将門伝説
平将門は菅原道真、崇徳上皇と共に日本三大怨霊とされています。国司のあくなき搾取に苦しむ民衆のいじらしい願望が将門が怨霊となって国司等を懲らしめることを願ったのでしょう。将門は帝位を称した『大悪人』でしたから、その後明治政府によって信仰を禁じられるまで、民衆にとっては権力に抵抗した英雄だったのです。
将門祭(茨城県岩井市) |
非業の死をとげた英雄には不死伝説がつきものです。その死を惜しむあまり、『この人は死んではいない。生きているのだ』と言い聞かせるのです。例えば次のようなものがあります。
伝説が生まれた理由(推定) 人物 伝説の内容 時の政府への反発心 西郷隆盛 西南戦争で敗れた隆盛は城山で自害せずに南海、あるいはロシアに逃れたという伝説。明治24年にロシアの皇太子に同行して西郷隆盛も来日するという噂が立って、大騒ぎになったようです。
豊臣秀頼
真田幸村豊臣秀頼は大阪城で死なず、真田幸村に連れられて薩摩に逃れたという伝説。鹿児島には今でも豊臣秀頼の墓といわれているものがあるそうです。 石田三成 石田三成は関が原の合戦後捕らえられて斬られたのではなく、秋田の大名佐竹氏に匿われたという伝説。秋田市内の寺には三成のものとも伝えられる墓があるとか。 大塩平八郎 乱に失敗した平八郎は河内に潜伏。その後肥後から長崎、清国へ渡ったという伝説。 超人的豪傑のため、
簡単に死ぬとは考えられない源為朝 保元の乱に敗れた為朝は伊豆大島に流罪となりましたが伊豆諸島を荒らしまわります。しかし朝廷からの討伐軍に敗れ自害したといわれていますが、為朝はここでは死なず琉球に逃れ、後の琉球王朝の始祖になったといわれます。 弁慶 義経と共に衣川から逃げたが離ればなれになってしまった。
竜ケ森(秋田県鷹巣町)まで来たら義経はすでに大陸へ渡航した後で、落胆した弁慶は、その場に倒れやがて石になってしまった・・・・。民衆の同情心 源義経 義経は衣川では死なず、大陸に渡ってチンギス・ハーンになったという伝説。大正時代、『ジンギスカンは源義経なり』という本が出版され、金田一京助をはじめとする歴史学者を巻き込む大論争に発展したようです。 『判官贔屓』という言葉は義経から発生していますし、一般的にはこの伝説が一番有名かも知れません。
現在は『ジンギスカンは源義経なり』に代わって、この本のリメイク版ともいうべき 成吉思汗の秘密(高木彬光)の入手が容易です。
その他 明智光秀 山崎の合戦後、比叡山に登って天海と改名し、徳川家康の政治顧問となったという伝説。後に日光を参拝したとき、付近の風光明媚な場所を明智平と命名したとされました。この地名は今も残っています。 ヤマトタケル ヤマトタケルは南に北に、天皇に命ぜられるままに各地を征服し、死後白鳥となったという伝説。 安徳天皇 壇ノ浦で平氏とともに海に沈んだ安徳天皇は、実は死なずに落ち延びたという伝説。安徳天皇の行き先は徳島県祖谷とも、鹿児島県硫黄島ともいわれています。
では将門伝説ですが、非常に多くの伝説があってすべて紹介することは困難です。それでも乱暴な分類ですが、大きく分ければ飛ぶ首、影武者、鉄人の三種類になりましょうか。
■おまけ
ムカデ退治
(滋賀県)将門ではなくて藤原秀郷の伝説ですが、これを書かないわけにはいきません。
こんな内容です。朱雀天皇の御代、近江国栗太郡田原村の住人田原藤太(藤原秀郷)は幼いころより武勇の誉れが高く、特に弓の名人といわれていた。
ある日藤太が瀬田の大橋を渡ろうとすると、長さ20丈(約60m)もの大蛇がとぐろを巻いていたため誰も橋が渡れず、皆困っていた。しかし藤太は平然と大蛇を踏み越えて橋を渡ってしまった。
すると藤太の前に美しい娘が現れ、『私はあの大蛇です。私が住む三上山には毎晩大ムカデが現れ、私の仲間を食べてしまうので是非退治していただきたいのです。』と頼んだ。
大蛇の頼みを承知した藤太が5人の家来と共に三上山へ行くと夜半過ぎ、にわかに雷雨が起こり大ムカデが出現。ムカデに放った矢はことごとく跳ねかえされてしまう。
藤太は『大ムカデの弱点は眉間』であるとの大蛇の言葉を思い出し、矢じりに唾をつけて射ると見事に大ムカデの眉間に当り、退治することができた。約束を果たした秀郷は、琵琶湖に住む竜王に招かれ竜宮で手厚くもてなしをうけた。
この話と次の赤城神社の話はセットになるかもしれません。
赤城神社
