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出雲


出雲・・・この不思議な国
日本中が神無月のとき、神在月と言う国・・・・・

出雲のことは、知れば知るほど面白くなっていきます。

オオミワはんは、ジンムはんより先や

奈良県のある地域では、地元にある神武天皇の橿原神宮より三輪山にある大神(オオミワ)神社を尊崇している、と本に書いてありました。なぜなら大神はんは元々この地(奈良県・・というか奈良盆地)の神様であって、神武はんはその後やって来た、いわば「よそ者」だったからです。

では、大神はん(大三輪はん)とは何か。
大神はんは大物主(オオモノヌシ)と言われ、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別名とされています。
古代奈良県は出雲の勢力範囲であり、民衆は新しい王様(神武天皇)より自分達の古くからの王様を懐かしんでいるのかもしれません。

 

■出雲族

隆盛を誇ったオオクニヌシと出雲族は大和の攻撃の前にあっけなく滅び去りました。
オオクニヌシの次男、建御名方命(タケミナカタノミコト)は信州・諏訪まで逃げた時、大和の軍勢に追いつかれたため、命乞いをした結果、二度と諏訪から出ないことを条件に助命されました。タケミナカタを祭った神社が諏訪大社です。

 

諏訪大社

 

私はこの物語を聞いたときから、なぜ信州まで逃げられたのだろう、とずっと疑問に思っていました。
出雲から信州(長野県)まで直線距離で約500Km。
現在でもかなりの距離ですし、当時とすれば気の遠くなるような、異国どころか地の果てに等しい感覚だったことでしょう。

なぜ500Kmもの逃避行が可能だったのか

その疑問のはっきりとした答えはまだ出ていません。
しかし少なくとも古代出雲と信州は何らかのつながりがあったのではないか、おぼろげながらそう思っています。

つながりとはその事件以前からのつながりではありません。
当時は地域ごとにクニがあった時代です。
そのクニのなかで他を征服して次第に強大になったのが大和であり、時代は違うと思いますがクニの連合体の頂点に立っていたのが邪馬台国だったのです。

出雲というクニと信州にあったクニのつながりとは、もちろん例えば軍事同盟のようなつながりではありません。そこまで高度(?)な社会ができるのはまだまだずっと後のことなのです。

では私が何を思っているのか。

その前に、この事件(タケミナカタノミコトが信州に閉じ込められた事件)は神話であって事実(史実)ではない、ということを認識しておかなくてはなりません。
しかし神話だからといって、そんなことは嘘っぱちだ。考える必要はない、と頭から否定することもできないのです。実際にあった事件が神話になって語り継がれたと考えればどうでしょう。

私は出雲と信州のつながりとは事件前ではなく、事件後のことなのではないか、と考えています。もっとわかりやすく言えば、大和との戦争に敗れた出雲族の一部は出雲を離れて他国に流れていったのではないか。
他国とはいろいろあったと思いますが、一例をあげれば信州なのではないか、ということです。
さらに諏訪大社のことを説明するためには、信州でなければならなかった、ともいえます。

大和との戦いに敗れた後、出雲の人達は相当の数が全国に散らばったことでしょう。あたかもユダヤ人のように。
だとすればその痕跡が現在もなお残ってはいないでしょうか?


■出雲弁

松本清張氏の代表作「砂の器」の1シーンです。
長くて申しわけありません。

《前置き》

今西刑事は被害者がズーズー弁を話していたという証言を基に被害者のことを調べていくうちに、彼は東北地方出身者ではなく、岡山県の出身であることを知った。
不審に思った今西は国立国語研究所を訪れ、桑原文部技官にズーズー弁が東北地方以外でも使われていないか尋ねる。

◇ ◇ ◇

技官は厚い本を今西の方に見せた。
「あなたは、岡山県と言ったのですが、これには岡山県ではないが、ちょっとおもしろいことがのっているのです。さあ、ここを読んでみてごらんなさい」

今西は技官の表情から彼は何かを発見したことを直感した。それでさされた文字を期待をもって読んだ。

「中国方言とは、山陽・山陰両道のうち岡山・広島・山口・鳥取・島根の五県の方言を総称するものである。この方言をさらに二区に分ける。一は出雲・隠岐と伯耆(ほうき)との三国の方言で、これを雲伯方言と名づけ、その他の地方に行われる方言を、かりに中国本部方言と名づけたい。

もっとも因幡の方言は山陽道諸国の方言と相違する点もあるが、便宜上、岡山・広島・山口諸県と石見・因幡両国の方言を一括して考えることとする。

その出雲一国も細別すれば際限がないが、飯石郡の南部のごときは全く中国系で出雲方言でないのに、石見の安濃郡のごときはかえって出雲系である。伯耆では東伯郡はむしろ因幡に近く、西伯・日野両郡が出雲系であるといって大過ない。

出雲の音韻が東北方言のものに類似していることは古来有名である。たとえば「ハ」行唇音の存在すること、「イエ」「シス」「チッ」の音の曖昧なること、「クゥ」音の存在すること、「シェ」音の優勢なることなどを数えることができる。

ために学者間には、この両地方の音韻現象の類似を説明せんとして種々な仮説も主張されている。たとえば日本海沿岸一帯もと同一な音韻状態を保持していたところに、京都の方言が進出して、これを中断したと見るごときもその一説である・・・。」

