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馬庭城


 

所在地 高崎市吉井町馬庭
築城年
築城者 馬庭氏

 

 

吉井町馬庭にある馬庭念流の道場は、かつては平井城の支城で高山氏の一族、馬庭家重の居城だった。
馬庭家重は高山氏の一族で、永禄3年(1560年)上州に進行した上杉謙信は、彼に従った関東武将のリストを作った(関東幕注文)が、家重は「総社衆」の一人として記載されている。

それ以外の家重の経歴はわからない。
武田氏や北条氏との戦いの中で戦死し、城は廃城になったのだろう。

城跡は、現在は馬庭念流の古武術道場である。

 

この駐車場が本丸だったらしい(向こうは道場) 案内板 道場

 

馬庭念流は相馬四郎義元(1350〜?)が編み出した古武術である。
義元は幼いとき父を殺され、その仇を討つため10歳のとき剣法を学ぶため鞍馬山へ入り、続いて鎌倉の寿福寺で秘伝を授けられ、その後九州の安楽寺で兵法の奥義を得た。
一旦は還俗した義元だったが、再び仏門に入り念和尚と称したのが応永15年(1408年)のことだった。

その弟子の一人に樋口義重が馬庭念流馬庭道場の祖である。
樋口氏の遠祖は木曽義仲の育ての親、中原兼遠(?〜1181)の長男兼光(?〜1184)で、有名な巴御前は兼光の妹にあたる。元々樋口氏は信州にいたが、高重のとき上州吾妻郡に移り、その後明応9年(1500年)この地(馬庭村)に移り住み、平井城の上杉氏に属したという。

永正7年(1510年)、上杉顕定が越後で長尾為景(謙信の父)と戦い戦死したとき、樋口高重も上杉方として参戦したが戦後馬庭に帰り、道場を開き武道教授に専念するようになった。
樋口高重が馬庭に移った当初は入道ケ谷というところにいたが、いつのころか廃城だった当地に道場を開いたのだろう。

庭念流の公式サイトは http://www4.plala.or.jp/nenryu/  

 


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