I Love Basie
Basie とは言うまでもなくカウント・ベイシーのことです。
私はベイシー・オーケストラが大好きなんです。
■ 略歴
カウント・ベイシー(1904〜1984)は、デューク・エリントンと並ぶビッグ・バンド界の重鎮です。
1937年から1984年まで、ごくわずかな休止期間はあったものの、半世紀近くにわたって第一線で活躍していました。当初彼はピアノではなく、ドラマーを目指したようですが、仲間に後にエリントン楽団の名ドラマーとなるソニー・グリアがいたため、ドラマーになることをあきらめ、ピアノに転向したようです。
彼に最も影響を与えたピアニストは、ファッツ・ウォーラでした。
ベイシーのピアノは、あの「間」の取り方が絶妙なスィング感をもたらしますが、初期のころのスタイルは、ファッツ・ウォーラの影響で実に手数(てかず)の多い演奏だったと言います。
やがて彼はベニー・モーテンのバンドに入団します。1937年、ベニー・モーテンが扁桃腺手術の失敗で急死すると一部の楽団仲間、ジョー・ジョーンズ、ウォルター・ペイジ等と語らって独立し、ここにカウント・ベイシー・オーケストラが誕生しました。
彼にほれ込んだジョン・ハモンドがマネージメントを担当するようになります。
1938年にはフレディ・グリーンが参加し、オール・アメリカン・リズム・セクションが生まれたのです。
そしてレスター・ヤング、バック・クレイトン、ハリー・エジソン等、スィング時代指折りのスター・プレーヤーが参加します。
第2次世界大戦後の不況と新興のニュー・ジャズ、バップの台頭、ビッグ・バンドそのものの低迷などから経営衛に困難をきたし、1950年。
ついにオーケストラを解散し、一時的ながら7人編成のバンドを作らざるを得ない状況に追い込まれました。しかし1952年、オーケストラを再編成し、フレディ・グリーンはもとより、サド・ジョーンズ、ジョー・ニューマン、フランク・フォスター、フランク・ウェス等の一流プレイヤーが入団するようになります。
さらにリード・アルト、コンサート・マスターとしてマーシャル・ロイヤルも参加し、ここにベイシー楽団は絶頂期を迎えたのです。
1960年代はニール・ヘフティ、クインシー・ジョーンズ等のアレンジャーがベイシーにアレンジを提供するようになりましたが、その中で最も成功したのは、サミー・ネスティコでした。
正直言いまして、アレンジ重視の譜面はビッグ・バンドの基本として、多くの学生バンドにコピーされるようになりましたが、ベイシー特有の強烈な野性味は蔭にかくれるようになりました。これはベイシーにとって進歩なのか、後退なのか。
一概には結論付けられませんが、私は1950年代のベイシーこそ最高のベイシーと思えてなりません。1977年、彼は心筋梗塞で倒れますが数ヵ月後には復帰します。
1981年に再度倒れ、電動椅子でステージに上るようになります。精力的な活動はその後も続きましたが、1984年4月26日、ついに帰らぬ人となりました。
死因は十二指腸潰瘍とも膵臓ガンとも言われます。
■ 各時期における変遷
●カンサス・シティ(1937〜1945年)
カンサス・シティからニュー・ヨークに進出したベイシー楽団は、曲の素材をブルースに求め、強力なリズムに乗ったリフのアンサンブルは、ソロをサポートするためだけに存在しました。
テナー・サックスのレスター・ヤングとハーシャル・エバンス、トランペットのバック・クレイトンとハリー・エジソンに代表されるように、スタイルが明確に異なるソロイストを擁していました。
アレンジはアレンジと言うほどのものではなく、多くはヘッド・アレンジでした。
Pres on Key Note あのカンサス・シティ・7の演奏を含むレスター・ヤング絶頂期の録音です
この後、軍隊に入隊した彼には悲劇が待っていました。1944年3月22日録音
●バップが生まれた(1946〜1951年)
バップに興味を示したようですが、それを演奏に反映させることはできませんでした。
レスター・ヤング等が去った後、決定的なソロイストがいなく、中途半端な状態でした。経営難からバンドを一時的に縮小したことは上記のとおりです。
●黄金時代(1952〜1957年)
サド・ジョーズを初めとするスター・プレイヤーがわんさと集まり、生涯最高の時期を迎えます。
Basie in London、April In Paris はこの時期を代表する名演です。
Basie in London 実際にはロンドンではなく、スェーデンにおける実況録音です。
しかし、そんなことはどうでも良いのです。
1950年代を代表する名演。
ベイシーはこれでなくちゃ!1956年9月7日録音
April In Paris 表題曲はベイシーのなかでも私の最も好きな演奏の一つです。
1955年7月26、17日、1956年1月4、5日録音
●編曲はおまかせ(1958年〜1964年)