(群馬県勢多郡宮城村)宮城村三夜沢(みよさわ)の赤城神社の境内にある大杉は『たわら杉』と呼ばれています。これには藤原秀郷が平将門について上野国府に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したという伝説があります。 藤原秀郷といえば先ほどの『ムカデ退治』の伝説ですね。
ところが北関東の伝説では大昔、群馬県赤城山の神と栃木県二荒山の神が戦ったという伝説があるのです。こんな内容です。
中禅寺湖(栃木県)が上野、下野どちらの領土に属するかで下野の二荒山(ふたらさん)の神と、上野の赤城山の神の間で争いが起こった。
赤城の神はムカデ、二荒山の神は大蛇に変身し、両神は現在の戦場ヶ原で決戦したが勝負がつかない。でもどちらかというと男体山側の旗色が悪かった。(戦場ヶ原という地名はこの伝説から生まれ、今でも栃木県にあります。)
そこで二荒山の神が鹿島大明神に相談すると、奥州の小野猿丸という弓矢の名人を教えてくれた。二荒山の神は白鹿になって奥州へ行き、猿丸を連れて帰った。 戦場ヶ原に着いた猿丸がムカデに変身した赤城の神の左目を狙って矢を放つと、見事に的中。敵は撤退し、戦いは二荒山の勝利に終わった。
戦場ケ原(栃木県日光市)
ここで面白いのは赤城の神はムカデに姿を変えて戦ったこと、小野猿丸は大蛇(二荒山の神)に退治を頼まれたこと。退治するのに目をねらったこと。先ほどの鉄人伝説や俵藤太のムカデ退治の話に似ています。なぜ赤城の神はムカデに変身したのか。
この赤城山VS二荒山伝説は比較的あたらしい神話なのではないかと思います。
藤原秀郷は将門を倒したことにより坂東一の武者と呼ばれるようになり、その後下野・上野にはその子孫を称する豪族が多かったといわれます。この伝説はかつてこの二つの地域(赤城山麓、二荒山麓)を領した豪族同士の領地争いがあったことで生まれたと思うのですが、勝利者である二荒山麓の豪族もまた藤原秀郷の子孫を称しており、先祖にあやかってムカデ退治として話を広めたのかも知れません。
(おことわり)
栃木県側の神は二荒山ではなくて男体山(なんたいさん)の神、という伝説もあります。
ところでムカデは鉱山の守護神とされていますが、理由は鉱脈がムカデの形に似ているからのようです。中国の古文書にはムカデには『鉱脈を掘り当てる能力があるから鉱脈探しに山に入る時には竹筒にムカデを入れて行け』とも書いてあるようです。実際に大昔の赤城山には鉱脈があったらしいのです。
同じく中国の古文書ですが、ある民族は山に登るときに、蛇除けのためにムカ デを青竹の筒の中に入れて持っている、と記されているようです。これから察するところ、ムカデと蛇は敵同士だったようです。
こんな話が日本にも伝わって琵琶湖のムカデ退治とか、赤城山対二荒山(どちらも蛇がムカデの退治を頼んでいる)の話ができたのでしょう。 この伝説を掘り下げればもっと面白いことがわかるかもしれません。
赤城神社とたわら杉
玉村
(群馬県勢多郡玉村町)将門が上野国に攻め込んだころ、ある村に大変美しい娘がいて、隣村の若者と相思相愛の仲でした。ところが彼女は将門に媚びる土豪の目にとまったため、その土豪は彼女を将門の側室に差し出すよう彼女の父親にいったのです。 娘を不憫に思った父親は彼女を逃がしましたが、彼女は追っ手に追い詰められて進退きわまり、川に身を投じてしまいました。娘を救おうと思って駆けつけた若者も、彼女の後を追って川に身を投げてしまったのです。
その後夜になると川の水底に青く光る二つの玉が目撃されるようになりました。村人たちは『あの娘が龍神となって川に住んでいるに違いない』とうわさし合いました。
村人たちは二人の霊を慰めようと川畔に祠を建てましたが、ある日の夜この玉が岸に打ち上げられたところを拾い上げ、大明神様として祀っていました。
ところがその後川は洪水にみまわれ、水が引いた後なぜか玉が1個なくなっていたのです。その後もたびたび洪水が起きたので村人は『きっと龍神様が玉を返してほしくて洪水をおこすのだろう』と考え、この村の人たちは別のところに新田開発して移り住みました。新田は玉のためにできた村なので、以後その村を『玉村』と呼ぶようになったとか。
城峯山
(埼玉県児玉郡神泉町)将門が城峯山に潜伏しているとき、麓の民家であげた鯉のぼりで将門の所在が敵に知れてしまい、将門は攻められて敗死。このため鯉のぼりを揚げると将門に祟られると、その村では現在でも鯉のぼりをあげない・・・・はてさて?
