サリカ法

〜英仏百年戦争の原因となった法典〜




 ヨーロッパ王家の多くで「女性の王位継承権を禁じた法律」として有名なサリカ法は、元々は紀元5世紀のフランク王国時代に溯る非常に古い法典です。フランクの部族の一つであるサリ族が定めたことから「サリの法(ラテン語で Lex Salica)」と呼ばれ、この中に土地の相続問題について「女性の相続を認めない」とする条文があったのですが、シャルルマーニュ時代(9世紀)までは続いていたこの法典も、後にはすっかり忘れ去られてしまいました。
 ところが、このすっかり埃にまみれて塵と化す寸前だった法典が、14世紀になって突如再び引っ張り出されることになります。当時のフランス王家であったカペー家は、始祖ユーグ・カペー以来初めて、直系男性の継承者を全く欠くという危機に直面していたのでした。少々長くなりますが、順を追って説明しましょう。

 そもそも事の起こりは、国王フィリップ4世の3人の息子たちの妃による不倫騒動でした。長男ルイの妃マルグリット、次男フィリップの妃ジャンヌ、三男シャルルの妃ブランシュ(ジャンヌの妹)が揃って家臣と不義密通したとされる一大スキャンダルで、裁判の結果マルグリットとブランシュの二人が有罪となって投獄・離婚され、マルグリットは後に夫の命で殺されたとも言われています。(フィリップの妃ジャンヌだけは潔白とされ、名誉を回復しました) ルイとシャルルはその後新たな妃を迎え、事件はひとまず一段落しましたが、事はこれだけでは終わりませんでした。

 その後、フィリップ4世の死去で長男ルイがルイ10世として王位を継ぎますが、彼は男子のないまま死去し、死後二人目の王妃が産んだ息子(ジャン1世)もすぐに亡くなって、直系の人物は幼い王女ジャンヌしかいませんでした。それまで女性の王位継承という問題が生じたことのなかったフランスではこれは一大事で、しかもジャンヌの母は先述のマルグリットであったため、ルイ10世の次弟フィリップが「ジャンヌは兄の子供でない可能性がある」との疑惑を指摘し、結局は彼がフィリップ5世として王位を継ぐことになります。しかしこれはあまりにも外聞の悪い話で、何とかジャンヌの継承権を合法的に否定する手段はないものかと討議の結果、引っ張り出されてきたのが「女性の相続権を禁じた」かのサリカ法だったわけです。元々は土地の相続について定めたものですが、これを拡大解釈して王位継承問題もこれに添うものとしたわけで、以後フランスでは女性の王位継承権は認められないことが定まってしまったのでした。(ただしこの時点では「女性の子孫」に関してはまだ問題にはなっていませんでした)

 というわけで、これによりフィリップ5世は自身の王位継承の大義名分を立てることができたのですが、しかし歴史の皮肉な巡り合わせと言うべきか、フィリップ5世自身もまた男子に恵まれず、更に後を継いだ末弟シャルル4世も同様で、結局フィリップ4世の子孫は息子たちの代で男系の後継者を全く欠く事態となってしまいます。この時男系の血縁者で最も近かったのがフィリップ4世の弟の息子ヴァロア伯フィリップで、彼がフィリップ6世として即位、ここからヴァロア王家が始まりました。
 ところが、ここでイングランド国王エドワード3世がこれに異議を唱えました。彼の母親はフィリップ4世の王女イザベルであったため、フィリップ6世よりも自身の方がカペー家の直系に近いと主張、ここで「国王の女子は女王にはなれないが、その子供に王位継承権は認められるか」が問題となります。結局フランス側は「国王の子であっても、女性は本人及びその子孫には王位継承権は認められない」としてエドワード3世の主張を退けますが、これでエドワード3世が納得するはずもなく(何しろ当時のイングランド王家であるプランタジネット家は、ノルマン王家のヘンリー1世の娘を通じて王位を継承していました)、この結果かの英仏百年戦争が勃発します。英仏両国の内紛も絡んで1世紀以上続いたこの戦争は、その間も何度か英仏王室の縁組みですったもんだを繰り返しましたが、最終的にはヴァロア王家の正統性を認める形で決着しました。(ただしその後も、歴代イングランド国王は18世紀に至るまでフランス国王を名乗り続け、自国では勿論サリカ法は採用しませんでした)




【百年戦争直前のフランス王位継承の過程】
 (数字はフランス王位継承の順位を表す)


  ┌――1.フィリップ4世――――┬―2.ルイ10世―――――┬―ファナ2世(ナバラ女王)  
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  |              ├―4.フィリップ5世
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  |              ├―5.シャルル4世
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  |              └―イザベル
  |                 ‖
  |                 ‖―――――――――――エドワード3世
  |                 ‖           (イングランド国王)
  |                エドワード2世
  |               (イングランド国王)
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  |
  └―――シャルル―――――――――6.フィリップ6世―――――ヴァロア王家へ
     (ヴァロア伯)



 そんなこんなで、結局フランスではそのままサリカ法が定着し、後にヴァロア王家が断絶した時もこれに従って、古くはカペー家に溯るブルボン家のアンリ(当時ナバラ(ナヴァール)国王)がアンリ4世としてフランス王位を継承、ブルボン王家が始まります。(ちなみにアンリの母方の祖母はフランソワ1世の姉マルグリットですが、王位継承権は彼女によるものではありません、念のため) ついでながら、ルイ10世からシャルル4世までの3人は母親がナバラ女王だったためナバラ国王も兼ねており、この間はサリカ法が適用されていましたが、カペー家断絶後は叔父たちに退けられたルイ10世王女ジャンヌがファナ2世としてナバラ女王に即位、その後ナバラではサリカ法は採用されませんでした。(ただし、アンリ4世以後は再びフランス国王がナバラ国王も兼ねることになり、サリカ法に準拠しています)

※なお、サリカ法の再発見並びに採用は一説によると百年戦争勃発以降とも言われますが、ルイ10世・フィリップ5世・シャルル4世の王女たち全てがフランス王位の継承を認められず、またナバラ王位も同様であったことを踏まえて、ここでは「フィリップ5世即位の時」としました。(ただし正直言ってあまり自信がないので、詳しい事情を御存知の方がおいででしたら是非教えて下さい)
 ところで、フランスの隣国スペインでもアラゴン王家がサリカ法を取り入れましたが、カスティリア王家は過去にウラーカという女王が存在したこともあって、サリカ法は採用されませんでした。(実はアラゴン王家もかつてペトロニラという女王が存在したのですが、これは考慮されなかったようです) その結果、後にカスティリア女王イサベル1世とアラゴン国王フェルナンド2世の婚姻により、スペイン統一が実現することとなります。
 さらに、イサベル1世とフェルナンド2世の結婚・即位と世継ぎ問題にあたって王位継承法が改めて討議され、カスティリア王位はイサベル1世の後も引き続き女王を認めるとしながらも、アラゴン王位については従来通り男性の国王のみと定められます。ただしそれまでのサリカ法とはやや異なり、国王に女子しかない場合はその女子の産んだ男子に王位継承権があるとされたので、この結果後にファナ女王を経てカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)へスペイン王位が引き継がれることとなりました。(なお、統一スペインはその後も何度か継承法を変えていますが、とりあえずここでは省略します)


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