中略

「出雲は越後並びに東北地方と同じように、ズーズー弁が使われている。世にこれを『出雲弁』と出雲訛りあるいはズーズー弁と称えられてわからない発音として軽蔑されている。このズーズー弁の原因について、次のような諸説がある。

(一)ズーズー弁は日本の古代音であるという説――日本古代の音韻はズーズー弁であったという。すなわち、古代には日本全国これを用いていたが、都会に軽快な語音が発達し広がるにしたがい、ズーズー弁の区域は逐次減少し、残された区域が出雲・越後・奥羽地方の辺鄙な所のみになった。

(二)地形並びに天候気象によるという説――出雲地方は僻地で結婚も近親のみでほとんど行われ、部落ごとに通ずる言葉だけで事が足り不明瞭に話してもよいという習慣が蓄積された。
あるいは降雨多く晴天に恵まれないため、人びとの活気を失いかつ冬季西風強く口を開くのをきらったのがズーズー弁発音の素因をなしている」

東北弁と出雲弁は似ている、とは古くから指摘されていたようです。
私がこの小説を読んだのは19〜20歳のころでしたが、読んだときは方言にも出雲の歴史にも興味がなかったので、ああそうなのかと思うだけで他には何も感じませんでした。

しかし、今は違います。
これこそ出雲の人達が国を出て全国各地に散らばった証拠ではないでしょうか?

出雲滅亡後、彼等出雲人がいきなり東北の地に行ったとは考えられません。
それに出雲の人達だけでなく、大和の支配を嫌う人達は中部地方から関東地方へ、関東地方から東北地方へ移動して行ったのではないでしょうか?

そして大和の勢力範囲が広がるにつれて、征服地では大和の言葉が使われるようになりましたが、完全に大和の言葉ではなく、その地域古来の言葉と融合したに違いありません。この現象は古今東西、征服者と被征服者の関係を見れば明らかです。

最後の征服地である東北地方は遠隔地であり、大和朝廷の征服が不徹底であったがため、出雲弁は東北弁として現在でも残っている、とは考えられないでしょうか?


先ほどあげた「砂の器」には、(一)ズーズー弁は日本の古代音であるという説・・・古代には日本全国これを用いていたが・・・という説がありますが、これは私には信じられません。この説が正しいとすると、古代日本の先住民族はほぼ単一の民族であったことになります。
そうでなければ統一的な言語を用いるなど不可能だからです。

私は基本的には古代日本人は東西南北、いろいろなところから海を渡ってきた人達の集まりだったと考えています。
もちろんそれは大和朝廷成立のはるか以前のことであり、その人達こそ日本の「先住民族」だったことでしょう。そしてやがて来る縄文文化の主役は彼らだったことでしょう。

縄文人は狩猟を中心とした採取経済でした。
これに対して紀元前数百年ごろ。
大陸からやって来た人達によって稲作がもたらされると、次第にそれは縄文人の間にも広まっていきました。弥生式文化です。

明治時代には大陸から渡来した農耕民族(弥生人)が、先住民族である縄文人を駆逐したとの学説がまことしやかに流布したことがありました。しかし大正時代になって各地の貝塚から大量の人骨が発掘され、人類学的研究が進むにつれてこの考えはまったく否定されるようになりました。
弥生人とはあるいは大陸からの渡来人であり、あるいは狩猟を捨てて農耕に転向した縄文人なのです。

狩猟と農耕。
大和は明らかに農耕文化に属する集団でした。

これに対して長い期間大和に抵抗した蝦夷(エミシ)は、縄文の特徴を色濃く残す狩猟中心の人達だったように思えます。
狩猟民族にとって食料は天から与えられるものであり、獲物を追って移動はするし、またその収穫量はほぼ一定でした。これは大げさに言えば経済成長はないということです。

一方農耕民族にとって、食料は自ら生産するものであり、耕地が広がれば必然的に経済も発展するし、そのための計画・組織力を必要とするものでした。
戦いというものが計画・組織力を必要とするものである以上、組織力で劣り連帯感に乏しい蝦夷の劣勢はまぬがれないものでした。

こうした中で、出雲族とはどんな民族だったのか。
狩猟民族だったのか、農耕民族だったのか・・・・・・・・・・・・。

◇ ◇ ◇

私はこのシリーズ(?)は、半分は思いつきで書いています(笑)
思いつきついでに私なりの考えを書きましょう。

それは蝦夷(エミシ)という文字にあります。

蝦とは別名エビのことです。
エビ、あの海にいる海老のことです。
また、夷とはエビスのことを言います。蝦も夷もWINDOWSの漢字変換でエビ、エビスから変換されますよ。

エビス講というものがありますね。恵比寿講と書きます。
毎年秋には全国各地の商店街で恵比寿講をするのではないでしょうか?
あの恵比寿講のエビスとは、もちろん商売の神様であり、七福神のエビス様のことです。
ちなみに七福神の大黒様とは、もちろん大国主のことです。

 

 

ではエビス様とは何なのか。

オオクニヌシの長男、事代主命(コトシロヌシノミコト)のことなのです。島根県の美保神社に祭られているエビス様は右手に釣竿、左手に釣った鯛を持っていることから、海の神様、漁業の神様でもあります。
あきらかに、エビス様(父親のオオクニヌシも)は農耕の神様ではありません。
出雲族もまた蝦夷同様、縄文人の特徴を受け継ぐ狩猟民族だったのでしょう。
あるいは蝦夷とは出雲族そのものなのかも・・・・・・長い前置きでしたが、要するにこれが言いたかったのです(笑)


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