国道17号線(新町〜高崎市上佐野町)
国道17号線は東京都中央区から埼玉県・群馬県を通って新潟市に至る全長346kmの道路である。
高崎 = 東京間はかつての中山道であり、高崎 = 新潟間は三国街道と呼ばれていた。
現代になっても関越自動車道が開通するまでは、群馬から東京へ行く重要な道路だった。古い道路である。
そのためだろう。都市部をはずれると大抵が一車線なのである。
渋滞解消のため所々でバイパスが作られている。
■ 神流川
国道17号線で埼玉県から群馬県に入ると県境に川が流れている。
神流川(かんながわ)という。
これから群馬に入る
民話によれば、神々の戦いがあって傷ついた神がこの川を流れて行ったとか。
神流川の名前もそこから名づけられたという。ここは織田信長の家臣で厩橋(前橋)城主、滝川一益と小田原、北条氏邦との古戦場である。
武田氏を滅ぼした織田信長は武田領だった上州を治めるため、滝川一益を派遣したのだ。埼玉県側から橋を渡って群馬県に入ると、右側に古戦場の石碑が建っている。
ここは群馬県の東京方面からの玄関、多野郡新町だ。*多野郡新町は2006年1月の市町村合併で高崎市になった。
● 神流川戦跡 本能寺の変を知った滝川一益は、中央の政変に応ずべく厩橋を出立したが、この地で北条軍と一戦し敗れてしまった。 北条軍も勝ったとはいえ、滝川軍を追撃する力はなく、滝川一益はそのため無事(?)に中山道を信濃に向かい、美濃に帰ることができたのだ。 |
地元の人でもこの石碑の存在を知らない人が大勢いると思う。私の妻はこの町の出身だが、私が言うまで知らなかったと言う。
まして地元外で自動車で通り過ぎる人にとっては、たまたま渋滞で停車中でもなければ気がつかないだろう。
この石碑を通り過ぎる。真っ直ぐ行けば新町バイパスだ。
最初の交差点の手前、目立たないところに斜め右に行く道がある.
それが旧中山道である。
■ 岩鼻地区
旧中山道に入り、自動車で10分ほど行くと今度は T字路になる。
右側へ行き、簗瀬橋を渡る。
作られて何年になるのだろう。ボロい橋である。この川は烏川(からすがわ)という。これが高崎市と新町の境界である。
水源は、群馬県と長野県の県境にある鼻曲山(旧倉渕村)だ。
橋を渡れば高崎市岩鼻町だ。
旧中山道は交差点を左に曲るのだが、ちょっと寄り道をして真っ直ぐ行ってみよう。
交差点をすぎてから左にある台地が岩鼻陣屋跡である。
● 岩鼻陣屋跡 寛延2年(1749年)、ここには周囲の天領や、関八州をを管理する陣屋が置かれた。明治に至るまで19人の代官が赴任したと言う。
明治元年、廃藩置県で岩鼻県ができるとここは県庁舎になったが明治3年、群馬県ができると岩鼻県は廃止となった。
階段が見えるが、これは天神山と言う古墳である。
今、ここには製薬会社の社員寮が建っている。
社有地なので、【社外の人の通行・駐車禁止】などという標識があるが、失礼して通行も駐車もしてしまった。失礼ついでに写真も撮った。(提案) せっかくの史跡なのですから、誰でも自由に見学できるようにしてください。
岩鼻陣屋跡前の県道の向こうには森に囲まれた公園がある。群馬の森である。
ここは市民の憩いの場だ。
敷地内の森は野鳥の宝庫(?)となっている。歴史博物館、近代美術館もあり、見学者も多い。
天気の良い日は家族連れやカップルで賑わっている。
● 群馬の森 右側の建物は歴史博物館、左側は近代美術館。
群馬の森の北側は、日本原子力研究所の高崎研究所だ。
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日本原子力研究所 ここはガンマ線照射や電子加速器などを用いて、高分子合成や食品滅菌などの研究を行っている。 |
寄り道をし過ぎたようだ。
