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小幡陣屋(楽山園)


 

小幡藩の城下町、甘楽町小幡は国道254号線福島の交差点の先(長野県に向かって)を左折すればすぐに訪問できる。

 

小幡の町を流れる織田氏開削の雄川堰
(甘楽町ホームページより)

楽山園 楽山園前の武家屋敷
(甘楽町ホームページより)

 

戦国時代、長篠の合戦における長篠城主として知られる奥平信昌(1555〜1615)は、秀吉の小田原征伐後徳川家康から小幡に3万石の領地を与えられたが、関が原の合戦の功績によって美濃加納に10万石を与えられこの地を去った。

その後小幡は松平忠明、水野忠清、井伊直孝、永井直勝と数年のうちに何度も領主が変わっている。
元和元年(1615年)、織田信長の二男信雄(1558〜1630)は大和国宇陀に3万石、小幡に2万石が与えられ、小幡の北にある福島の陣屋に入った。この陣屋のあった場所は現在の上州福島駅の南西にある東学院の付近だったという。

このとき信雄はすでに隠居しており、実質的な藩主は子の織田信良(1584〜1626)で、信良の子信昌(1625〜1650)のとき福島から小幡に移っている。
信昌が25歳の若さで世を去ると、信昌の従兄弟の信久が末期養子となり藩を継いだ。
末期養子とは、藩主に後継者がいない場合藩は取り潰しとなるが、藩主の死の直後に適当な者を養子にして見かけ上後継者がいたようにすることで、幕府も容認していた。

信久は新田開発や治水工事を実施し、農業生産性の増加は藩の財政を安定させた。現在も町の中央を流れる雄川堰は信久の事業と伝えられ、その水は灌漑用水として、また飲料水として下流を潤した。

しかし元々織田家は当時は指折りの名家として、それなりの家格・体面を保持しなければならなかった。わずか2万石の税収入にもかかわらず、である。
それに加え、こうした公共事業の費用は当然ながら農民への年貢増という負担になり、怨嗟の声は高まっていった。

各地の藩主、藩政を記録した土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)という書物が元禄のころ出版された。著者も編集目的の一切不明のナゾの書物である。
ここで、織田信久はつぎのように酷評されている。

 

信久、武道ヲ専ラトシ、軍者ヲ招キ、兵術ヲ聞フ。文道ハ学ブニ似テ、誠ニ非ズ。偽リテ外ヲ飾ルト聞フ。
行跡寛々ト見ヘテ、威儀ヨケレドモ、内心孟侫奸ノ気味有リ

信久は武道は熱心で、軍学者を招き講義を聴く。文は学んでいるが実際はそうではない。
虚栄心が強く、行いは寛大のようでいて心の中は悪賢く、ねじまがっている。

 

さて、福島から小幡に入ると今なお城下町の風情が残っている。
道の中央には雄川堰に沿って松並木があったが、その一部は明治時代、切り倒され富岡製紙場の施設の部材として使用された。

小幡藩は2万石なので城はなく、陣屋が造られていた。この陣屋なかに造られた大名庭園は楽山園と呼ばれ、造営したのは初代織田信雄といわれている。信雄は、小幡氏の重臣だった熊井戸正満の屋敷が気に入り、京都から薮中剣中という庭師を呼び寄せて、この屋敷を基に7年の歳月を費やして造ったのだ。

信雄は父信長からみれば「不肖の息子」で、軍事も政治もまったく無能であった。
しかし父の持つ芸術的感性は受け継ぎ、能舞の名人だったといわれている。そのような人だったから陣屋(3万石未満の、城を持たない大名の藩庁)を造るにあたっても、武家風に造らず庭園風にしたのだろう。

信久のあと、織田氏の支配は信就−信右−信富−信邦と続き、初代信良から8代、152年続いた。
最後の織田氏領主となった信邦のとき起きたのが明和事件(1767年)である。

この事件は、幕政を批判し尊皇攘夷を行うべしと説く甲斐の出身で儒学者の山形大弐(1725〜1767)が小幡に滞在し学問を講義したとき、織田家の家臣藤井右門、竹内式部、津田頼母等数人が同調し、藩内にある崇福寺の住職梅叟が寺を密議の場の提供した事件である。

梅叟は密議に便宜をはかったものの、次第にこれを恐れるようになり寺社奉行に密告し事が明るみに出た。
結果として山形大弐、藤井右門は捕らわれ死罪。竹内式部と梅叟は遠島。藩主織田信邦は隠居に追い込まれた。家督は弟の信浮(のぶちか)に継がせると同時に出羽国へ転封させ152年続いた織田氏の支配はここに終わった。崇福寺は町の中央を走る県道の左にあり、ここには信邦を除く織田家七代の墓所や、位牌堂がある。

 

崇福寺

 

位牌堂 位牌堂の説明(クリックで拡大)
位牌堂の窓から内部を撮影 織田七代の墓所(右端が織田信雄) 説明板(クリックで拡大)

 


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