別の話ですが、城峯山に立てこもり最後の戦いを続ける将門のところに桔梗という名の美しい娘がいました。苦しい戦いの中で、桔梗に癒された将門はいつしか桔梗を愛するようになったのです。
しかし桔梗は敵が送り込んだスパイでした。不審な敗北を続けていた将門は、遂に原因が桔梗であることを知り、怒った将門は『桔梗よ絶えろ!』と叫びながら彼女の首をはね、自刃して果てといいます。以来、将門の怒りによって城峯山は決して桔梗の咲かない山になったとか。
《おことわり》
神泉村は群馬県鬼石町と接していますが、両町の間を流れる神流川の上流では毎年川の両側にロープをかけて鯉のぼりをあげるお祭があります。これも先ほどの影武者伝説と同じく宣伝のため・・・・・???
それにしても桔梗がここでも出てきました。影武者伝説を知った地元の人が作り上げたのかも知れません。
しかしここは埼玉県北部。将門終焉の地としては無理がありますね(笑)鯉のぼり祭(群馬県神流町)
■おわりに
平安中期当時、武士の身分はごく低いもので都の貴族からみれば立って歩く犬程度のものでした。
桓武天皇の末流とはいえ将門も例外ではなく、逆をいえばそのことは当時藤原氏の権勢がいかに強大だったかということでもあります。人の社会的意識は急激に高まることはありません。時代と共にゆっくり高まっていくものです。社会の底辺に近い立場だった武士が天下を意識するようになるのはこれより約250年後。平清盛や源頼朝の登場を待たなくてはならないのです。
平清盛は単に藤原氏に取って代わっただけですが、源頼朝の政治は朝廷への『反逆行為』でした。しかしその源頼朝は武蔵国から逃げ帰り、将門を朝廷に讒訴した源経基の子孫なのですから歴史というものは皮肉なものです。
将門の反逆は思いつきの行動にすぎません。
明智光秀の乱もそうです。
思いつきの行動が成功する例は洋の東西を問わず、まずありえないと言って差し支えないのです。何か物事をはじめるのに一番必要なのはマスタープランであり、行動方針です。史上、確たるプラン・方針をもって天下を統一し政治を行った人はたった二人しかいないと思います。源頼朝と徳川家康です。
織田信長は強烈すぎるほどのプランを持っていたと思いますし、少しづつではありますがそれを実行してきましたが中道で倒れてしまいました。
豊臣秀吉にとって天下はいわば棚からぼたもちであり、昨日まで織田家中の一家臣であった身でプランなどを練る必要もなく、信長の死後は大慌てでとりあえず戦乱を終息させてることで精一杯でした。徳川家康が天下を意識したのは秀吉の晩年だったと思いますが、それでも秀吉に比べてはるかにプランを練る時間的余裕があったのです。平清盛と足利尊氏は言うに及びません。
夢を見る・・・つまり天下を夢見る・・・・ことは誰でもできますが、現実問題としてその実現に向けて計画を立案し、さらに実行するということは非常に困難なことなのです。
将門の時代、武士が朝廷に刃向い、坂東という限定された地域であっても支配下に収めるなどまったくの夢物語でした。それまで例のないことでしたから将門の行動を現代の目で批判しては将門が可哀想でしょう。
将門の乱と同時期に瀬戸内海で起きた藤原純友の乱は合わせて『承平・天慶の乱』と呼ばれています。この二つの乱は偶然同時期に起こったものですから、その後さまざまな説が飛ぶようになりますが、もとより流説・作り話にすぎません。
● この乱は二人が示し合わせて起こしたものだ ● 将門が在京していたとき純友と比叡山に登って山頂から京の町を見下ろして、自分は王族だから天子となろう、あなたは藤原氏だから関白になるといい、と話し合った ● やはり将門在京のとき、道端で偶然将門に会った貞盛は将門の叛意を知り、郎党を連れていたなら斬り捨てたのに、と言った
将門を倒した藤原秀郷も平貞盛も、将門に代わって坂東の支配者になることを目指したのではなく、朝廷に協力することで自己の勢力拡大を図りました。朝廷から見れば将門の乱は朝廷に武士の力をある程度認めさせ、武士が貴族の末端に仲間入りするきっかけとなったことも事実なのです。将門は時の朝廷、特に藤原氏のデタラメな政治に憤慨し、国司の横暴に苦しむ民衆を代表して反逆しました。将門は戦死しましたが彼ら民衆の願いは250年後、源頼朝の鎌倉幕府成立によってようやく実現するのです。