道を戻って岩鼻の交差点を曲がり、旧中山道に出る。
しばらく行くとバイパスと旧道に分かれるが、旧道の方に行く。やがて高崎市倉賀野町(くらがのまち)に到着する。
■ 倉賀野町
そこには追分がある。
東京方面から見て右斜め後ろへ行く道は例弊使街道(れいへいしかいどう)と言う。
● 例弊使街道 写真は倉賀野町内(西側)より撮っている。
左側が例弊使街道、右にわずかに見える道は東京方面に向かう旧17号線(旧中山道)である。
江戸時代、日光東照宮の祭礼に朝廷が使者(例弊使と言った)を派遣した時、その使者は中山道を通って上州に入り、倉賀野宿から日光へ向かったのである。
上の写真の中央よりやや右側にある道標の写真はこのとおりである。 この写真は良く写っていないが、従是・右江戸、左日光と書いてある。
例弊使街道のこの後はここで紹介されています。
http://www3.kannet.ne.jp/~shrine/history00.htm (上州歴史探索 by 羅城門魔矢氏)
倉賀野は江戸時代、宿場町として栄えた。
今では昔をしのばせる旧家は少なくなっているが、多少は面影はあるだろうか。
● 本陣跡 江戸に向かう殿様が泊まる旅館があったところが本陣である。
今はスーパーマーケットになってしまい、当時の面影は全然ない。家来が泊まる脇本陣はこの先の銀行のところにあったという。
宿場町ができる前の戦国時代、この付近一帯は倉賀野氏が城を構えていたところでもある。
倉賀野氏の祖先は武蔵七党と呼ばれた武士団の一党、秩父氏から別れたと言う。
倉賀野氏が武田信玄に滅ぼされると、家臣だった金井淡路守秀景という武将が城主になったらしい。武田氏滅亡後、金井秀景は北条氏の配下となったが、豊臣秀吉の小田原攻めの時、倉賀野城は北陸から進撃してきた上杉・前田連合軍の攻撃で落城。その戦いで金井秀景は戦死し、倉賀野城は廃城となった。
ちょっと国道を離れて町の南側に行ってみよう。
南側には烏川が流れている。
● 倉賀野城跡 川岸近くの児童公園に行くと、【倉賀野城跡】という、いささか場違いのような石碑が建っている。
これがなければ誰もここが城跡だとはわからないだろう。
倉賀野城碑の西、1kmのところにある前方後円墳の浅間山古墳(せんげんやまこふん)は県内第2位の規模だそうだ。近くには大鶴巻、小鶴巻という古墳もある。
この古墳はかなりの大きさだ。全長173m。群馬県では2番目。全国でも49番目である。
付近の道や建物の都合で遠くから撮影できない。近くでは一度にカメラに収まらない。やむなく中央あたりから左右別々に撮影し、合成したのがお分かりだろうか?
左右の両端までが古墳である。
浅間山古墳
■ 佐野地区
倉賀野町を過ぎると上佐野町になる。
ここはあの謡曲、鉢の木で名高い佐野源左衛門常世(さの・げんざえもん・つねよ)がいたところだ。
● 常世神社 これは佐野源左衛門を祭った神社である。
ここは彼の住居跡だったという伝承があるが、さてどんなものだろう。
【鉢の木】
佐野源左衛門常世はふとしたことから下野(栃木)の所領を没収され、この地で貧しい暮らしをしていた。
ある雪の夜。
一人の旅僧を泊めた源左衛門は、もてなすものもなく、大切にしていた松、梅、桜の植木を折って火にくべて寒さをしのがせた。その時源左衛門は、その旅僧に「今はこんなにうらぶれているが、いざと言う時には真っ先に鎌倉に駆けつけるつもりだ」と言った。その後鎌倉幕府から御家人集合の知らせが届くと、源左衛門は言葉どおりに真っ先に鎌倉へ駆けつけ北条時頼と対面した。なんと執権・北条時頼はあの旅僧だったのだ。
北条時頼は、佐野源左衛門常世に褒美として松井田(松)、梅田(梅)、桜井(桜)の土地を与えた。
梅田、桜井は私にはわからないが、松井田は長野県との県境の町である。