岩鼻陣屋
ここでは岩鼻陣屋の紹介を含めて、その周辺のことを書きます。
江戸時代、高崎藩に隣接する岩鼻 (高崎市岩鼻町) は天領として代官所(陣屋)が置かれていた。陣屋とは城を持てない3万石以下の大名や、幕府直轄領(天領)の代官の役所・居住地である。岩鼻の代官は岩鼻だけではなく、関八州の目付役も兼ねてその権限は大きかったという。
岩鼻陣屋は、当時東西170m、南北250mの規模で、大手口は南にある観音寺の西にあった。
現在この跡地の大部分は日本化薬株式会社の社員寮の敷地になっていて、中には天神山という古墳もある。
岩鼻陣屋(中央にあるのは天神山古墳)
東の帯廓(相当削られているかな)
岩鼻陣屋は建造物が残っているわけでも、当時の雰囲気があるわけでもないので、その周辺を散策することにする。
高崎市岩鼻町の小さな交差点の東側の坂を下ると、途中に子育て観音があって通行人の目に止まったことだろう。
この道は旧中山道である。その先には船の渡し場があった。
坂の途中にある子育て観音 旧中山道 烏川の渡し付近
子育て観音の北約70mのところにある狭い坂を下ると、当時刑場があった。執行された遺骸は、不浄坂と呼ばれたその坂を上がって、岩鼻陣屋の南にある観音寺に埋葬されたという。
観音寺には刑死した人を供養するための供養塔が建っているが、中には無罪でありながら無念のうちに刑死した人もかなりいたのではないか。供養塔は当初刑場にあったが、後に観音寺の境内に移されたらしい。
供養塔を建てるということは、無罪を知りながら刑を執行した陣屋の役人が、刑死者のタタリを恐れて建てたのではないかと勘ぐりたくもなる。
観音寺
観音寺境内の供養塔
明治元年、廃藩置県の後、岩鼻陣屋跡は新たに設置された岩鼻県の庁舎となった。
このとき28歳の若さで知事として赴任した大音龍太郎(おおど りゅうたろう 1840〜1912)は、わずかな罪、たとえば畑の雑草を刈らずに放置したという理由でも斬首の刑を科したので、首切り龍太郎とあだ名されて恐れられた。このため大音の評判はきわめて悪く、赴任後わずか半年で失脚した。
明治3年、県庁舎は火災で焼失。その後「群馬県」が成立すると岩鼻県は廃止された。岩鼻陣屋(岩鼻県庁舎)の道をはさんだ東には、戦前陸軍岩鼻火薬製造所 (名称は何回か変更されている) が建設され、陸軍官舎が建てられた。敗戦後土地は分割され、現在は日本原子力機構高崎研究所、日本化薬株式会社、それと群馬の森という公園となっている。
■岩鼻火薬製造所
さて、前述した烏川の渡し付近の土手をさらに進むと、左側に旧陸軍岩鼻火薬製造所の門がある。
当時は左右に兵士が立っていただろうが、今は監視カメラが兵士の代わりである。門につながる東側の長いフェンスにはいたる所に「火気厳禁」、「立入禁止」の標札が取り付けられている。しかも群馬県警として。
内側は旧陸軍火薬庫。未だに火薬があるのか????
旧陸軍岩鼻火薬庫門
東側は台地になっている。
火気厳禁、立入禁止の標札がいくつも設置してある。
日本化薬と日本原子力研究開発機構は、誰でも気軽に入れるわけではないので、群馬の森を散策してみる。
明治13年(1880年)、旧陸軍はここに岩鼻火薬製造所を建設し、2年後から各種火薬の製造をはじめた。当時東京都の板橋に陸軍の火薬製造所があったが、増産の必要上、川が近く船の便がよかった当地が選ばれた。
明治38年(1905年)、日本で初めてダイナマイト製造が開始されたことから、敷地内に「ダイナマイト発祥の地」という碑がある。
わざわざ石碑を作るほどのものなのかは疑問でもあるが。
ダイナマイト発祥の地の碑
工場の規模は現在の感覚でもかなり大きく、終戦当時でも敷地面積325000坪、従業員数3956人だったという。
敷地面積が異様に広いのは、爆発事故に備えて工場と工場の間隔を普通の工場のそれよりはるかに長くし(100〜150m)、またその間に爆風避けの土塁を築き植樹する必要があったためである。事実事故は頻発し、昭和13年の事故では破壊された建物は12棟、即死者5人、重傷者3人の惨事となった。この土塁は、公園内のあちこちで見ることができる。
当時の土塁と通り抜け用のトンネル
当時のものと思えるものは土塁だけではない。
日本化薬株式会社の敷地内なので勝手に入るわけにはいかないが、これは・・・いったいなんだろう?
立入禁止の向こうにある 巨大な土管のようなもの
この建物は当時のものなのか??
ここにも入れない。
廃屋がある 割れている窓ガラス
さて、ここには強制的に連行されて来て働かされた朝鮮人の碑が設置されている。
「記憶 反省 そして友好の碑」である。
当時の日本国内のことだから、筆舌に尽くしがたい過酷な環境下での労働を強いられたことだろう。
現在この碑は、政治利用されているという理由で撤去されかかっている。ここだけではなく、戦時中の朝鮮人・中国人強制連行労働の跡地は県内各地にある。
どんなに不都合なことでも、史実から目を背けるわけには行かない。戦争を後世に伝え、近隣諸国との友好を図る意味でも、これは守らなければならないだろう。
■岩鼻軽便鉄道
さて、製造された火薬は当初は荷馬車で倉賀野駅との間を往復したが、その後岩鼻軽便鉄道という私鉄が設立されてからは鉄道になった。上州岩鼻駅という駅が、現在の原子力研究所の敷地内に建設された。倉賀野駅との距離は2.6Kmだった。
岩鼻軽便鉄道の線路
倉賀野駅から岩鼻小学校まではgoogle地図にグレーの線で載っている
岩鼻軽便鉄道は昭和20年で廃止となったが、線路はある部分は道路になり、またある部分は今も倉賀野から岩鼻にかけて残っている。鉄道や線路に疎い私には、残った線路が今も使われているのかわからない。
岩鼻軽便鉄道の線路は地上を走っていたらしいが
現在はこんな高架がかかっている。
建物は市立岩鼻小学校。この高架線路の先は・・・ここでイキドマリ
スイッチバックのためのものかもしれないが、
ずいぶん長い・・・・
旧陸軍の「置き土産(?)」はこんなところにもある。
原子力研究所西側の国道354号線(例幣使街道)を玉村方面へ右折すると、何やらアヤシイ雰囲気の古びた柵がある。前述の火薬庫門の左右の柵と同じだ。その近くの石(赤い○)を見ると「陸軍用」と彫られた石があるが、これは何なのだろう。
火薬庫の柵か
陸軍用? 何、これ?