1958年にニール・ヘフティが編曲を担当するようになると強弱陰影、ソフトなムードが重視されるようになりました。
それまでのブルースを中心とした硬派(?)なバンドから、ショー・バンドとして方向を変えつつあった時期です。そのため聴く場合は少々物足りないところはありますが、学生バンドをはじめとするアマチュア・バンドには盛んにコピーされています。
Basie Plays Hefty ニール・ヘフティの作・編曲集。
彼の作品では「キュート」と「リル・ダーリン」がおなじみです。これはその「キュート」オリジナル演奏で、ドラムのブラッシュとホーン部の掛け合いがすばらしいです。1958年4月録音
One More Time この演奏は、やや中だるみでしょうか(笑) それでもベイシーはベイシーです。
1958年12月18、20日、1959年1月23、24日録音
Kansas City 7 1940年代のカンサス・シティ・7のニュー・バージョンです。
あのスィング感はそのままで、サド・ジョーンズ、フランク・ウェス等がコンボで熱演します。1962年5月21、22日録音
This Time by Basie クインシー・ジョーンズのアレンジでムーン・リバー、想い出のサンフランシスコ等、当時のヒット曲を演奏。
学生バンドにも盛んにコピーされました。1963年1月録音
●ポップは合わない(1965年〜1970年)
この時期は2人のフォスター、サド・ジョーンズ、ジョー・ニューマン等スター・プレイヤーが退団したため、決定的なソロイストに欠けてしまいます。
Days of Wine and Roses、Stranger in The Night、Shadow of Your Smile などのポップ作を乱発し、ベイシー・マシーンと批判されました。
Straight Ahead ポップス作を乱発しベイシーマシーンと揶揄されたスタジオ録音低迷期から脱出を果たした1枚。
米空軍バンドのアレンジャー、サミーネスティコの作品です。今でも「学生バンドの聖典」といわれるほどコピーされています。 1968年10月録音●目が覚めた(1971年〜)
Straight Ahead の成功でベイシーは再びオリジナリティに富んだスィングの真髄を発揮するようになります。
病に倒れながらも、その都度再起して世界中をまわりつづけたことは承知のとおりです。
■ ベイシーを支えた人達
●フレディ・グリーン
真っ先に上げるべき人は、この人以外にありません。
ミスター・リズムとも言うべき天才ギター奏者。
アコースティック・ギターをPAを使わずに生音で、しかもほとんど手首の動きだけで演奏しました。
テンポ・キープには厳しく、ソニー・ペインのドラムがともすれば走り気味になるので、そんな時は用意しておいた棒で叩いたようです(笑)作曲者としては、Corner Pocket と言う曲を作っています。私の好きな曲の一つです。
1911年生まれ。ジョン・ハモンドに勧められてベイシー楽団に入団しました。ベイシー亡き後もバンドの顔として活躍しましたが1987年死去。
●レスター・ヤング
レスター・ヤングの生涯には二つの悲劇がありました。
1944年以降の過酷な軍隊生活は、除隊後の酒と麻薬に溺れるきっかけとなりました。もう一つは彼自身の演奏スタイルが、デビューした時から、時代に先行していたことにあります。
時代に先行したと言っても、彼の演奏はまだまだ「モダン・ジャズ」ではなく、「一風変わったスィング・ジャズ」の範囲でしたが、世の中が彼の偉大さを認識した時には、彼はすでに生ける屍に成り果てていたのです。レスターは「コールマン・ホーキンスに似ていない」と言う理由でフレッチャー・ヘンダーソン楽団をクビになり、ベイシー楽団に入団しました。
●サド・ジョーンズ
おなじみジョーンズ三兄弟の次男。
April in Paris、Corner Pocket での彼のソロの出だし。
一見、アホなことを大真面目にやって、しかもサマになる人です。
しかもこの人は、トランペットは独学だそうですが、一体どんな神経(いや、才能か)しているんでしょう?コンボよりもオーケストラの方が生き生きとして、本領を発揮する人です。
ベイシー楽団を辞めた後もサド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラを結成し、一世を風靡しました。ベイシー亡き後、ベイシー楽団の指揮者となり、来日もしています。
しかしその後体調を崩し、指揮をフランク・フォスターに譲って引退し、北欧に渡って死去。
●フランク・フォスター
1950年代初めに入団し、フランク・ウェスと共にスターとなり、TWO FRANK と呼ばれました。
作曲家としては Shiny Stockings が有名です。
この曲は、ある日ステージで演奏していたら、客席に座っていた女性のストッキングが光に反射して、キラキラ光って美しかったからだそうです(笑)