高井館(進雄神社)
所在地 高崎市柴崎町 築城年 戦国期? 築城者 高井氏
高井氏は在地の土豪で、同時に進雄(スサノオ)神社の神官だった。神社は高井氏の屋敷であり、その周囲には今なお掘と土塁が残る。
小田原の北条氏康、和田城主和田信業、武田勝頼の重臣跡部勝資等、戦国期に高崎市に関係する武将からの19通の書状は、高井文書として高崎市指定の文化財になっている。また、明治時代初期、高崎藩のいわゆる「五万石騒動」で首謀者の一人として処刑された高井喜三郎の家でもある。
進雄神社
西の堀
東の堀
■五万石騒動
幕末から明治にかけて、高崎藩は幕命を受けて天狗党と諸生党が抗争にあけくれる内乱状態の水戸に出兵したり、下仁田戦争(1864年)で天狗党に敗れたりで出費がかさみ、大変な財政難になっていた。しかし藩には財政立て直しを米の収穫以外に求める知恵はなく、地元農民は実に8公2民の過酷な年貢取立てに苦しんでいた。
しかし窮乏は高崎藩だけではない。
江戸時代、特に幕末は長州藩のような藩は例外としてどの藩も窮乏していた。すくなくとも、藩主は豪華な宮殿(居城)で多くの側室をはべらし・・・などという生活ではなかった。
そんな中、東山道鎮撫総督岩倉具定 (ともさだ 岩倉具視の三子 1852〜1910)は、慶応4年正月付けで次の通達を発した。
農商へ布告
此度東山道鎮撫総督ノ勅命ヲ蒙リ発向ノ次第ハセンダッテ朝廷ヨリ御触モアラセラレ候通ニ候へ共遠國偏土ニ至テハ自然行キ届キカネ候ヤモ計リ難キニ付尚又諸國ノ情実ヲ問イ万民塗炭ノ苦ヲ救イナサレ度キ叡慮ニ候間各々安堵シ渡世致スベク候尤モ是迠天領ト稱シ来リ候徳川支配地ハ勿論諸藩領分ニ至ル迠、年来苛政ニ苦シミ罷リアリ其外子細コレアル輩ハ遠慮ナク本陣ヘ訴エ出ズベシ。
僉議ノ上公平ノ処置ニ及ビ候間心得違コレナキヨウ致スベク候事
戊辰正月 東山道鎮撫總督 同 副總督
前半はともかく後半は、「天領のような徳川の支配地はもとより、諸藩の民で苛政に苦しむ者があれば遠慮なく申し出よ。内容を検討し、公平に処置するであろう」という意味であろう。この通達に対し、高崎藩に隣接する岩鼻(天領)ではこれを高札に掲げて発表し、同時に目安箱を設置して訴状を受け付けた。
しかし高崎藩にとっては、このような布告を領民に伝えるなど正気の沙汰ではなく、そのまま放置していたが高崎藩と岩鼻は隣接していて自然と農民同士も交流があり、この布告や岩鼻県の処置が高崎藩の農民に耳に入らないはずがなかった。
高崎藩の重税は一向に変わらず、再三の訴えは退けられ、追い詰められた農民は明治2年9月、実行動に出ざるを得ない状況に追い込まれた。高崎藩60カ村、いわゆる「5万石騒動」である。詳細は省くが決起した農民には結果として佐藤三喜蔵・高井喜三郎・小島文治郎の3人が死刑、遠島1人、入牢18人(内4人牢死)という過酷な処罰が待っていた。
その子孫の手によって、処刑場の跡地に義人慰霊堂が建立されたのは1963年11月のことだった。
高井家文書の案内(これだけでは・・説明不足)
五万石騒動義人堂