。

三河に移った奥平氏は貞俊の後貞久、貞昌、貞勝、貞能、信昌と続いた。
この信昌(1555〜1615)が長篠の戦いで知られる武将である。信昌は徳川家康が関東に入ると上州宮崎2万石を与えられ、その後上州小幡藩の初代藩主となった。

 


Index   ティータイム 古城を歩く