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膳城


 

所在地 前橋市粕川町膳
築城年 15世紀中期
築城者 膳氏

 

 

膳城は上毛電鉄上毛線膳駅の東北500mにある。
城址公園として整備されていて本丸、二の丸、堀跡など、見事な遺構を見ることができる。

縄張図(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より

 

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道端から見える標柱。縄張図の印のところ
標柱を右に見ながら堀を歩く。本丸南の堀 本丸

 

本丸跡の石碑

 

案内板(クリックで拡大) 本丸西の堀
これも本丸西の堀 本丸から二の丸を見る 二の丸と北の土塁

 

搦め手 北の堀 内堀

 

膳城は膳氏の城だが、膳氏とは妙な名前である。
古代、膳氏は「膳」という姓のとおり、朝廷における膳(つまり料理)を担当してきた氏族で、聖徳太子の后の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)はその一族である。

古代膳氏の後裔かどうかは不明だが、ここでいう膳城を築いた膳氏は三善康信(1140〜1221 鎌倉幕府問注所執事)の子孫というが、真偽のほどはわからない。だが在地の土豪であったことは間違いない。

1480年ごろ、膳城は下野国佐野の佐野氏に攻め落とされた。一部では佐野昌綱の攻撃で落城とあるが、これは間違い。佐野昌綱の生年は1529年なのだから。
その後膳氏は太田金山の由良氏の援助で城を奪回。1562年、上杉謙信の勢力下に入るが、謙信の死後は小田原北条氏に属するようになった。

1580年、武田勝頼の攻撃で膳城は落城した。
このとき勝頼は平服のまま膳城周辺を視察していたが(つまり城を攻撃する意図はなかったらしい)、城内からの挑発を受け激昂して甲冑もつけず城を攻撃し落としてしまったという。
膳城素肌攻めという。

1578年、上杉謙信が没すると後継者をめぐって内乱が起きた(御館の乱)が、上杉景勝は武田勝頼と結ぶことで勝利を治めた(1580年)。その時の講和条件に、上州における上杉領は武田家に譲る条項があり、武田勝頼はそれに従ってこの地を視察していたのだろう。

武田氏の滅亡後は北条氏に属したが、北条氏の滅亡とともに膳城も廃城になったらしい。


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