群馬よいとこ

 

前橋市総社町付近


国号17号線を前橋市方面に行くと関越自動車道のガードをくぐる。
その先をしばらく行った左側は前橋市総社町だ。

ここは古い土地だ。
奈良時代、律令体制下における国府や国分寺があったのだ。

 

 

 

 

.上野国分寺跡(群馬郡群馬町東国分)

前橋市ではないが、隣接しているので失礼する。
天平13年(西暦741年)、聖武天皇は国ごとに僧寺、尼寺の建立を命じた。後に僧寺は「国分寺」と呼ばれるようになった。

現在でも全国各地に国分とか、国分寺と言う地名があるが、かつての国分寺の名残である。
有名(?)なのは東京都国分寺市だろう。

上野国国分寺は全国的にも早い時期に(749年ごろ)できたようだ。
東西220m、南北235m位の規模だったらしい。
七重の塔や金堂の基壇(建物の基礎)、塀が復元されている。

使われた瓦には「勢」の文字が入っているものがある。
同じ字形の「勢」の文字が入った瓦は、ここから東へ15Kmほど行った前橋市下大屋町にある上西原遺跡からも出土している。

前橋から東にかけた一帯には現在も「勢多郡(せたぐん)」という郡があり、当時ここで焼かれた瓦が各地に納められたのだ。

 

 

この跡地と塀は関越自動車道から見ることができる。

前橋インターチェンジから新潟方面に向かってすぐに左側だ。

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跡地の片隅に資料館がある。

訪問者は私一人だけだったので、管理人さんのお話を伺うことができた。

下にある復元図や七重塔の模型はここに展示されている。

 

 

復元想像図(文字は私が記入)

 

 

塔基壇(とうきだん)

この基礎の上に右のような七重塔が建てられていたのだ。実際の高さは60.5mあったようだ。

この模型は資料館に展示されている。

 

 

金堂基壇(こんどうきだん)

金堂の基礎である。
国分寺の中央に建てられたもので、本尊である丈六釈迦坐像(じょうろく・しゃか・ざぞう、高さ2.4m)がまつられていたという。

他にも吉祥天、十一面観音、四天王などもあったらしい。

 

 

上野国国分寺は、平安後期源平の騒乱期。源氏の勢力を弱めようと計った平家側の武将、足利俊綱(源氏の一族の足利氏ではない)が上野に攻めこんだ際、国府と共に灰燼に帰したという。

 


 

国分寺跡は前橋市と隣接している。
畑の一本道を東に行けば前橋市総社町である。

平安時代、全国における有名な神社を記したものに延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)があるが、上野国には大社が3社、小社が9社。合わせて12社があった。

国司(朝廷から派遣された、国の最高官)にとって、赴任した国の神社を祭るのは義務だった。
しかし国内各地へ出向くのを省くため、国府に近いところに、国内の神社を統合した神社を建立するようになった。

それが、総社(そうじゃ)である。
これもそのまま地名となって全国各地に存在している。

上野国国府の近くにも、もちろん総社神社があった。(今でもある)

 

上野国府跡(蒼海城跡)

上野国府については、その所在地を明記した当時の記録は存在しない。
ただ室町初〜中期、この地を領した武将の長尾氏の居城である蒼海城(あおみじょう)は、上野国府跡に建てられたという記録があるため、間接的に所在がわかるのだ。

その蒼海城にしても、今は跡形もない。
住宅地にあって、いささかさえない神社になっている。
蒼海城跡と書いた立て札によって、かろうじて城跡だとわかるが、その立て札も風雨で字が良く読めないほど古びている。

939年(天慶2年)12月。上野に攻め込んだ平将門は、国司の藤原尚範(ふじわらひさのり)から国司の印鑑を奪い、この地で巫女の神託により新皇を称したのだ。

 

(注意)
この長尾氏は、上杉謙信を生んだ越後長尾氏に対して、総社長尾氏と呼ばれている。

 

上野国府

対向車が来れば、すれ違いはできないほど狭い道に面している。

そんなわけで、カメラアングルがどうも良くない。全体を写せないのだ。

今、国府跡は御霊神社という小さな神社になっている。
せっかくの貴重な史跡なのだからもっと整備すれば良いのにと思う。

 

 

正庁は政庁のことだろう。
当時の上野国政庁の復元図が敷地内に掲示されていた。

この政庁の巨大なものが、宮城県にある多賀城なのだろう。

 

 


 

国府跡をはなれて産業道路を北に行く。
逆に南に行けば、国道17号線との交差点にはNHKの前橋支局がある。

 

 

二子山古墳

前方後円墳。
国指定史跡である。

6世紀後半にできたらしい。

前方部にも後円部にも石室があるのが特徴だ。

 

 

天狗岩堰

江戸時代初期1604年、総社藩主の秋元長朝(あきもと・ながとも)は、領民のために25kmにわたる用水路を拓いた。

 

工事にあたって、高崎藩主井伊氏に相談すると、「雲にはしごをかけるようなものだ」と一笑にふされたという。

また巨石があって工事が難航していると、どこからともなく天狗が現れて石をどけてくれたとも言う。
天狗岩堰の名前はそこからつけられた。

 

 

力田遺愛の碑(りきでんいあいのひ)

天狗岩堰完成後172年経った1776年、堰の恩恵を受けている地元の農民は、秋元長朝の徳をたたえて石碑を建立した。

 

その石碑が力田遺愛の碑である。
秋元家の菩提寺である秋元山光厳寺にある。

農民が領主を憲章することは極めて稀なことだ。これは秋元長朝が善政を布いたなによりの証拠だろう。

 

 


 

さて、東に行けば大きな川が流れている。
坂東太郎とも呼ばれた、日本で三番目の長さがある利根川だ。
石倉城や前橋城は、この利根川を天然の防衛設備として築かれたのだ。

前橋城の築城については諸説あるが、前述した蒼海城城主・長尾忠房が築いたのが始まりらしい。
ところが利根川増水で城は流され、残った三の丸を基に長野賢忠が再構築したのが厩橋城(うまやばしじょう)だと言う。

戦国時代、厩橋城は上杉謙信の関東経営の拠点であった。
城主は謙信の家臣、北条高広(きたじょう・たかひろ)だった。

もちろん小田原の北条とは別の人である。
ここはなかなか重要な場所にある。

南は小田原の北条氏。西には箕輪城を攻略して西上州を支配した武田信玄と、まさに三強の接点であった。武田信玄とは利根川で合戦をしたこともあったらしい。
石倉城は城というよりは砦といった方が正しいだろう。厩橋城の属城である。

いつのことからか、厩橋は前橋と呼ばれるようになり、厩橋城も前橋城となった。
慶長6年(1601年)、徳川家康は家臣酒井重忠に前橋城を与えた時

 

汝に関東の華をとらす

 

と言ったと伝えられている。
前橋城は宇都宮城(栃木)、川越城、忍城(共に埼玉)とともに関東の四名城と言われていた。

 

石倉城(二の丸)

戦国時代、上杉謙信の関東経営の拠点になったのは厩橋城である。
厩橋(うまやばし)は前橋の旧名で、厩橋城は前橋城の前身であった。

石倉城は厩橋城と利根川を挟んだ対岸にあった小城で、厩橋城の支城であった。

向こうに見える高層ビルは群馬県庁である。

 

 

前橋(厩橋)城跡

ここは現在は群馬県庁である。前橋城の遺構はほとんど残っていない。

 

 


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